暖かい闇

酒と食事と過去

家庭料理と民藝 ー補論①

「家庭料理と民藝」という題で書いたが、本文でも書いたように「素描」としての性格が強い。解決すべき点は多くある。今回のエントリでは、その解決すべき問題をここでは2点メモしておきたい。他にもツッコミあれば教えて偉い人。

 

1.家庭料理と民藝の相違点を等閑視していない?

 共通点を列挙し両者の類似性を指摘したものの、相違点の処理はなおざりになっていた。明確な相違点があるなら、その相違点を超えてでも両者が類似していると主張できるだけの説明をしなければならない。「多量につくられること」は「反復」をその本質において弁明したが、健康性(家庭料理は民藝のような工芸品ではない)、協力性(家庭料理は分業で作られるものではない)については、正当なエクスキューズを行っていない。これは弊ブログを読んだリアルの友人からも指摘されたことで、特に「協力性」のことについてこの相違点は無視できるほど小さくないだろうという指摘をもらった。たしかに、民藝の協力性という特徴に柳の込めた思いは強い。この相違を無視するわけにはいかないだろう。あるべき社会についての考え方が(ここらへんはウィリアム・モリスとの影響関係も追う必要がある)協力性に込められているからだ。モノと人とが融和した関係にあることで生まれる社会の結びつきに、理想の社会を描いている柳にとって、家庭料理を民藝と呼ぶのはたしかに不当かもしれない。しかし、現代の大量消費・大量生産の社会において、柳の理想はどれほど実現「可能」なのだろうか。個人的には、民藝が実現しようとしてる理想のすべてを実現するのは困難であるという前提を受け入れ戦線を後退させると、民藝の理想を実現する領域として家庭料理が残ってくる(相違点にこだわらず、民藝の理想を実現できそうな領域を残す)と思っている。戦線後退後の世界において、「家庭料理は民藝や」ということには一定の妥当性があるというのが現時点での私の回答になる。

 ともあれ、そもそも論として家庭料理は民藝なの?という疑問もある。健康性の項目でも少し述べたように、家庭料理は民藝のような工芸品ではない。モノを扱ってはいるが、食べるとなくなってしまうものだし。この差は、その美を顕わす本質において民藝と家庭料理は近しいと述べる際にも、なにかしらのエクスキューズを行っておかなければならない点である。そのためには家庭料理とはなにかということろから深く掘り下げる必要がでてくる。民藝との違いをよりはっきりと示したうえで比較する必要性が生じる。ここでも少しだけ触れておくと、家庭料理というのは様々なものが含まれた複合物である。さまざまな実践の複合でできている。さまざまな作業の複合だし、日常生活の一部であるし、感情が交換される場でもあるし、コミュニケーションの場であり、社会性の一部であるし…そういったものが、料理になって、はいっと目の前に出される。それを分析しようというのだから困難を伴う。この実践の体系全体を分析することは可能なのか。家庭料理の固有性をよりはっきりさせたうえで民藝と比べるという作業が不可欠だろう。

 

2.味の美醜を超えた先にある世界の多様性とは

 美醜を超えた先にある世界で美の法門を建立できると柳は考えた。その先の世界に土井は世界の多様性を感じ取ることを見出しているのだと私は読み取った。ではなぜ世界の多様性について感じ取ることが、味の美醜を超えた世界をあらわすのか、についてはさらに説明がなければならない。多様であることがなぜ嘉(よみ)せらることであるのか。これは山内志朗からの受け売りという部分強いのだけど、僕の頭の中では聖フランシスコの「被造物の賛歌」が思い浮かんでいた。被造物の一つ一つが神の顕現である。それに気づくこと、それを讃えること。世界の多様性を感じ取ることそのものが世界の祝福であるような、そんなイメージというか直感が私にはあって、これにかんしては土井善晴すら離れて、いつかどこかで説明したいと思っている。いまライプニッツの『モナドジー』を読んでいるが、ヒントがあるような気がしている。

 

以上、とりあえず書き終わって気になっていたことを備忘ついでに記録しておく。