暖かい闇

酒と食事と過去

映画『カラオケ行こ!』感想 一人称語りの映画への翻案技法と、少年の「天使主義的心中」について

弁明
・原作映画双方のネタバレ含みます。
・むちゃくちゃネタバレします。要注意です。
・続編漫画『ファミレス行こ。上』のネタバレも含みます。
・筆者は映画より前に和山やまの作品のうち『夢中さ、君に。』『カラオケ行こ!』『女の園の星』(1,2巻。3巻未読)をすでに読んでいてファンです。
・筆者は『夢中さ、君に。』のドラマも観ています。
・漫画は手元に置いて適宜読み直してながら書いているが、映画については記憶違いがあるかもしれない、というかところどころあると思います。
・この文字数書いて書ききれないことがいっぱいある…。

 

 映画を観る前日の夜に原作を再読した。面白かった。中学3年生合唱部部長の岡聡実が、歌が上手くならなければならない特殊な事情を抱えたヤクザの構成員・成田狂児に目を付けられ、カラオケに付き合わされ、歌を教えさせられる。変声期にさしかかり合唱部の活動に不安と焦燥を感じていたところ、聡実は狂児に翻弄されるというか手懐けられるというかしてしまい、ひと夏だけヤクザの世界に急接近してしまう、というコミックス一巻完結(続編『ファミレス行こ。上』発売中)の物語。ヤクザのお兄さん成田狂児と次第に懇意になるにつれ、カラオケで組員にこぞって歌評をさせられ、そのうえすごまれたり、薬物中毒者の危ない人に絡まれたりと、客観的に判断すると聡実は次第に危ない状況に巻き込まれていっているにもかかわらず(しかもまだ中学生だからね?)(原作で聡実は汗と涙をだらだら流す表情が多い)、他の和山先生の作品にも共通する訥々とした語りのモード、特に『カラオケ行こ!』にあっては、聡実による、自分を少し遠くから観察するような一人称語りによって、受け身な主人公が違和感なく成立している。実際に起きている出来事と語りのギャップに独特の可笑しみがあって、しかも、その一人称語りは実は高校の卒業文集の文面だったことが終盤に判明するというカラクリ付き。そして、卒業文集で物語られたストーリーはひと夏の幻影だったのだろうか、と思いきや、大学のため東京に向かう空港ロビーで狂児と再会するラストの提示&狂児からの発言「カラオケ行こ!」タイトル回収で、読者にその後の2人の関係性について想像の余地を残すという、ツボを押さえたBL漫画になっている。さらにさらに、巻末の狂児がヤクザの道に入るきっかけエピソードを読むと、読者は(すくなくとも私は)聡実の将来について不穏な類推*1を働かせてしまうというオマケがついている。コミックスを買ったときに読み飛ばしていたいろんなことに気づき、あらためて読むとむちゃくちゃ面白れぇーーーという感想を胸中に抱いて翌日劇場に向かったわけです。
 映画は、面白かった。原作に負けず劣らず面白かった。というかむしろ、部分によっては原作を超え出た面白さがあった。友人諸氏も観ており、とにかく脚本が、上手い、素晴らしい、と絶賛の声。私もそう思う。原作漫画から実写映像への翻案が上手い、と言ってしまえばそれまでだが、本作は、原作を深く読解し、そこに堅実で隙のない解釈を一つ一つ与えていく、地道な労力の積み重ねが結晶してできた作品であるように思う*2。思い返せば、映画オリジナル要素は結構多いし大きいし重たいのだが、そのいずれにも必然性があったように感じる。細かい部分については今回この記事が長くなっちゃったので割愛するとして*3、ここでは、原作漫画最大の特徴(と私が思う)「聡実による一人称語り」が映画で廃された*4という変更について感想を述べたいと思う。

 映画『カラオケ行こ!』では、なぜ聡実による一人称語りが採用されなかったのか? 聡実による一人称語りの替わりに、どのような仕掛けが施されているのか? そしてその変更は、原作の一人称語りのたんなる代替物なのだろうか? たんなる代替物に留まるのでないとしたら、原作との差分、つまり映画の独自性はどこにあったのか? そしてそれがどんな意味を持つのか? というところまで書きたい。

 

なぜ聡実による一人称語りが採用されなかったのか? 
 どうしても推測するしかない部分もあるが、その理由を考えたい。2点ある。
 まず、一般論として、漫画とか小説の一人称語りは、そのまま映画に輸入しないほうがいい。映像であるならば、やはり画で見せるのが正道だからだ。したがって、積極的に一人称語りを採用しなければならない理由がなかったのではないか。
 つぎに、原作の一人称語りは先ほど触れたように高校の卒業文集に書かれた、という建付けになっており、高校3年生時点から振り返っているという構造が映画における一人称語りの導入の阻害要因になったのではないだろうか。合唱コンクールの時期に変声期に差し掛かり、上手く歌えないのではないかという不安を抱える少年が、ひと夏、ヤクザのお兄さんに急接近してしまう、原作も映画もそういう物語だが*5、その少年のひと夏のまことしやかな体験談を、声変わりをとうに終えた高校3年生の青年が語り直す、というのが原作での一人称語りのモードだ。これが漫画であればある種の叙述トリックとして働く。四角枠で囲まれた一人称語りの聡実の声と、スピーチバルーンで発話される聡実の声は違う声だったのだ、ということが終盤で明かされ読者は驚くという寸法だ。ところが、これを映像で実現しようと思うと、一本の映画を撮影するために聡実役の俳優の声変わりが完全に完了するのを待つわけにはいかないし、あるいは、たかが3年の差で別の俳優を起用すれば、視聴者に不必要な混乱を生じさせるリスクを負うことになる。したがって、実写映像化に際し、そもそも主人公一人称語りが採用しにくい事情があったのではないかと推察される。

 

聡実による一人称語りの替わりに、どのような仕掛けが施されているのか?
 とはいえ、一人称語りを放棄すると主人公の心情を自分で語らせることができなくなるため、主人公の心情変化を伝える手段を別立てで用意する必要が生じる。本作映画では、主に以下の2つの仕掛けが一人称語りの替わりの役割を果たしていたように思う。①原作で多く描かれなかった合唱部の部活動パートの充実、②聡実の手による「紅」の歌詞の和訳、である。
 先に議論の前提として、一人称語りによる心情説明の一部を原作から確認したい。原作コミックス1/4くらいのところで、変声期に思い悩む聡実の心情と、そんなセンチメンタルな聡実の心にずかずかと踏み込んでくる狂児の様子を、聡実自身が語ってくれる箇所がある。以下の語りは、合唱部の木村先生にソロパートを任され、その直後すかさず、木村先生がもしものとき(聡実の声が出なくなったとき)のために和田を代理に指名したあとの場面である*6

ついに僕もアレを迎えてしまいました。/変声期というやつです。/最近になってとうとう声がかすれ、高音が出にくくなってきました。/成長期の1つにすぎませんが、僕にとっては大事件です。/必死にごまかしながら歌っても先生にはわかっていたようです。/自分の声に裏切られたような気分でした。/つらいです。/だからヤクザの面倒を見る心の余裕なんてないのです。/それでも狂児はやってきます。
『カラオケ行こ!』p.37,38

 ここで聡実は、声変わりが自分にとっての「大事件」であることを自ら読者に教える。

 この次のページからシーンが変わって、道端で学校行事のいちご狩りに向かう聡実を見つけた狂児が、半ば強引に、ヤクザが集まるカラオケルームに連れていく場面に転換する。そこで聡実は、歌の練習をするヤクザ連中に正直に歌の評言をするように強いられ、その結果、ヤクザの一人を怒らせてしまい怖い思いもする。しかしここで重要なのは、狂児が強引だったとはいえ、聡実自身が学校行事をサボって彼に付いていく選択をしたとも考えられることだ。このことから、自分の声の変化に対する戸惑いが先にあり、その心情を前提として、ヤクザの狂児に接近する導入となっていることは明らかだ*7。すなわち、いくぶん単純化してしまうと、ここで「声変わりに端を発する学校内の問題から逃げる → 狂児に接近していく」という図式が聡実に成立したのである。クライマックスで聡実は、合唱部から逃げた先で別の勝負に挑むことになるのだが、そこに向けての舞台装置がこうして準備されるわけだ。声変わりについての思い悩みが狂児に接近する導入になる点については読者側の読み込みが必要なものの(ただし、一人称語りは主人公による直接的な心情説明を可能にするものの、その語りを額面通り受け取ってよいかどうかは別問題である。ここでは、いちご狩りをサボった聡実側の選択については語られない。この語り手の信頼性については後述。)、聡実が抱える課題が一人称語りよってはっきりと言葉で提示されるため、物語を転がすための前提条件(声変わりに対する不安が行き場を探している)は容易に読者と共有される。
以上、原作における一人称語り心情説明と、それによって物語展開の前提が準備されていることを確認した。
 では、映画ではどうだろうか。映画では、合唱部パートを詳細に描くことで聡実の抱える心理的課題を観客に伝えている。彼を取り巻く人物との対比によって、状況を通して、彼の抱える屈託の輪郭がはっきり見えてくるようになっていると思われるのだ。
 映画ではどうやら、聡実の所属する合唱部は名門合唱部で、前年までコンクールで2年連続金賞を受賞する強豪のようだ。ところがその夏のコンクールでは銅賞に転落し、全国大会出場を逃す*8。原作の木村先生は映画で名前しか登場せず、産休育休で長い休みに入っていることが聡実と和田の会話で伝えられる。木村先生は映画では合唱部を2年連続金賞に導いた名指導者のようだ。その代わりに芳根京子演じるモモちゃん先生が合唱部の指導を担当している。
 大会後の放課後練習の場で、銅賞受賞について、芳根京子演じる顧問のモモちゃん先生と、2年生で聡実の後輩にあたる和田で意見が対立する。和田は金賞が獲れなかったことが悔しく、何がダメで、どこが改善点だったのか先生を問い詰める。先生はあっけらかんと、よくがんばったとみんなの努力を労う。3位入賞かて立派やで、技術も申し分ないし、声も出ていた、みんなはがんばったよと。それで納得しない和田に対して、強いて言うなら愛が足りなかった、歌は愛やで、と言い放つ。和田は納得せず、やがてその苛立ちは、狂児とのカラオケにうつつを抜かし(もちろん和田はそんな事情を知らないが)部活を抜け出したりまともに歌わなかったりする部長の聡実に強く向けられるようになる。
 モモちゃん先生にとってコンクールは来年も再来年もまた巡ってくる年中行事で、この学年でなんとしても勝たなければならいという気負いがない。明るく楽天的、は美点であるが、その明るさはかえって、3年しかない学生生活の生徒本人たちにとってのかけがえなさを等閑視する態度に繋がる*9。そしてその鈍感さにより、彼女は聡実本人にとっての声変わりの切実さにまで思いが至らない*10
 一方で和田は、過去2回、金賞に輝いた栄光の部で、聡実が部活動に不熱心な様子なのが許せないようだ。合唱部として、みんなで、努力して高みを目指したいと思っている。だがその熱心さによって、和田は、聡実が声変わりで悩んでいることに思いが及ばない。自分を含むみんなにとっての青春には熱心だが、個々人の身体に不可逆な変化がやってくるのだということも、その変化がもたらす帰結(聡実の場合はソプラノの声を一生失ってしまうこと)にも彼は気づいていないようなのだ*11
 先生も和田も過剰なところと不足しているところがあり、それらと聡実との対比によって、聡実の抱える課題がはっきりと浮かび上がる。声変わりによってソプラノ音域が上手く出せなくなってしまうのではないかという不安。たった一回の移行期間で、いままで出せていた音が一生失われてしまう不可逆性に対する恐怖*12。そして本人にとってのその切実さ。しかも、それは本人の努力ではいかんともしがたい性質のものなのだ。
 それをいまいちわかっていなくてもっと頑張らなきゃ、みんなも頑張るべきだ、と考えている子供な後輩。そして、不可逆な変化があってもそういうのは乗り越えられるしいつか思い出になるよくらいに考えているであろう大人な先生*13。和田のボルテージが上がって対立が鋭くなるほど、聡実は部活から離れていき悩みを深めていく。どうしたらいいかわからなくなって、部活から逃げ出し、狂児のもとに走ってしまうきっかけを作るには、じゅうぶん説得的な配置ではないだろうか。このようにして、映画においても「声変わりに端を発する学校内の問題から逃げる → 狂児に接近していく」という図式が構築される。
 以上のように、映画では合唱部パートの人物造形とその関係を丁寧に描くことによって、それら人物との対比対立を通して、思春期固有の身体の変化に由来する聡実の屈託の内実を、独白なしに鮮明に浮かび上がらせるのである。合唱部の人物描写の充実は、聡実の一人称語りによって説明されていた心情を別の手段で実現しているという意味で、一人称語りをいわば機能面において代替していると言えるだろう。
 次に、聡実の手による「紅」の歌詞の和訳が本作映画で果たした役割についてみていこう。映画ラストでは、聡実が読み上げる「紅」の和訳のナレーションを背景に、狂児が去った街の中を聡実が訪ね歩く。これはぜひとも実際に映画を観てほしいが、その彼の行動が見事に和訳の歌詞と一致し、彼の心情が「紅」の歌詞和訳に仮託されて表現されている。彼が語るのは「紅」の歌詞和訳であることから、これを彼自身の純粋直接な心情語りとすることができないものの、歌詞和訳に彼の心情が重ね合わされることで間接的に主人公の一人称語りを実現するという仕掛けになっているのである。さらに、歌詞和訳最後の大阪弁イントネーションで発音される「ぴかぴかや」の一言に、まるで原作の語りのどことないおかしみ(これは他の和山作品にも共通するテイスト)のニュアンスが代表されているようで、こんなに原作愛が凝縮された翻案ってありえるんだろうか、と舌を巻いた。
 「紅」の歌詞和訳は、機能面で一人称語りの代替になっているというよりは、歌詞和訳を使って主人公の心情を仮託させ、一人称語りに近しい(というかほぼ一人称語りと言っていい)語りを映画に招き入れる仕掛けだったと言える。

 

原作の一人称語りのたんなる代替物なのだろうか?たんなる代替物に留まるのでないとしたら、原作との差分、つまり映画の独自性はどこにあったのか?
 先に確認した一人称語りの代替となる①部活動パートの充実、②聡実の手による「紅」の歌詞の和訳、は原作の一人称語りのたんなる代替物なのだろうか? 代替手段の導入により、結果、当然ではあるが、原作と異なる映画の独自性が発揮されているように思う。①②それぞれについて、原作と映画の違いを検討したい。
 ①部活動パートの充実、その中でも和田の対立心とモモちゃん先生の無神経は、聡実にソプラノとして上手く歌わなければならないという強い規範意識を植え付ける。しかし、声変わりという本人の努力ではいかんともしがたい事態によって、その規範の履行に危機が訪れる。ソプラノとして上手く歌いたい、歌わなければならない、しかし、できないかもしれない、自分の意志や努力ではどうしようもない部分がある、というジレンマは原作でも示される心理的課題だが、これが人物同士の対立という形で顕在化しているため、原作よりもはっきりとわかりやすく提示されており、それだけでなく、顕在化しているがために実際に解決しなければならない課題として立ち現れる。これは原作とは大きく異なるところだと言える。
 原作において、和田は聡実と激しく対立する人物ではない。むしろ、聡実のことを慮っていさえする。原作pp.68-71で、外階段で一人練習する聡実のところに和田がやってきて、声を出すのがきつそうだからソリのパートを代わりましょうかと提案、最後の舞台は楽しく立ってほしい、苦しい顔で練習しないでも、無理をしないでほしい、と話しかける。それに対して「ええってもう」ときつめに返答するのは聡実のほうだ。このやりとりのあと、「和田の言うとおりでした。/練習すればするほど苦しいのです。」と、聡実の一人称語りが続く。原作の和田は、聡実の声の異変とそれによって苦しんでいる聡実に気付き、聡実にとってより良い方を考えた上で声をかける人物であり、映画の人物造形と大きく異なる。
 ここからわかるように、映画で和田が聡実と対立し物語を展開する力となっているのとは異なり、原作では他ならぬ聡実自身が自分の心理的課題をどんどん膨らませる張本人となる。原作における聡実は自身の感情についていくぶん自己完結的だ。自分自身の問題を自分自身の語りによって大きくさせていくこの展開は、表現として、聡実の一人称語りがなければ成立しない。一人称語りによる描写を省略する紙幅の経済面の効果や狙いもあるとは思うが、語りの力によってある種の正常化バイアスが働くため*14、主人公に受け身な性質が付与され、ヤクザとの奇妙な交流という異常事態がなぜか成立してしまう。
 さらに、ヤクザにかかわって中学生が危ない目に会うという異常事態よりも、声変わりの個人的問題のほうが本人にとって重大事になるというような逆転現象も発生する。これは、原作を読んだ人なら強く印象に残っているであろう、お守り投げつけシーンにおいて最も顕著に表れる。
 合唱祭が近いことからお互い個人で練習すること提案した聡実は、合唱祭が近づくにつれ不安が増していく。自分から会わないと提案をしたにもかかわらず、合唱祭の前日、ここに行ってはならぬと狂児から渡された手描きの地図を頼って、狂児を探しに街の治安の悪いエリアに来てしまう。そこで聡実は薬物中毒者の元組員に絡まれ、たまたま通りがかった狂児に助けられる。お守り投げつけシーンはそのあと、狂児が聡実を家の近くまで送る車中での出来事だ。
 その車中での聡実の一人称語りでは、一人語りによって彼の感情が増幅されていく。

このときなぜか僕はイライラしてどうしようもなかったのです。/なにをしてもうまくいかない苛立ちか、自分の未熟さや浅ましさに情けなくなったのか、ワケもわからず腹を立てていました。/涙も出そうになりました。/それこそ幼稚で甘えだと、更にイライラは募るばかりです。
『カラオケ行こ!』p.87

 彼の感情が増幅されていってると読者が解するのは、彼がそのように語るからだ。

 そのあと、狂児が「聡実くんも明日がんばってな/俺も頑張るから/言うて必死さは全然ちゃうねんけど/聡実くんはのほほ~んと歌いや」と語りかけると、聡実がブチギレ声を荒げて怒る。そしてお守りを投げつけて車を降り去っていく。歩いて帰る聡実の一人称語りは続く。

なぜあんなにも感情がこぼれてしまったのかわかりませんでした。/でもワケもわからず涙がでることってあるじゃないですか。/自分だけ可哀想な気分になって、悲嘆になってひねくれて/今思い返せばアホみたいです。
『カラオケ行こ!』p.90

 彼は自分の語りで増幅させた感情が大きいものであったことを認めつつ、これまた自分の語りでもって、読者に同意を求めながら鎮めていく。

 しかしちょっと待ってほしい。直前のシーンは聡実がヤクザにかかわったせいでとても怖い思いをするという場面だ。薬で頭のネジがはずれてしまった元組員に連れていかれようとするところ、狂児がバッグでこめかみを殴打し、殴打したところから血が噴き出し、人が倒れる。狂児に助けられた負い目があったとはいえ、冷静に考えれば、直前の出来事が怖かったとかなんだとかいうことについて泣いたり怒ったりしそうなものだ。しかしそれよりも、狂児を探しに危ないエリアまで行ったのにその狂児が自分の深刻な問題に対して「のほほ~ん」などと見当違いなことを言ったことに対し、聡実は感情を動かし激昂する。ヤクザにかかわったことで発生した異常事態は容易に看過され*15、それよりも聡実の個人的な問題がフォーカスされる逆転現象である。これは中学生らしいといえばらしいのでリアリティがないかといえばそうでもないが、たしかに語りの効果によって実現されていると言えるだろう。
 聡実は成田狂児に翻弄されていく受け身型主人公の人物造形となっていて、自分自身の語りによって、個人的な出来事に対しての感情を増幅させ、狂児への想いを強くしていく。原作では一人称語りが物語の推進力として機能するのだ。そして、高校3年生の時点から語り直されるひと夏の狂児との思い出は、一人語りをしている時点で、すでに本人の中でなんらかの決着がついているものとして読者に提示される。すなわち、彼の心理的課題の解決がどのように行われたのかは主題化されなくてもいい、ということになるし、それによってことさら読者が不自然に感じるとも思えない。むしろ読者には想像の余地が残って良いとさえ言えるかもしれない。
 それでは映画に戻ろう。すでに説明したように映画では一人称語りを推進力に使えないため、和田というカウンターを用意し、彼との対立により聡実の心理的課題を浮き彫りにし、物語を展開していく。だが、この対立は現実に人物の対立として顕在化しているために、聡実の心内で自己完結することができず、明示的解決が要求される。では、彼の問題はどのように解決されたのだろうか?
 聡実は合唱部から逃げて狂児に接近していき、ついに合唱部の練習をサボって、放課後、映画を観る部で過ごすようになる。そこに和田が乱入し、練習サボって何をしてるんですかと聡実に怒りをぶつける。そして流れから、映画を観る部の、巻き戻し機能が使えなくなってしまっている古いビデオデッキを壊してしまう。ここで和田と聡実の間の緊張は頂点に達する。聡実は果たして部活に戻れるのだろうか、と思っていると、聡実はビデオデッキが壊れたことに責任を感じていたのであろう、漫画では狂児を探しにやってくるヤクザ事務所がある治安の悪いエリア(映画ではミナミ銀座という名前)にある中古屋に、ビデオデッキを探しに来る。そこで薬物中毒者に絡まれ、狂児登場、バッグでこめかみを殴るという展開は原作漫画と一緒だ。
 そのあと2人はミナミ銀座を見渡せるビルの屋上に移動する。そこでお互いの決戦の日(合唱祭とヤクザのカラオケ大会の日)が一緒だということを知る。聡実が語りだす。もうこれで中学の合唱部で歌える機会も最後なのに、出られそうもない、上手く歌えない、もうソプラノが綺麗に出ないから、と心の内を狂児に吐露する。そこでの狂児の言葉が聡実にとって決定的となる。「アホやな、綺麗なもんしかあかんのやったら、この街はおしまいや」(という感じのセリフだったと思う)。聡実はこの言葉をかけられて嬉しそうににやける。ソプラノの声を綺麗に出して上手く歌わなければならないという彼を縛っていた規範が、ここで解除される。こうして彼はまた部活に戻っていく決心をする。
 彼の心理的課題は上手く歌わなければならないという規範に由来していたのだから、この狂児のセリフをきっかけに彼の課題は解決した、と言ってしまっていいのだが、これはいったいどのような解決だったのだろうか? 狂児の言う汚いものがないと成り立たない「この街」とは、屋上で見下ろした街である。そこはどこか? ヤクザの事務所があって、薬物中毒者が中学生に掴みかかり、ヤクザが集結してカラオケ大会を開くスナックがある街だ。聡実の心理的課題の解決は合唱部の外からもたらされるが、その出所には注意したい。彼は合唱部の内部で葛藤して自分の問題を解決したのではない。ヤクザのほうに軸足を置いて、合唱部の外に立って外から合唱部を眺めることで解決を図ったのだ。狂児は屋上のシーンで、ついに聡実を堕とすことに成功したとも考えられる(それを無意識に行っているあたり、魔性のヤクザ成田狂児なんだよな)。
 映画にもお守り投げつけシーンがあるのだが、聡実が激昂した対象が原作とは異なることに注意されたい。
 映画で聡実は狂児の言葉に勇気づけられ、合唱部に復帰する。納得がいかないのは和田だ。謝る聡実、納得いかない和田、仲裁する副部長の中川、三つ巴の口論が繰り広げられ、それを狂児が校門の外、黒塗りの車の中から眺めている。中川が狂児に気づき、聡実に行くよう促すと、いったん和田と中川は教室に帰り、聡実は校門の外の狂児のもとへと歩いていく。そこで狂児は「そらお年頃の男の子女の子やもんな、聡実くんも隅におけませんな~」(てなセリフだったと思う)と何の気なしにからかうと、聡実が激昂して罵詈雑言を言い立てる。「どうせあれやろ、くだらん想像してたんやろ、ちゃうわスケベなアホカス、狂児のドアホ!!」(てな感じだったはず)。原作での怒りの対象は、合唱部での不安を汲み取ってくれなかったことに対してだったが、映画での怒りの対象は、合唱部の女の子と恋愛関係にあることを邪推されたことに対してである。このシーンはヤクザの世界と学校の世界とで見事な対照をなしていて、聡実はヤクザの世界の視点を自分に導入することで合唱部と向き合う勇気をもらい学校の中にいるのに、狂児はその聡実を自分たちヤクザとは違うほのぼの青春学校ストーリーの一部として眺め、解釈する。そのことに対する聡実の怒りなのだ。同じ風景を見ている、あるいは聡実が見たいと思っている当人に、自分とは違うと拒否され、裏切られたことに激昂したのだろう。そしてお守りを投げつける。
 原作では、狂児と会わなくなって3年が経過した高校3年生卒業式時点から過去を省みて語られ、もうヤクザとの関係が断たれていることが示唆される(がラストにまた再開するんですが……)。一方映画では、ヤクザの世界に軸足を置いて別のものの見方を獲得することで心理的課題を解決し、合唱部に戻る決意をさせている。原作との違いは、映画のほうがずっとよっぽど聡実は不安定、ということだ。永遠に失われてしまうことが決まっている美声がいっそ失われてしまうなら、ヤクザの道に進んでもかまわない。彼は将来、狂児を追いかけてヤクザの道に進んでしまうのではないだろうか、とハラハラさせられる。
 このことは②聡実の手による「紅」の歌詞の和訳にも認められる。
 ②聡実の手による「紅」の歌詞の和訳の登場と、ラストシーンまでの流れを整理しよう。狂児と2回目にカラオケに行ったシーンのあと、聡実を自宅近くまで送る車中で、「紅」には「カズコ」の思い出が詰まっとんねん、と話す。そのあと映画を観る部のシーンで聡実は「狂児も「カズコ」の瞳に乾杯したんかな」と「カズコ」を想う狂児の気持ちに思いをはせる。それがなんなのかわからないまま、合唱部でソロパートの代理に和田を立てられるなどして、より一層合唱部から距離を置くようになった聡実は、再び狂児とカラオケに行く決心をする(本作映画2度目のタイトル回収、聡実の側からの「カラオケ行こ!」)。何度も狂児とカラオケに行くシーンが続き、ある日、聡実はカラオケボックス「紅」の歌詞を和訳する*16。大事な人が自分のもとから去ってしまって、その人の幻影を追い求めてしまう、そして心が紅に染まる、そんな歌であることを聡実は知る。「えらいこっちゃで~」と狂児。狂児が愛した「カズコ」がもういなくなってしまって、だからこの歌に狂児が拘っているのだろうと聡実は思い込んでいたが、実は「カズコ」は狂児の母親の名前で、女除けに「カズコの思い出がつまっている」などとデマカセを言っていたのだと種明かしされる。そしてヤクザカラオケ大会で紅を歌う聡実、ラストシーンで歌詞和訳を背景に、いなくなってしまった狂児を訪ねて街を彷徨う聡実に繋がっていく。
 歌詞和訳は以下のような推移で最終的に主人公の一人称語りへと変身する。
① 狂児 → カズコ
② 聡実 → カズコ
③ 聡実 → ∅
④ 聡実 → 狂児
 狂児には過去にカズコという想い人がいた、と聡実は思っている(①)。聡実は狂児の気持ちを知るために、歌詞和訳を通して狂児からカズコへの想いを知ろうとする(②)。だがカズコなどという人物は想い人ではなく虚偽であった(③)。聡実は歌詞のとおり狂児を追いかけてカラオケ大会に出場し「紅」絶唱*17、ラストシーンで狂児のマボロシを求めて街を彷徨う(④)。
 お分かりのように、カモフラージュしているようで、これじゃもうほとんどその感情が恋慕であることを暴露しているようなものなのだが*18、重要なのは、この(疑似)一人称語りは現在の聡実の心情をそのまま語っているものでしかありえないということだ。
 原作の一人称語りは、何度も繰り返しになるが、3年後の高校3年生になった聡実からの振り返りの語りだ。しかも卒業文集である。想定される読者は高校の同級生だ。それゆえに、敢えて語っていないこともあるだろう。ヤクザとの急接近などというにわかには信じがたいまことしやかな話としてそれは語られる(同級生の女子による「あれほんまかなあ」というセリフがある)。卒業文集という媒体であることから、仮に聡実が狂児に対して恋心(かそれに近しい感情)を抱いていたとしても、それが語られることはないだろう。卒業文集であるがゆえに多くの語り落としが原作にはあると考えるべきだ*19。この語り手を100%信頼するわけにはいかない。
 しかし他方で、映画においては、和訳をしたのも、歌詞和訳が語られるのも、その夏(~秋)の同じ時間の枠内である。だからそれが心情を表すとするなら映画内で流れる時間のその今の感情であることになる。また、これは状況から判断して(歌詞の内容と行動が一致していることから判断して)、歌詞和訳の語りは聡実から狂児に宛てられた手紙(ラブレター)だ。以上により、「紅」の歌詞和訳は現在の聡実の、狂児に対する感情を告白する一人称語りであり、原作の一人称語りとは大きく性質の異なるものになっていると言える。原作では覆い隠していた部分を、映画では全面的に暴露してしまっている。
 そのことにより、聡実の身分の不安定さが強調される。歌詞のとおり、その後彼は狂児を追い求めて行ってしまうのではないだろうか。映画では、映画を観る部の部員が卒業文集の真実性に疑義を呈する女子高生の役割を担っていて、狂児との体験を「幻やったんちゃう?」と要約しようとするので、聡実が現実に連れ戻される希望は残されている*20、と思いきや、すぐに裏切られる、しかもエピローグでも裏切られる。おい。ここで完全に縁が切れていたら、すなわち、映画を観る部の部員の言うように、ひと夏のマボロシで終わっていたら、少年が異世界に迷い込み、成長して帰ってくる成長譚で終われたはずなのに、そうはならない。やはり聡実の将来についての不穏さがそのまま放置されてこの映画は終わる*21

 

映画の独自性がどんな意味を持つのか?
 以上確認したように、原作がその語りにより覆い隠していたこと、語らず読者の想像に委ねていたことが、映画では暴露される。ヤクザのお兄さんが、中学生を籠絡し、反社の道に引きずり込む、という物語である。しかもその中学生を実在の思春期の俳優が演じるのだから、映画のほうがずいぶん危なっかしいことになっている。
 原作は漫画だし、BL作品というジャンルの文脈に乗せれば、ヤクザと中学生の関係もよくある「設定」として流せるかもしれない。しかし、実写映画にするとそういうわけにもいかない。そこでもって、本作映画はそこをマイルドにしたりすることなく、むしろ原作の語りの距離感によって覆いがかけられていた部分を取っ払い、さらなる先鋭化を施し、その危うさ提示してみせる。
 ところで、映画の聡実は部活の中だけで自分の問題を解決できなかったのだろうか? おそらくできないことはなかったと思われる。最終的に合唱部から逃げることになっても、挑戦することになっても、そのとき綺麗なソプラノボイスが失われていても、自分のポジションが他人に奪われていても、どの帰結であれ、彼は先に進めだだろう。なぜなら、彼の周囲の人物はみんないい人だからだ。モモちゃん先生は多少鈍感だが、先生として間違った采配をしているわけではない。彼の味方になってくれる副部長もいるし、母親も父親も彼の意見を尊重し、見守ってくれている。映画を観る部のあいつも聡実に逃げ場を用意してくれている。和田だって、ちゃんと話せばわかったはずだ。よい友人、よい指導者、よい両親に囲まれている。
 ここから私は2つのことを思う。
 ひとつには、周りの大人は他にできることはなかったのだろうか?ということだ。聡実にもう少し踏み込む人がいたら、何か変わったのではないか。本作映画は大人の観客に向けて、大人として我々が襟を正さなければならないことがあるだろう、というメッセージを発信している(というように私は受け取った)。
 もうひとつは、青少年の持つ危うさの普遍性である。これは思春期に限らず広く青少年期の若者に共通すると思われるが、あとから振り返って、どうしたってどうやったって取り返せないものがある。今回の映画ではそれはソプラノの声だし、その喪失と並行して聡実が狂児にどうしようもなく傾倒してしまった経緯全体である。このような青少年のいかんともしがたい危うさは、多くの人にとって自他ともに見聞き経験したことのある普遍的なことではないだろうか。聡実がヤクザに接近することをいったい誰がどのようにどの時点で止めることができただろうか。できたかもしれないが、漏れ落ちることがある。映画の聡実の周囲にいる人物の中に、明白に悪手を打っている人間がいるとはやはり私には思えない。それにもかかわらず、ときにふとした拍子で若者が転落していってしまうという現象は、そのすべてを防ぐことは到底できず、いつの時代にも起こりうる普遍的な現象であるように思える。

 映画のとある場面で、狂児は聡実の声を「天使」と評した。

 (じゃないほうの)アドラーは『天使とわれら』(稲垣良典訳、講談社学術文庫)で、パスカルの「人間は天使でもないし、けだものでもない。不幸なことに天使のように振舞おうとする者はけだもののように行動してしまう。」という言葉を紹介し、加えて人間は、自分が天使と似ても似つかぬ存在であることを理解しなければならないと強調する。人間は天使と違い物体性を有するがゆえに、知性は知覚や記憶や想像に惑わされ、意志は情念に揺さぶられ、さらに時間的に有限の死すべき個体である。そうであるにもかかわらず、人間が肉を持つゆえに科せられる様々な制限がさも存在しないかのように錯誤する誤謬を、彼は「天使主義的虚偽」と呼んだ(4部9章)*22

 聡実は声変わりという避けられぬ身体変化が避けられぬことを当然知っている、そのくらいに聡い少年である。人間は天使になることはできない、それならいっそ、成長とともに永遠に失われてしまうこの声を道連れに、地獄まで狂児と一緒に行こうじゃないか*23。聡実本人にとってはそうすることが必然としか思えないような思い込みが働いていたこととだろう。不可逆な身体変化とともに今までの自分をも否定し、まるごと棄却してしまわなければならない*24と思い込んでしまうのは、人間が天使でないことを許容できないことに由来し、その点で、この思い込みは天使主義の一つのバリエーションである。この誤謬にもとづく彼の行動をモーティマー・アドラーの「天使主義的虚偽」になぞらえて言えば、聡実の危うい狂児への傾倒は「天使主義的心中」である。永遠に失われてしまうのであれば、それ以外のすべてもいっしょにかなぐり捨ててもかまわない、いやむしろ、本人にとってはそうしてしまわなければならないと考える他なかったこと。自分の美声を殺してでも、死んだ*25狂児に成り代わって「紅」を歌うのだという決断は、彼の「天使主義的心中」であった。

 喪失することが不可避である自分の可能性と離別し、どのようにしても実現することがなかった自分を殺すこと。その苦々しさを引き摺って進むのが大人であり、その苦々しさを引き摺り続けることが青春の正体である。たいていの場合、人はそれでも生きていく。なぜなら、そもそも人間は天使ではないのだから。だが、それを受け入れられないとしたらどうか。青少年の魂の器はあまりに心もとない。大人は今現在の自分を過去の自身の数々の選択の結果であると知るし、選択が許されなかった過去ついても、運命を受け入れ、自身の意志によるさらなる選択によって過去を塗り替えていく術を学ぶ。しかしはたして、年を取った(当方現在33歳)者どもは、かつて自分がどのようにして青少年期の危機を切り抜けたのだったか、覚えているだろうか?*26 不可能以外の方法ではありえなかった、消えていったもう一人の自分に思いを馳せることができるだろうか? 聡実の「天使主義的心中」を、ただたんに虚偽にもとづいて極端に走る愚かな行為だ、とだけ指摘して片づけてしまうことは、簡単なことではない。本作映画では聡実の将来を不穏なまま開いておくことで、青春期の誤謬が避けがたく、そこから発する行為の愚かさもときにいかんともしがたいものであることをまざまざと提示してみせた。すくなくとも私にはそのように思えた。

 その点で、映画が原作への強い批評になっていると思ったので記しておく。お約束の部分がお約束では済まされないと再提示したこと、そしてそれが若者にとっての普遍的な主題を扱うものであること。このことは本作映画の素晴らしさの一部を担っていると私は思う。

 最後に、あらためて、そもそも悪い方向に進まないようになんとかできなかったのか。やはり大人は考え行動し続けなければならない*27。さらに、転落した若者がいるとして、その若者を救うには、こちらからアウトリーチしていなかないとどうにもならないし、アウトリーチしてもどうしようもないことも多いが、やはりそれでもやらなければならないことがある。最後の最後に、教訓話みたいになってしまったが、大事なことだと思うので。

 

 

以上。

 

*1:聡実も将来ヤクザの道に進んでしまうのではないかという類推

*2:というかこのレベルの翻案がサラリと作られたものであってたまるか

*3:いろんな仕掛けがいっぱいある。ほんとは忘れないように余さず書いておきたい。

*4:全編に亘る一人称語りのモードが採用されなかったことを指す。映画を観た方には明らかだろうが、映画ラストに一部一人称語りが採用されている。しかしこれも純粋な一人称語りというわけではなく、別のモードを設定したうえでの間接的な一人称語りの導入となっている。後述。

*5:原作の時間スパンは梅雨から8月11日の合唱祭まで、映画はおそらく9月上旬から10月中旬までなので「ひと夏」とするには少し時期がズレるかもしれない…、けど便宜上ひと夏でいかせてくれ。

*6:原作で、ソロパートを指名されたとき聡実の表情は気恥ずかしそうにしながらも嬉しく感じていることが読み取れる。そのあと、和田がもしものときの代理に指名され、しかも「声がでんようになったりしたときのための」と先生が言葉を繋ぐと、その次のコマで聡実はスピーチバルーンで「………」と無言になり、うつむきがちになる。細かいが、ここでの3コマ、先生の目から光彩が消え、2コマ目では口元が隠れ、3コマ目では眼鏡のフレームで眉毛と上瞼が隠されている。和田の代理指名の説明をする先生がどんな表情でそれを言っているのか直視することもできない聡実の落胆の心情が伝わってくる。

*7:聡実が狂児とはじめてカラオケに行く場面、原作p.25で、「紅」を歌った狂児に率直な意見を求められ「終始裏声が気持ち悪い」と述べる聡実がここで繋がる。変声期前ならば裏声でなくとも歌えるであろう歌を、裏声で歌う大人(でヤクザ)に対する複雑な気持ちがあったことだろう。そしてここは漫画を漫然と読むだけだと読み落としてしまうだろう箇所(なぜなら漫画は音を出さないので)で、映像化によって鮮明になるところだろうと思う。

*8:コンクールの会場で和田になぜ負けたんでしょうかと問われた聡実は自分のせいじゃないかなと答えるが、この発言は映画序盤の時点で聡実が自分に変声期が始まりつつあることに気づいていたことを匂わせている。

*9:この先生を芳根京子が演じるってとこがよかった。芳根京子というと明るく前向きな人物を演じていることが多い印象があるが、芳根京子がスピンオフで学生や新米教員時代を演じたら、きっと持ち前の明るさと楽天主義で逆境を乗り越えていく主人公だったと思う。芳根京子だから、明るい人間が悪意なく生み出してしまう無神経さのリアリティが出ていたと思う。

*10:ただこの先生が教師として失格だとは私には到底思えなくて、基本姿勢として生徒の自主性を重んじ、管理して自分の思い描く方向に生徒を指導するようなことはしない。さらに、管理者の立場としても、もしものときのために和田を補欠に立てるという適切な対処を行っている。至極まっとうに仕事する教師に思える。

*11:だから同合唱部の女子たちからはやれやれ子供だな、という目線を向けられる。それも和田にはわけがわからなくてさらに苛立っちゃう。

*12:映画を観る部のビデオデッキがなぜか巻き戻せなくなっているのは、聡実の変化の不可逆性と並行関係にある。

*13:ここで、じゃあ副部長はどうなの?と思うだろう。おそらく、副部長は同い年でありながら先輩であると言える。聡実、副部長、和田トライアングル/それを眺める狂児のシーン(その後に聡実によるお守り投げつけシーン)では、「生理現象」の「生理」の意味について聡実と副部長で認識の齟齬が発生していたことから察せられるように、本作映画では男性の声変わりに女性の生理が第二次性徴期の不可逆な身体変化として対置されており、その意味で副部長は聡実の先輩である。だが、彼女はなにかにつけ聡実の擁護者となるが、聡実の理解者にはならなかったようだ。月並みな説明になるが、学校の男子と女子の隔たりによるものだろう。

*14:原作の語りは高校3年生時点から振り返って語られるため、落ち着いた筆致になる。

*15:ヤクザに巻き込まれる異常事態を看過している、のは高校3年生時点の聡実であって、彼の表情はしばしば汗と涙でぐちゃぐちゃになり絵は彼の置かれた事態の異常さを如実に表現する。高校3年生の時点の聡実が敢えて語り落としていることがある。

*16:ここは狂児と遊んでばかりいるわけにはいかない英語の勉強を兼ねた行為で、中学生の日常を描いていていいシーンだと思う。

*17:「紅」絶唱シーンの回想が、過去のシーンのそのままの反復ではなかったことに注意。狂児が聡実に傘を差し掛ける場面は回想のときのみ、聡実の顔に光が差している。狂児にミナミ銀座で助けられ、財布を拾い上げ渡されるシーンも、回想シーンのみ聡実目線で撮られている。狂児は、聡実のなかでいつのまにか「ぴかぴかや」に変化していた。

*18:この点、原作よりBL強めになっている。

*19:原作の一人称語りが敢えて語り落としているところ、うっかり暴露しているところ、で指摘できるところはいくつもあるのだが長くなるのでリアルの友人には会ったとき話します。

*20:しかも、聡実の不可逆な変化が巻き戻せないビデオデッキと並行関係にあるなら、VHSが巻き戻せたならば聡実ももとのふつうの中学生の日常に戻れるとぬか喜びしてしまうじゃないか。でもこれは、次の世代の聡実ではない誰かの不可逆な変化が何度も何度も訪れることの暗示なのかもしれない。

*21:これは続編の『ファミレス行こ。』上巻のラストまでを含んだ聡実を思わせる。

*22:「天使主義的虚偽」はアドラーデカルトに端を発する近代哲学を批判する文脈で使われる用語なので、今回の感想の文脈と完全に一致するわけではない。ここでは「人が肉を持つゆえに科せられる様々な制限を認めず、制限に由来する帰結を忌避する態度」くらいに受け取ってほしい。

*23:喧しゅうゆうてやってまいります、その道中の陽気なこと〜。これは「地獄八景亡者のカラオケ」。

*24:人間は天使ではないので実際にはそんなことはないのだが…と大人は大人で思い込んでいるのではないか。その大人の思い込みはときとして人間をけだものに堕してしてしまわないだろうか。

*25:死んでない

*26:どのようにして自分が青少年の危機を乗り越えたか忘却した人物が芳根京子演じるモモちゃん先生である。

*27:ガチガチに管理すれば解決することでもない。社会も大人もリスクを許容したうえで子供と接するしかない。

『マリア様がみてる』アニメ視聴メモ スール制度のもつ光と影の二面性

※最初に弁明しておくと、アニメは4期分ぜんぶ観たけど、私は小説のほうは一切読んでいないので、限られた情報で『マリみて』について書いています。

 

マリア様がみてる』のアニメ4期分を去年から今年にかけて通しで観た。私は2004年当時、一部リアルタイムで視聴していた。それが深夜アニメ初体験(ほんとを言うとガングレイヴ最終話の最後10分くらいを観たのが最初だったけど)だったのでけっこう思い入れがある。そのあと2期の春は放送当時何話か観て、大学生のときに1期を2,3回観た程度だったかな。今回通しで観てみるとかなり印象が変わって、そのところの私の受け取り方の変化を書き残しておこうと思う。

 観る前は、やっぱり『マリみて』と言えば、佐藤聖久保栞の悲恋エピソードでしょ!!という印象が強かったのだが、あらためて通しで観ると、佐藤聖久保栞ペアにみられるようなあからさまな恋愛描写はむしろ傍流というべきで、どうやら姉妹の友愛や親愛を丁寧に描くことのほうが本流と言ってよいだろう。だから百合作品ではないということにはならず、立派な百合作品だと思うのだが、それをして(つまり、あからさまな恋愛関係に発展することは稀ということをもって)『マリみて』を「ソフト百合」と呼称する向きもあるようだ。
マリみて』において恋愛関係はほのめかしに留められており、百合は作品外部の視聴者・読者の想像力延長上に設定されているのだと見る受容の仕方が「ソフト百合」の「ソフト」という呼称に込められた意図だと思うのだが、(この理解が的を射ているとして、)私は『マリみて』はそういう意味での「ソフト百合」作品ではない(と思う)。『マリみて』は百合の可能性が常に秘められており、作中で現実化していないだけという類の物語ではない、というのがこの記事の主張になる。視聴者・読者にとって百合がどうのこうのではなく、作中人物たちにとって百合関係を築くことがどのような意味合いをもつか、百合関係を築くことにどのような制約条件があるのか、の視点を持ちたい。

 本作では百合が無条件に前提されているわけではない。それだけでなく、『マリみて』の世界のなかで百合を成立させる条件そのものに踏み込み、その条件に拘束される人間関係を描いている。そこで生まれる悲喜劇が本作の魅力だ(と私は思った)。その意味で、『マリみて』はけっして百合作品の典型とは言い難いのではないだろうか…? 以下、1期の各エピソードを中心に拾いつつそのことを説明したいと思う。

マリみて』の作中人物たちはどのような学園で生活しているのだろうか。作中人物たちを陰に陽に規定するリリアン女学園という場とその機能について確認しておきたい。

さわやかな朝の挨拶が、澄みきった青空にこだまする。マリア様のお庭に集う乙女達が、今日も天使のような無垢な笑顔で、背の高い門をくぐり抜けていく。汚れを知らない心身を包むのは、深い色の制服。スカートのプリーツは乱さないように、白いセーラーカラーは翻さないように、ゆっくりと歩くのがここでのたしなみ。もちろん、遅刻ギリギリで走り去るなどといった、はしたない生徒など存在していようはずもない。
私立リリアン女学園
明治三十四年創立のこの学園は、もとは華族の令嬢のためにつくられたという、伝統あるカトリック系お嬢さま学校である。東京都下。武蔵野の面影を未だに残している緑の多いこの地区で、神に見守られ、幼稚舎から大学までの一環教育が受けられる乙女の園。時代は移り変わり、元号が明治から三回も改まった平成の今日でさえ、十八年通い続ければ温室育ちの純粋培養お嬢さまが箱入りで出荷される、という仕組みが未だ残っている貴重な学園である。

 上記は原作小説の序文だそうだ(原作読んでないからここだけインターネッツで言及されていたのを拾いました許してください)。
「出荷」という言葉にギョッとするかもしれない(アニメのオープニング前口上では省かれている)。しかし、「出荷」という表現は大袈裟すぎるとも言えない。彼女たちは良家の子女である以上、男たちの利益のための交換財である宿命を負う。2024年になったいまでも、程度の差はあれ、良家の子女(男女問わず)に対して「ふさわしい」結婚をするようにというプレッシャーが周囲からかけられる事情は変わらないだろう。祐巳が祥子のスールになるまでを描く『マリみて』最初のエピソード(アニメ1期1話~3話)では、どこに出しても恥ずかしくないお嬢様として育てられた祥子の姿が示される。
 祥子は小笠原グループ(なんかすごい企業らしい。財閥的な?)の一人娘である。1期2話のダンス練習場面で、蓉子(祥子のお姉さま)が祐巳に語る場面がある。

蓉子「祥子はね、正真正銘のお嬢様だから社交ダンスくらい踊れて当たり前なのよ。」
(中略)
蓉子「祥子は5歳のときからバレエを習っているし英会話やピアノ、茶道や華道、みんな一通りできるの。中学のときまでは毎日なにかしらの家庭教師が来ていたみたいよ。」
祐巳「へえ なんだか別の世界の話みたい。」
蓉子「でしょう? 息が詰まっちゃいそう。だから私がみんな止めさせたの。止めざるをえなくさせたってところかしら。スールにして山百合会の雑用に引っ張りまわしてしまったから。」
祐巳「ほぇ~」
蓉子「祥子はね、根が真面目だから期待されるとその通りやっちゃうのよ(以下略」

 祥子はまさしく完璧なお嬢様だ。そして婚約者柏木優の登場によって、彼女が交換財であることが暗に示される。過酷とも思える数多のお稽古ごとをこなしてきた彼女は、自分が財として扱われていること、その期待に応えなければならないことを理解してきた、もしくは受け入れてきたと言えるのではないだろうか。家の格に釣り合うように、交換財のなかでも最高級の価値をもつ商品である必要が彼女にはあった*1
 しかも、祥子は作中で「リリアン女学園のスター」と呼ばれ、多くの生徒から憧れの眼差しを向けられている。序文にあるような品位を身につけた祥子はリリアン女学園の模範例であり、祥子のような人物を素晴らしい人物とする価値のヒエラルキーが存在するのがリリアン女学園という場所である。そしてよきお嬢様であれという規範は、祥子と柏木優の関係から、よき妻であれ、よき母であれ、という規範を暗に含んでいるものとして提示されるのである。
 リリアン女学園は女性の交換財としての価値を高め、世に「出荷」する機関としての役割を担い、『マリみて』の世界の登場人物たちの背後に常に家父長制イエ制度による拘束力を働かせている。『マリみて』の世界ではそのことが前景化することは滅多にないが、それは当たり前すぎて前景化していないか、あるいは前景化してしまうと財としての自身を意識せざるをえないから前景化しないのである(と私は思うんですがどうですかね…、そう考えた方がいろんなことに説明つく気がする)。
 しかし同時に、彼女たちはただの財ではなく、感情をもった個々の生身の人間であるから、財としてのみ扱われることにただ甘んじていることはできない。揺れる思春期ならばなおさらのことだ。
 祥子は財としての役割を完璧にこなす側面を持つ一方で、彼女は姉の蓉子も疑問に思うほどの男嫌いであり、財と扱われていることへの拒否も示す。彼女の祖父と父が妾を何人も抱えていることが彼女の男嫌いの原因だとされているが、極端な男嫌いの原因はそれだけではない。
 シンデレラ劇の稽古の日に、山百合会のメンバーの囲むなか柏木優に迫られた祥子が彼の頬をたたいて立ち去る。祥子を追いかける祐巳。薔薇の温室で以下のような会話がなされる。

祥子「優さんはね、わたくしのことなんか好きじゃない。でもわたくしは一人娘だし、彼は小笠原グループを引っ張っていけるだけの力がある。親も二人の結婚を望んでいる。だから彼はわたくしと結婚するって言うの。でもわたくしは…」
祐巳「好きだったんですね、柏木さんのこと。 …好きな人に、好きでもないのに結婚するって言われたら…そんなの…つらいですよね。」
祥子「聞いてくれてありがとう。懺悔と一緒よ。誰にも言えないから辛かったの。もうだいじょうぶ。」
祐巳「でも祥子さま。ロザリオをください。」
祥子「わたくしに戦わせて。もう逃げたくないの。気が付いて?この温室にある植物の半分以上が薔薇なのよ。これが、ロサ・キネンシス。四季咲きなのよ。この花のこと、覚えておいてね。戻りましょうか。」
祐巳「はい。」

 祐巳の口から祥子の気持ちが明かされる。実は祥子は柏木優に好意を抱いていたのだが、その思いは打ち砕かれていた。周囲の印象とは異なり、祥子はその内面ではおとぎ話のお姫様に純粋に憧れるようなロマンチックな人物であり、自分の願望が叶わないことに人知れずショックを受けていた。自分の意志で誰かを選びその人を愛した末に結婚することができない家に祥子は生まれ、通常、その強制力から逃れることはできない(一般論として、程度の差はあれ、いまでもそういう家がたくさんあることは容易に想像できるだろう)。秘めた思いさえも現実の前に打ち砕かれてしまったからこそ、彼女は極度の男嫌いになったのである。
 シンデレラ劇のあと、祐巳のもとを祥子は訪れる。そこで祥子はダンスのとき柏木優の足を3回踏みつけてやったことを祐巳に告白し、彼女たちは笑い合う。ファッキン家父長イエ制度へのささやかな抵抗のあと、祥子は祐巳をスール(妹)にしたいと申し入れ、祐巳はそれを受け入れる。
 ここからスールの機能を知ることができる。祥子は祐巳をスールにすることではじめて、自分の意志で誰かを選び、愛する機会を得る。スールという関係性は、学園を卒業して世に出るまでのほんの束の間、彼女たちに自身の意志にもとづいて誰かを愛する自由を与える。自由意志によってパートナーを選べる最後の機会がスールによって制度化されているのだ。リリアン女学園は、彼女たちを拘束する一方、彼女たちが感情を有する個々の生身の人間であることを認め、許容し、自由を与える顔も持っている。
ただし、これは断じて完全な自由ではない、制限付きの自由だ。スールは制度だ(制度になっている)。1期1話で祐巳がこんな解説をしている。

リリアン女学園の高等部にはスールというシステムがある。スールはフランス語で姉妹のこと。姉が妹を導くがごとく、先輩が後輩を指導することで、特別厳しい校則がなくとも清く正しい学園生活が受け継がれてきた。

 スール制度がなかったとしたら、女生徒たちに「清く」「正しい」学園生活を送らせるために必要となった「特別厳しい校則」とは、いったいどんな内容であったのだろうか? 制度は、それが制度である以上、制度であるが故の縛りがある。スールの関係は親愛、友愛、ときに恋愛的な関係の様相を見せるが、『マリみて』世界には、最後の恋愛についてのみ、マジになってはいけないという非常に強い圧力が存在する。だってそうだろう、卒業後はどこかの家に入って、後継ぎを生まなければならないのだから、マジの恋愛によって発生しうる逸脱が許されるだろうはずがない。
 スール制度は彼女たちの自由を可能にするものである一方、無秩序への逸脱を抑制する制度でもある。あくまでスール制度は卒業までのガス抜き、というわけだ。その当然の帰結として、ガチ恋愛をする者は学園を去る運命にある。『マリみて』世界を暗に規定するファッキン家父長イエ制度の拘束力は、それほどまでに強力だ。その傍証として、学園を去っていった1期6話のロサ・カニーナこと蟹名静と、1期10話11話の久保栞が挙げられる。
 1期6話ロサ・カニーナのエピソードはこの単話だけで一本記事を書くに値するだけの魅力があるが、それは別の機会に譲ろう*2。さて、慣例上次期ロサギガンティアになるのはロサギガンティアアンブゥトンである志摩子なのだが、それにもかかわらず蟹名静は次期ロサギガンティア選に立候補する。結果、志摩子が次期ロサギガンティアに当選するが、蟹名静の目的はロサギガンティアになることではなかった。当落の結果にかかわらず、選挙が終わったらマリア像の前で会いたいと蟹名静佐藤聖に伝えていた。以下は2人の対面の場面のやりとりだ。

蟹名静「私にとってなによりも大切なのは、いま、この瞬間、あなたの前にいること」
佐藤聖「選挙はたんなる前振りだったてわけ?」
蟹名静「運試し、だったのかもしれません。何も行動を起こさないままでいなくなりたくなかったから。私、イタリアに行くんです。」
(中略)
蟹名静「本当は中学を卒業した時点で留学するつもりでいました。でも2年も延ばしてしまいました。」
佐藤聖「どうして?」
蟹名静「あなたがいたから。」
(みつめあう二人)
蟹名静「私は一瞬でもいいからあなたの瞳にこうして私の姿を映したかった。」
佐藤聖「あなたは魅力的だ。ロサ・カニーナ。もう少し早く知り合えたら、友達になれたかもしれない。」
蟹名静「妹にはしてくださいませんの?」
佐藤聖「なりたかった?」*3
蟹名静(首を横に振って)「私は志摩子さんではありませんから。」*4
佐藤聖ロサ・カニーナ
蟹名静「静、と、呼んでくださいませんか。」
佐藤聖が口の形だけで「し・ず・か」と呼ぶ映像。佐藤聖蟹名静の唇に口づけをする。)

 蟹名静佐藤聖に抱いていたのは恋心だと思って間違いないだろう。佐藤聖もその心をじゅうぶんに汲み取って蟹名静に餞別としてキスを贈った。蟹名静は恋心は妹になることでは成就しないと理解している。理解しているのでなければ、立候補に積極的でなかった志摩子をわざと挑発して立候補を促すことなどしないだろう。佐藤聖志摩子の間にスール(姉妹)の関係がすでに成立しているにもかかわらず、その関係に割り込んで恋心を佐藤聖に伝えることは、スール制度への抵抗にほかならず、すなわちリリアン女学園の秩序全体への挑戦であり、危険な逃避行の可能性を孕む反逆行為となる。それをあえて実行するのであれば、自身は学園を去らなければならない。去ることが決まっていてこその一度きりの挑戦だったのだ。佐藤聖も去ることがわかってからのキスだったのだろう。
「秩序全体への反逆」と書いたが、これは誇張表現ではない。実際、蟹名静は学園の秩序に真っ向から挑んでおり、スール制度の欺瞞を暴いている。山百合会(生徒会)幹部は形式上選挙によって民主的に選任されるが、現幹部が個別に任命する各薔薇様の蕾たち(アンブゥトン)が次期幹部に就任することが慣例となっている。民主的とは名ばかりで、実質は個人による指名制だ。
 ここで注意したいのは、薔薇と蕾の関係と、スール(姉妹)の関係は本来無関係ということである。前者は生徒会の役職、後者は生徒個人同士の個人的な約束関係である。公的な生徒会の役職と、個人的なスールの関係が離れがたく癒着していて、誰もそのことに疑問を持っていない。選挙は生徒会幹部に信任を与えるためというより、スールは学園の秩序を守るための制度であることを全校生徒に定期的に再認識させ、内面化させるための儀式と考えるべきではないだろうか。個人関係であるスールを学園全体の制度として偽装させる機関が山百合会、そしてそれを全校生徒に確認させる儀式が山百合会幹部選挙だ。
 蟹名静は妹でもないのにロサギガンティアに立候補した。それはとりもなおさずスール制度への挑戦であり学園秩序の欺瞞の暴露だ。王様の耳はロバの耳。かくして蟹名静は学園を去った。ごく一部の人々にだけ蟹名静の反逆は記憶され、選挙が終われば学園はもとどおりいつものお嬢様学校に戻っていく。
 1期10話11話の久保栞のエピソードは多く語るだけ野暮なので、もしこのエピソードについて書くなら別の機会に主題的に取り上げるべきと思う。これはアニメを観てくれ!!!!!! と思うが、スール制度との関係性の部分だけ説明したい。佐藤聖久保栞は恋に落ちる。急速に親密になっていく間柄の2人を見て、蓉子はこんな忠告をする。

蓉子「もう少し、距離を置いたほうがいいんじゃない?」
佐藤聖「なんのこと?」
蓉子「あなたが妹にしたいなら、それでもいいわ。正式にロザリオを渡して、みんなにちゃんと紹介なさい。」

 蓉子は佐藤聖が傷つかないようにと意図してこのような忠告をしたのだが、スール制度の外で親密すぎる関係を築くことは学園の秩序を乱すことだと認識されているのも事実だろう。しかし、佐藤聖には忠告を聞き入れるつもりなどさらさらなく上の空だ。

佐藤聖(私は栞を妹にするつもりなどなかった。スールの儀式は象徴がなければ安心できない人たちがするものだと私は心の中でせせら笑っていた。)
佐藤聖(ただ一緒に居たい。それだけなのに…)
佐藤聖(栞、なぜ私たちは別々の個体に生まれてしまったのだろう。)

 久保栞以外は何も必要ない、は許されない。なぜなら卒業したその先にはどこかの家に嫁いでよき妻、よき母であることを求められるのだから。
 ちなみにここで補足だが、どこかの家に嫁いで「出荷」される以外に、リリアン女学園の女生徒にはもう一つの選択肢がある。それは修道院に入ってシスターになること。つまり男と結婚するのではなく神と婚姻する道だ。久保栞は高校を卒業したらシスターになる予定であり、2人は近い将来別れなければならない。そのことを知った佐藤聖久保栞を難じる。

佐藤聖「だったらどうしてシスターなんかに。あたしより神様を選ぶわけ?! あたしには栞しかいないのよ。あたしを見捨てるの??!!」

 この二者択一に陥ってはならない。スールの契約を交わして、かのように、安全に、恋愛ごっこを楽しむことがリリアン女学園の掟だ。
 しかし結局、佐藤聖久保栞は愛を諦めきれず駆け落ちを選択した。ところが、駆け落ちの日の夜、待ち合わせの駅に久保栞は現れなかった。彼女は学園を離れ一人で修道院に入ることを選んだのだった。スール制度からの逸脱の末、かくして久保栞は学園から去った。
 佐藤聖はどこにも行けず独り待ち合わせの駅に取り残されてしまった。いったいどこに彼女は帰るというのだろう。そこで彼女を引き戻したのは、皮肉にもスール制度だった。ベンチに座り絶望する佐藤聖を迎えに来たのは、佐藤聖のお姉さま(便宜上先代ロサギガンティアと呼ぶ)*5と蓉子だった。先代ロサギガンティアはかつて佐藤聖に伝えていた彼女をスール(妹)にした理由「顔が好きだから」だけで、スールに選んだのではないと告げる。では、顔以外の何が好きだというのか。それは先代ロサギガンティアの口からは告げられない。具体的な答えのないまま維持されるべきであるからだ。親愛とも友愛とも恋愛ともとれる関係を曖昧なまま保ち続けることがスール関係の要諦だ。ただ、だからといってその関係のすべてが偽りになるわけではない。相手への真心、思い遣りは真実だ。それを感じたのであろう、こうして佐藤聖はふたたび学園へと帰還する。
 つまるところ彼女たちの恋心は救われないのか、というとそうでもない。遠い時間を経て、『いばらの森』の著者がふたたびかつての想い人に再会できたように、『マリみて』では希望も提示される。しかしこれにも二面性がある。何十年か経たなければ、かつて愛し合った2人はふたたび出会えないのだろうか。『いばらの森』を書くことができたのは、子を育て終え、夫が死に、ようやく家庭の桎梏から解き放たれたからなのだろうか、などと想像してしまう。何十年経ってもファッキン家父長イエ制度に人を縛り続けるなんてコンチクショウ。
 ここでいままで見てきたことをまとめよう。まず前提として、リリアン女学園の女学生は良家の子女として、卒業後良家に嫁いでよき妻、よき母にならなければならないというファッキン家父長イエ制度のプレッシャーに晒されている。そんななか、スール制度リリアン女学園の女生徒たちに自らの意志でパートナーを選択し、お互いに関係を育む自由を与える。スール制度はファッキン家父長イエ制度から彼女たちを一時的に庇護し*6、彼女たちがのびのびと主体的に生きることができる空間を創出する。

 しかし一方で、スール制度は彼女たちがファッキン家父長イエ制度から逸脱して、本当にその外の世界に出て行ってしまうことをけっして許容しない。そのような負の側面も併せ持っている。蟹名静佐藤聖久保栞の事例で確認したように、マジ恋愛はかならず阻止され、マジ恋愛の成就を試みる者は学園から追放されるか、諦めてスール制度に再服従することを余儀なくされる。

 このようにスール制度は常に光と影の二面性を持っていて、『マリみて』の悲喜劇を紡いでいる。

 ただし、このスール制度が彼女たちに多くの恵みを与えていることも疑いない。他者への思い遣りの心を育み、真心を分かち合うことの喜びもスール関係は与えてくれる。そこで遣り取りされる感情が、具体的にどのような感情なのか、それをはっきりと確定させることは避けられる*7。けっしてマジな恋愛に発展はしないように絶妙なバランスを保ちながら、彼女たちはマージナルな場所に留まり続ける。それがスールの曖昧で、それゆえに内容豊かで、それゆえに、どこか哀しい関係性を生み出しいてる。彼女たちは本当に肝心なところをお互いに黙して伝える。相手に伝わっているかどうか確証を持ちきれない思いの伝達は祈りに似ていて、彼女たちはときに衝突しながら、それとなく伝わっているらしいという微かなシグナルをとても大切に受け取る。
「本作は百合が無条件に前提されているわけではない」と冒頭で述べたのは、上記のような理由による。つまり、彼女たちは百合っぽい関係性を築く自由は与えられているが、百合関係(同性の恋愛関係)をいざ成就させようとすると、『マリみて』世界が前提とするファッキン家父長イエ制度がそれを阻止しにかかる構造になっているからだ。というわけで、本作は、これも私がこの記事冒頭で述べたように「百合を成立させる条件そのものに踏み込み、その条件に拘束される人間関係を描いている」、いささか込み入った世界観を有している。

 いままで私は、『マリみて』は百合の代表作品だという印象を持っていた。その印象に間違いはないと思うが、すくなくとも百合の典型に属する作品ではない。アニメしか見ていなくて、しかもこの記事では1期しか扱っていないが、『マリみて』は登場人物たちにとって百合を成立させることがいったい何と対峙することなのかを提示し、そして百合の成就を勝ち取ることがいかに絶望的に困難であるかを提示する、チャレンジングな作品だったのではないだろうか。すくなくとも、(読者や視聴者との)お約束事としての友達以上恋愛未満巨大感情発露や恋愛に至るまでのじれったいやきもきやりとり(とそれらに付随する「萌え」*8)を狙ったものではなさそうだ。リリアン女学園はお約束事としての百合の楽園ではない。これで『マリみて』が「ソフト百合」ではない(と私が思う)ことの回答になるだろうか。

 私が最初にアニメを観た2004年から20年経過し、世の中は大きく変わった。だからこのような読解になったのだと思う。なぜかというに、これは私の個人的な所感だが、『マリみて』を観ながら、ふつうに恋愛しようや!してええやん!なんであかんのや!と素朴に思ったので。

 

 

さいごに

 今回はアニメを扱っているにもかかわらず映像表現について触れていないし、本来なら掘り下げられるべき個別のストーリーにも立ち入ることができていない。スール制度の影を見せる一方で同じ話の中で光の側面を対比させる構成であるとか、各エピソードの配置の順番の見事さとか、各キャラクターやスールの特徴と物語上の役割の噛み合い方だとか、いろいろまだまだ語りたいことがたくさんある作品だ。20年前気づかずアホだったけど、たいへんな大傑作でした。それがわかっているぶん、たいへん大雑把な記事になってしまったと自覚している。数々の取りこぼしがあるが、どうにかまたそれぞれについて書く機会があればと願う。

*1:柏木優は小笠原家に婿入りするのだから、正確には財として交換されるのは柏木優のほうなのだが、祥子も家の利益のための道具であるという点で交換財と捉えてもいいだろう。また、小笠原家は婿を迎える立場であるから、婿にも劣らない教養と品位を身につけなければならないというプレッシャーが強く働いたであろうことは想像できる。なお、柏木優の露悪的な嫌味な振る舞いの数々は自分自身が男たちの利益のための財として扱われていることへの、祥子とは対照的な反応として理解できるのだがそれはまた別の話。

*2:少しだけ触れると、蟹名静の内心とうらはらな言動が切ないが、敢えて語らないことによって相手に思いを伝える逆説は『マリみて』の真骨頂だ。伝達の可否が確証できない伝達は、もはや祈りと区別がつかない。マリア様だけが彼女たちの思いのすべてを知っている。

*3:妹になりたいんじゃないってわかってて訊くなよ!!!

*4:志摩子ポジションが望みじゃないだろ!!!

*5:声が高山みなみなのがとにかく最高。高山みなみの女性役はとても素晴らしいのです。

*6:スール制度が築く安全圏は案外強力だ。蓉子と祥子の場合のように、スールも薔薇様との関係となれば、雑用に付き合わせるからという理由をつけて家の人が強いてきたお稽古ごとをぜんぶ辞めさせてしまうことができる。

*7:彼女たちの軽口、冗談の一部が、自分たちの抱く感情の正体を一つに決定してしまわないための手段として働いている場面が作中に多く見られるように思う。

*8:死語?

老舗蕎麦屋の海老問題と食べログ文学のはなし

 今年に入ってから鍋焼きうどんの食べ歩きをしている。これを書いている1月29日時点で記録は23軒。東京では蕎麦の光が強すぎてすっかり影に隠れてしまっているが、鍋焼きうどんも東京の蕎麦屋を堪能するための素晴らしい切り口のひとつだとわかってきた。ところで、今回の記事のテーマは鍋焼きうどんではなく海老だ。鍋焼きうどんの種にはたいてい海老天が入っているものなのだが、ときどき不思議な食感の海老にあたることがある。それも老舗で。みしっとしたブラックタイガーでもなく、保水海老のようなプリっと食感でもなく、火を通しても比較的柔らかく甘味をしっかり感じるタイプの海老。間違っているかもしれないが、国産だとするならば私の見立てではヨシエビかそれに類する仲間なのではなかろうか。そしておそらく三河湾産。食べ歩きの過程で様々なタイプ海老があることに気づく。老舗蕎麦屋の海老はどういう海老なのか、どのような海老だったのか? これが老舗蕎麦屋の海老問題だ。

 鍋焼きうどん発掘の過程で食べログを漁っていると、いままで意識的に避けていた食べログ文学を読むこととなった。その書き手である彼は、情報を総合するに父の経営する会社を大学卒業とともに引き継ぎ、63歳で後継者に会社を譲り、現在68歳前後だということがわかっている。冒頭歌詞引用、店や料理と関係ない自分の過去の体験や街の描写の挿入、簡単なフランス語やイタリア語の横文字挿入とその解説等、文彩豊かなブロガーであることがわかる。その彼が、某老舗蕎麦屋の天ぷら蕎麦について、かき揚げの海老が小さいことに落胆し、海老天についても老舗たるもの尾が丼からはみ出すほどの大きい車海老を使ってほしいものだと嘆いていた。ここまでくると老舗蕎麦屋の海老はどうあるべきなのか? という新たな海老問題が発生するのだが、事実として老舗蕎麦屋で海老の尾が丼からはみ出すほどの大きい海老をずっと使ってきたのかについて、はなはだ疑問に思った。

 というのも、養蓄の技術は明治からあったようだが、車海老の完全養殖が確立されたのが1960年代のようで、海老輸入の自由化も1960年代。多種多様な海老が安価に手に入るようになったのはそれ以降だと考えられる。某店の創業は1869年(明治2年)なので、古くは東京湾で採れた天然海老のみを使用していたことだろう。車海老ではない可能性もじゅうぶんある。たとえばヨシエビやクマエビなど。みんなお世話になっているぼうずコンニャク図鑑によると大阪では車海老より好んで使う天ぷら屋もあるらしい。とすると、天然車海老で20cm以上に育つものがあるとはいえ、そして東京湾でまともに海老が捕れていた時代がかつてあったとしても、我々が親しむ海外産のブラックタイガーやシータイガーよりも小ぶりの海老のほうが一般的だったのではないか。小ぶりの海老のほうが老舗の古形を伝えているという可能性はないだろうか。根拠としては少し弱いという自覚はあるものの、したがって、老舗蕎麦屋”だから”大きい海老であるべきという主張は少々気の早い主張だろうと思われる。老舗が老舗だから大きい海老をずっと出し続けてきたというのはおそらく事実と反するだろうから。それぞれの店がそれぞれの調理と提供の仕方をしており、変化してきた。歴史の層に思いをはせつつ、いろんな分岐があって今に続く店と料理があることを理解して、それぞれの良さを味わうのがよいのではないだろうか、というのが私の提案。古形を残しているから必ず良いというわけでもないから、結局は目の前の料理のその調理法に理があるか否か、総合的に判断すべきだ。

 老舗蕎麦屋の海老問題に戻ると、おそらく蕎麦屋の海老には1960年前後で大きな転換点があったのではないかというのが私の推測だ。車海老以外にもヨシエビなどの海老を含む海老が海老天の材料として使われていて、それが60年代以降に徐々に養殖や海外産に置き換えられていった。そして大型化していった。(そして保水海老がそのあとのどこかの年代で登場する…のかな?? ここから先はリサーチ必要だから覚えていて元気があったらいつか調べます。)

 さて、先ほどの食べログの書き手は件の天ぷら蕎麦が自分の天ぷら蕎麦の評価基準に合致しないことから、焦点をつゆに移し、この店の真価はつゆにありと評価してレビューを締めくくっていた。理解できない料理に出会ったときポジティブな面を探して評価する姿勢には好感がもてるものの、私見では、某店のかき揚げや天ぷらの真価は、卵を多めに含んだ天ぷらのその衣にある。衣がつゆを含んで独特の食感と風味を生み、見事な卵料理として完成している。したがって、私の見解ではそもそも海老はその料理の中央に据えられてはいない。海老の小ささは衣の良さを前面に打ち出せるし、細打ちの麺とも相性が良い。溶けた衣も甘さのあるつゆと合わさるとぐっと引き立つじゃないか。某店が古形を伝えているとして、それを継承し続けるだけの料理としての必然性と説得力が某店の天ぷら蕎麦にはあるというのが私の理解だ。だからあの形で残った。あれをもって完成形としたい。ダメだろうか。

 天ぷら蕎麦の中心は海老であるという予断が彼のの観察眼を曇らせた。彼はこの店を天ぷら蕎麦行脚の一環で訪れており*1、その目的に沿えば、天ぷら蕎麦を海老で評価したいというのも無理ない。レビューのなかで彼は某店が「かき揚げの衣の香りをお楽しみください」とメニューに一文挟んでいることを書き留めている。過不足ない説明だ。店からのメッセージを読み、それを記述しながらなお、それを文字通り受け取ることは難しいのだ。だからこそ、目の前の料理、そして今自分がそこにいる店と向き合うことは、かくも難しいことだとわからせられる。いま私は鍋焼きうどんの食べ歩きをしているが、鍋焼きうどんで複数の店を横串で貫くことは、必ずやそれぞれの店を全体的に捉えることを阻害する。いま自分がしていることはあくまで店の一部しか捉えられない営為であることを心に留めつつ、もうちょっと鍋焼きうどんの店を回ってみたい。(テーマ縛りの食べ歩きは楽しいので止めるつもりはない。)

 

 自身への教訓として備忘

・食べ歩きの経験の長さから自分の経験を一般化してしまい、歴史的観点をはじめとする他の観点を見失ってしまうこと

・そのように形成された予断から、目の前の料理と向き合うこと、店の案内を素直に受け取ることができなくなること

 これらはいまでも起きうるし、そしてこれからはもっと起きうる料理評価のアンチパターンと心得よ。経験が増えるがゆえの落とし穴はあるよな。気をつけよ。

 それとは別に、人生ゲームをあがってしまったおじさんが誰に怒られることもなく好き放題食べ歩いて感想を公にできるって羨ましいな!!!!!!

 富・名声・力!

 

以上。

*1:自身の天ぷら蕎麦探求を彼は15世紀16世紀のルネサンス文化人の知的探求に準えている。なんたる文彩!

飲食雑記:フランス料理 2023年11月19日

 フランス料理を大学の旧友と食べてきた。いまでもこうして一緒に食事に行ってくれてるのはありがたいことだ。記憶が新しいうちに備忘録を。

 一皿のポーションが多いことで有名なお店だが、食事が終わってみると、難なく食べ切れた。でもしっかりお腹いっぱいにもなった。フランス料理屋でちゃんとお腹がいっぱいになるって現代ではそれだけで価値ではないだろうか。たいてい食べ足りないことが多いから。美味しいものは食べれば食べるほど食欲が増すものなのにみなさんけっこう控えめではないだろうか。

 お酒は30代に入ってからめっぽう弱くなったけど、食欲はまだまだ健在で、なんなら生涯で今が一番食えるぞ!!を毎年更新している気がする。特に油脂に年々強くなっていっている。フレンチだろうがなんだろうがかかってきんさい、という気持ち。

 最近ではフランス料理のクラシックなレシピを自分で作ったりもしている。アオハタをクールブイヨンでポシェしてたっぷりのブールブランソースで食べるみたいな。お肉だったら赤ワインソース(国産牛、和牛で)は最後バターの量をケチらずモンテするし、ベアルネーズソース(スーパーで手に入る肉の中ではウルグアイビーフリブロースが一番合うと思う。オージービーフ、USビーフでもいいけど、ウルグアイ産のリブロースはそれらと比べ肉が小ぶりで適度に脂と筋が噛んでいるのでバランスが良い。草の香りも抜群に強い。)はそもそもバターの塊だ。油脂には酸をギュッと煮詰めてぶつけてやると、いくらでも食えるという発見。

 自分の嗜好の変化と同時に、自分でも作ってみて理屈が理解できるようになってくると、フランス料理への憧れはいや増すばかり。そのタイミングで行けたのでたいへん充実した時間を過ごした。楽しかった。

 以下、お料理。

 

1.ジロール茸と帆立のマリネ、スダチの香り、インゲン、ポワロ―

 アミューズと呼ぶにはそこそこ量のあるアミューズ。前菜一品この量ですと主張してもぜんぜんだいじょうぶな量の皿が出てきた。インゲンから食べ始めると、このインゲンがなぜだか不思議と美味しい。インゲンの豆の香りが最も際立つゾーンよりは少し長めに加熱しているように思える。だけど、そのおかげで柔らかく、しなやかで安心感のある味。特別なインゲンでも、特別な調理法でもないだろうが、なんかいい。その次にジロール茸。こちらはうってかわって酸味が効いている。もっとこっくりした味を予想していたけどスダチの香りと相まって爽やかだった。そこに帆立を続けて口に入れる。帆立の甘さが、ジロール茸の酸味と爽やかさに釣り合ってくる。そこでポワローのマリネ。ここで一皿がバチっとハマるのを感じた。ポワローはしっかり甘さがあって、ネギの優しい香りがあって、ジロール茸の酸味を包み込んでくれる。ここまで来て、ポワローの甘味がジロール茸と全体の酸味に拮抗し、皿全体に均衡を生んでいた。

 皿の一番上にはインゲンが乗っていて優しい素材の味、インゲンの下、皿の左側(通常右利きの人は左から手を付ける)にはジロール茸で酸味をヴィヴィッドに感じ、次に皿の右側に配置された帆立の旨味と甘味、さらに皿の最下部に隠されたポワローの甘味と香りで全体が調和する。食べ進め、それらを繰り返し行き来することでこの楽しさを発見する。一口で美味さがすべて完結するのではない美味しさ。振り返って考えるに、この現象はそもそもポーションが多くないと成立しない。そう、たくさん食べたい私みたいな人間には、こういう飽きない構成がとてもとても嬉しい。

 

2.ボタンエビのビスク

 少量のボタンエビのビスク。一口目の印象は熱々!!!!! 次にエビの旨味がふぁっと広がる。その奥から野菜の優しい甘味と旨味をじわじわ感じる。エビだけの美味しさじゃない。だからエビの押し付けがましい感じがない。熱さで鮮烈な印象を残しておきながら、余韻はずっと優しい。とても美味しかった。さあ、これからたくさん食うぞ!!というやる気に満ち溢れる。

 

3.コンソメジュレ、ウニ、カリフラワーのソース

 ウニの上にはたっぷりのコンソメジュレが。ウニはさながら凍った湖かに閉じ込められているようだ。とするならば、コンソメジュレの外周に流し込まれたカリフラワーソースは降り積もった雪だろうか。見た目がとても美しい。最初、コンソメの香りと味が口全体に広がる。次に口内の温度でコンソメジュレが溶けて、ウニが混ざってくるとウニの甘さが混然一体となって、極めて甘美な味わいとなる。コンソメジュレもウニもたっぷり使われていて、この一口の美味しさを何度も何度も味わえるのかという多幸感よ! ときどき口に入ってくる刻んだ生のエストラゴンが変化を生み出してくれて飽きることはない。とにかく素晴らしい。また食べたい。

 

4.鱈白子ソテー、トマトソース、炒めたエシャロット、ケイパー

 トマトフォンデュを敷いた上に、表面カリッと香ばしくソテーされた鱈白子。白子の右側にこちらも香ばしく炒められたエシャロットが乗っている。ケイパーは皿に散りばめられている。白子は塩がきっちり効いており、単体でもとても美味しい。カリッとした表面と、とろっとした中身のコントラスト、舌に絡みつく濃厚な旨味。冬がやってきたね…としみじみ。トマトフォンデュはきっちり酸が効いていて媚びない味わいがいい。エシャロットは白子の右側半分の上に乗っていて、食べ進めると合流するようになっている。エシャロットはけっこうしっかりめにソテーされていて、茶色くチップスみたいに揚がっている部分もある。水分が飛んで甘味と旨味と香りが凝縮されたそれと、白子、トマトフォンデュが出会うことで、一挙に食わせる味になる。食べれば食べるほど食欲がどんどん増すように、それはできている。量が多かろうがなんぼのもんじゃい、まだまだ食べられますぜ。

 

5.ヒラメのポワレ、春菊、揚げたポワロー、揚げた里芋、リンゴのソース

 ヒラメの表面には砕いたナッツと胡椒。そして火入れが完璧だった。表面は香ばしく、中身はほろほろと崩れる食感。胡椒が主張しすぎてヒラメの繊細さに勝っているようにも感じたがワインを一口飲むとその辛味と香りを中和してくれた。ナッツと胡椒の強い主張は、さらに春菊やポワローと一緒に口に運んで咀嚼するとお互い衝突し合ってそれぞれの主張の強さが穏やかになる。スパイスでも同じような現象は起きて、パクチーが苦手な人でも複数のスパイスの森に隠してしまうと食べられたりするというアレだ。里芋は揚げ油が動物性なのかわからないけど独立してパンチのある美味しさだった。

 

6.牛ランプステーキ エシャロットソース

 個人的な好みからするともう少し火が通っているほうが好きだった。レアというよりはブルー寄りな火入れだったように思う。肉質は柔らかくて美味しかった。同行人が食べていた子羊が超美味そうでしたね。

 

7.紅茶のプリン、キャラメルアイス

 レストランのキャラメルアイス大好き。甘くて苦くて目が回りそうです。

 

8.紅茶、焼き菓子

 焼き菓子いっぱい出てきて嬉しかった。ラストスパートなので、紅茶には砂糖をたっぷり入れて血糖値アゲアゲにしてフィニッシュだぜ。これが食後の多幸感を生むんや。

 

総じて

 それぞれの要素を食べ進めることで食い気をどんどん増していく味わいはあらためて思い返して考えるとすごいなーと思う。そしてその構成は一皿の量が多いからこそ実現できる。あの美味しさはあの量あってこそ。これだけ書くと技巧的なようだが、一方で重要なのは、そのような構成になっていながら皿から作為をほとんど感じないということだ。自然体で朗らかで、明るく、食べる側に緊張を強いることがない。伝わってくるのは、美味しいものは当然たくさん食べたいでしょ、お腹いっぱい食べていってね、という気持ちだ。私も友人を家に招くとこういう気持ちで料理を振舞うが、お腹いっぱい食べてねというもてなしを今日は自分が受けることができて、とても嬉しい気持ちになった。これは私が何回かやらかした失敗だが、この気持ちが暴走すると、量が多すぎる、もう食べられない、とクレームが入ってみんながちょっと悲しい気持ちになる。今日はそんなことが起きない幸せな世界。

 今日は友人らと極めてとりとめのない話をしながら、それぞれの料理の美味しさと感動を分かち合って、楽しい夜だった。食後はみんなで腹ごなしに歩き、近くの某宗教の本部施設を見に行って東京観光もできた。最寄り駅近くのバーで金柑のジントニックを飲み、洋ナシをアテにカルヴァドスをあおって家路について今である。満足です。

 

飲食雑記:2023年10月7日の食事会について

 2023年10月7日、幣宅に客人を招いて。結論から言うと、今回はかなり失敗をかました。会費を高めに設定しておきながら、予定していた料理をすべて出すことができなかったし、お酒も残ってしまった。とはいえ食材は買い込んじゃっているからお金はもらわざるをえない。ううう、申し訳ない…。もう2週間経ったけどまだむちゃくちゃ反省している。

 会費が高すぎると買い物をしてても自分の肌感覚で金額のアタリがつかないから迷子になる。自分が何を作りたいのか、何が作れるのかだんだんわからなくなってくる。制約は適度にあったほうがいい。以下作ったもの。

 

・牛肉とキノコの春巻き

 牛スネ肉と牛ホホ肉を庖丁で細かく賽の目に切って叩いてミンチを作って、つなぎの牛ひき肉、炒めたマッシュルームと椎茸、玉ねぎ、擦り下ろしたグラナパダーノ、細かく刻んだセージ、イタリアンパセリローズマリー、塩胡椒と練って、春巻きで包む。前日に作って冷凍しておき、当日揚げる。ま、飛騨牛なんでね、美味いよ。ほぼ肉で、粗挽き肉たっぷりだから肉肉しくて美味しい。

 

・クラッカー、クリームチーズイクラ醬油漬けと茄子のキャビア

 イクラ醤油漬けは普通の作り方で。筋子を60℃程度の塩水につけて卵をばらして、お湯を入れ替えながら掃除して、煮切って冷やした醤油味醂酒の漬け地に漬ける。クラッカーにクリームチーズを塗ってイクラを乗せることを想定していたから、そこからさらにルビーポートを隠し味に少量入れる。醤油というのはとても強い調味料なので、ポートワインを少量入れたくらいでは食べてくれる人は気づかないだろうと思うが、おまじないです。

 茄子は洗って爪楊枝で3箇所くらい穴を空けてオーブントースターで1時間程度じっくり焼く。皮は真っ黒に、茄子からはじくじく蜜が滲んできてその蜜が黒く焦げるくらいまで。焼き芋のようなほっくりした甘い香りが漂ってくるまでじっくりじっくり待つ。オーブントースターから取り出してスプーンで半割にして、皮からこそぐように身を取って、包丁でたたく。ミルクパンに移して水分が飛ぶまで火にかけて練って、いい具合の固さになったら塩と新鮮なエクストラバージンオリーブオイルで調味。そしてイクラとの連続性を持たせるためにルビーポートを少量香りと甘味付けに加える。これで完成。

 イクラの醤油漬けと茄子のキャビアを両方同時に出したが、イクラの旨味が強すぎるので茄子の美味しさが霞んでしまったように思う。少し失敗した。茄子のキャビアはいろいろな作り方があって、ニンニクを入れたり、アンチョビで旨味を足したり、練り胡麻を入れてコクを加えたり等々あるが、秋ナスの美味しさを味わってほしいから茄子だけにしてしまった。イクラ&醤油&クリームチーズという強いメンバーの組み合わせに拮抗させるのに、茄子だけでは弱かった。単品では茄子だけで作るのが好きなんだけど、アンチョビを入れてもっと強い味にすればよかったと思う。

 

・鮃昆布締めの摺り胡麻三つ葉和え

 2日間昆布締めにした鮃と、摺り胡麻と、三つ葉は茎を茹でて、葉はなまのままざく切りにした三つ葉を和える。少量醤油。スダチ果汁を絞って。しっかり昆布で締まった鮃はねっとりとして、胡麻三つ葉とよく絡む。

 

・カツオ漬けの黄身おろし乗せ

 スーパーに行くと戻り鰹の皮際に脂がしっかり乗っていてあまりに美味しそうだったので食べたくなって作った。ところで、家で生魚を出すときはなるべく手を加えるようにしている。私みたいなスーパーで魚を買う一般人は手に入る魚のものも鮮度も手当にもあまり期待できないし、庖丁もいくら研いだところでプロの庖丁と庖丁の技術には勝てないから諦めている。なので、漬けにするなり、湯霜、焼霜、酢締め、昆布締めなどなど…。

 漬け地はたまり醤油と味醂と酒にしたような気がする。これに青唐辛子を刻んだものを加え、厚めに切った鰹を20分くらい漬けた。大根おろしに辛味大根を使ったので青唐辛子は余計だったかもしれない。ただ、鰹の生臭さをマスキングするために青い香りも欲しかったのでここは青唐辛子ではなく獅子唐でもよかったかもしれない。それか他のハーブでいいのがあるかもしれない。辛味大根には黄身を混ぜて黄身おろしにした。戻り鰹の脂が多いので、大根でさっぱりさせるのにも間をつなぐ味が必要だと思い黄身おろしにした。肌寒くなる日もちらほら出始めていたので、たださっぱり食べたい、というのでは季節に合わないだろうと考えた次第。鰹を皿に並べ、黄身おろしをこんもり乗せて、そこに2,3cm幅に切った小葱を散らして完成。

 

・甘海老昆布締め甘海老味噌とも醤油和え

 甘エビの殻を剥くときに頭から味噌を掻き出してとっておき、和辛子と醤油とを合わせ、とも醤油を作っておく。甘海老の身は浅く昆布締めにする。甘海老の身を昆布締めにするのは、昆布の味を移すというより、軽く脱水するため。磯臭い甘海老の味噌をダルダルの甘海老の身と和えるとだらしのない味になることが予想されたので、昆布で軽く脱水することで甘海老の食感を残して、存在感を高めたかった。仕上にスダチの皮を削りかけて完成。

 

・牛アキレス腱、牛カッパ肉燻製、ミノ天ぷら

 牛アキレス腱は牛タン、牛スネ肉、牛ホホ肉、昆布、干し椎茸と一緒に圧力鍋で炊く。とろとろになったアキレス腱を取り出し、熱いうちに軽く塩を振って下味をつけておく。これを冷蔵庫で冷やして、提供前に一口大に切る。熱いうちはとろとろだったアキレス腱がぶりんぶりんの食感になり、咀嚼すれば牛の豊かな香りと旨味が口に広がる。作ってみるとむっちゃ美味い冷菜になったからまた作る。

 牛カッパ肉燻製は既製品を買ってスライスして出しただけ。とても好評だった。いつも実家に帰ったら行く肉屋のこれがいっちゃん美味い。

 ミノは天婦羅に。これも大好評。ミノは国産品を買うとハチャメチャに高いので、こんどミノを料理に使うときはさすがに天婦羅にはしないかも。

 

・ちちこの佃煮

 これは地元に帰ったときに買って作って持ってきたもの。ちちことはヨシノボリの仲間の小魚の総称みたいだが、アジメドジョウも入っていたので川で獲れる小魚の総称のようだ。これを甘辛く醤油と砂糖と味醂で炊いて佃煮風にした。小さいけれどしっかり川魚の香りと味わいがあってたいへん美味しい。下流域で獲れるゴリの佃煮ともまた違った味わいだ。お酒のアテにたいへん美味しい。実家では唐揚げも作ったが、小さいながらも川魚の風味があってたいへんに美味しいものだ。

 

・茹で牛タンの白味噌仕立て椀

 牛アキレス腱、牛タン、牛スネ肉、牛ホホ肉、昆布、干し椎茸を炊いた出汁を使ってお椀を。牛タンはさすがに国産ではないです…。蕪、人参、干し椎茸、牛タン、アキレス腱を盛って、西京味噌で調味した汁を注いで、柚子の皮をあしらって完成。美味しかった。けど、横着して蕪と人参を飲む汁で火を入れたのは間違いだった。特に蕪は非常に風味の強い野菜だ。汁全体を蕪の風味が支配してしまう。蕪と人参は別に取り置いた出汁(牛の出汁がもったいないなら昆布だけでもよかったかもしれない。)で火を入れて、椀のなかで一つに合わせるべきだった。せっかく牛の旨味をきれいに抽出できたのに、出汁の美味しさの焦点が蕪の風味でぼやけてしまった。そうなることはわかってはいたが、やってみると想定以上に大きな差が出た。蕪を見くびってはいけない。そしてやはり横着はいけない。アキレス腱はさっきの冷菜のアキレス腱とまったく違うとろっとろの食感になり、楽しんでもらえたように思う。

 

・牛センマイのフェ

 牛センマイをさっと湯に通して氷水に落とし、よく水分をふきとっておいておく。コチュジャンお酢スダチ果汁、生姜、ニンニク少量、摺り胡麻を混ぜてチョジャンを作っておく。キュウリ、春菊、小葱と牛センマイを少量のゴマ油で和えて、さらにチョジャンで和えて、仕上げにスダチ果汁をさらに上から絞って完成。翌日別の友人に鯵フェも作ったんだけど、客人がゆっくり食べることを想定して野菜から水分が出てべちょべちょになるのを防ぐためにチョジャンと和える前にゴマ油で具材を和えるひと手間を入れたんだが、まあこれはこれで美味しい、べちょっとしない、チョジャンの味が薄まらないからはっきりわかる、というメリットはあるものの、やはり、具材に味が乗り切らないと感じる。お客さんに出すにはいい方法だと思うが、美味しさで言うと一段落ちる調理法だと思う。そのままチョジャンで直接和えたほうが美味いよ。…という話を後日母親にしたらその通りとのこと。そもそもゴマ油が要らないでしょ、よけいな風味でしょ、とのことで、おっしゃる通りでございます。母曰く、(チョジャンで野菜と和えるタイプの)フェは作ったらすぐ食べてもらうことが前提の料理であるし、これは自分の好みであると断ったうえで、野菜から水分が出た汁もそれはそれで美味しいでしょとのこと。改めて自分で誰かに作ろうとなって、自分で試してみてはじめてわかる料理の理合いをここで発見した。母親の作り方には深いの理合いの裏付けがあった。また、ゴマ油で和えると春菊の鮮やかな香りもマスキングされてしまってよくない。

 考えてみればこの理合いはサラダでも共通なんだよな。最初にオイルで野菜をコーティングしてしまうと野菜から水分が出てべちょべちょになるのは防げるけど、やっぱり野菜に味が乗りきらない。解決策はいろいろあるし、状況によって臨機応変に対応すべきだけど、突き詰めれば野菜に先に塩を乗っけるのが正道であるように思う。

 どうでもいいけど、調理技術は科学の言葉で語るより、武道の言葉で語る方がしっくりくるパターンが多くないですか? 科学的裏付けを与えられるか微妙なことについてさも科学的であるふうな口ぶりで語っている人多くないですか(敵を増やすな)。科学的に語れないでっかいグレーゾーンがあるはずで、それを語るに適した言葉があるはずで、「理合い」は非常に便利な言葉だと思う。内部的な身体感覚を他者の身体と共有するための言葉なら、料理と共通に使えたとしてもなんら不思議ではないように思う。

 

・豚スペアリブの豆鼓蒸し

 叩いた豆鼓と刻んだ柚子の皮を紹興酒に浸して電子レンジでチンして柔らかくしておく。それに醤油、味醂を加えて調味液を作る。調味液を、洗って吸水させたもち米を砕いたもの、豚スペアリブを絡めて蒸す。普通にうまい。これはまた作ろうかな。

 

穴子のマトロート

 マトロート作ってみた。マトロートはフランスの古典料理だが、これを穴子で作ってみてもしっかりクラシックな味わいに仕上がって満足。赤ワインとポートワインを半量以下に煮詰め、鰻の切れ端を香ばしく焼いて加える。ミルポワにはエシャロットと玉ねぎを炒めて加え、タイムとローズマリーで香りづけして20分ほど煮、濾す。これがソースのベース。客人が来る前にこれを用意しておく。客人が来たら穴子に軽く小麦粉をはたいてバターで軽くソテーし先ほどのソースのベースでほろりとするまで煮込む。あまり大きい穴子ではなかったからたぶん20分強くらいかな。穴子を皿に盛ってソースをバターモンテし、素揚げしたサツマイモを添えて完成。しっかり味の強い赤ワインのソース、そしてバターもしっかり加えていたが、穴子独特の泥臭い風味は減じることなくよくソースとマッチしていてたいへん美味しかった。これもまた作りたい。

 

・牛出汁牛肉味噌担々麺

 カシューナッツと煎り胡麻をさらにフライパンで乾煎りして、ミンサーで粉砕してゴマペースト、ゴマ油、ラー油、醤油、味醂と混ぜてペースト作っておく。自分で叩いた超粗挽きミンチ(春巻きの準備で作ったミンチの半分はこちらに使用)を甜麵醬と醤油で味付けして肉味噌も作っておく。ザーサイと干し椎茸を刻んでゴマ油で炒めたものも作っておく。器にゴマペースト、それを牛出汁で溶いて、マルタイ棒ラーメンの麺を入れ、肉味噌、ザーサイ干し椎茸炒めを乗せ、白髪ねぎ、小口切りの小葱をちらし、ラー油を回しかけて完成。これ、ハチャメチャに美味かった。そして、それでも銀座アスターの担々麵のほうが美味いと思うので、担々麺を食いたければ銀座アスターに行け。

 

 以上です。合鴨と九条葱と松茸のすき焼き風も出すつもりだったけど出せなかった…。提供スピードと量のコントロールをもっと綿密にしなければ。すみません。すみません。

飲食雑記:2023年7月22日から遡れるだけ遡る

2023年7月16日 フジツボ、エツ、アナジャコ

 某スーパーで、フジツボ、エツ、アナジャコを購入して家で食べる。エツとアナジャコは唐揚げに。フジツボは塩茹でに。すべて初めて食べる食材だった。どれも美味しい。特にフジツボは濃厚な蟹の味。バケツいっぱいにフジツボを食べたい。愛知県産のサルボウも売っていたが、食べきれないのと調理が面倒なので買うのを躊躇った。サルボウも今は愛知県くらいでしか量が獲れないらしい。エツもいつまで食べられるか。いつか時期のエツ船に乗って刺身を食べてみたい。

 

2023年7月7日 冷やし中華、酢豚

 神保町の店で。なんでも冷やし中華発祥の店だとかなんだとか。店員のおばちゃんとおっちゃんが塩対応でこれこれ~ってなる。老舗×塩対応はむしろ期待度が高まってしまうんだわ。出てきた冷やし中華は麺がぼそぼそで常温。どういう経緯かはわからないけど、冷やし中華発祥の店で冷やし中華が冷え切っていないのはむしろ納得かもしれない。なぜなら冷たいものは身体に悪いので。そのような価値観によるものか、当時の設備的な条件によるものかはわからないが。チャーシューや蒸し鶏がきれいに断面を四角に均等に長細くカットされていて、それでいてそれぞれの素材の味と味付けがはっきりわかり、オールドタイプの中華料理の説得力を感じた。中華料理にピンバンという冷菜があるが、あれはそれぞれの素材の料理に加えて、庖丁でのカットが料理の華であり技術なわけで、出てきた冷やし中華にもその技術の余技を感じることができた。逆に言うと、千数百円の料理だけ食べて帰るのは申し訳ないとも思った。上の階は宴会で使われているようだったけど、あの人たちのおこぼれでこの冷やし中華が食べられるのだな。

 酢豚もよかったなーー。豚、胡瓜、タケノコ、サツマイモ、長葱。揚げられてはいるけど肉の角が立つように綺麗にカットされていたのがわかる。ここにも技術ですよ…! 肉はしっとりと、ふわっと揚げられており、ほのかな下味の塩胡椒。またこの塩胡椒の加減が絶妙。

 

2023年7月2日 食事会

 幣宅で友人を呼んで食事会を。もとは羊羹を食べる会だったが、羊羹を食べるためだけに集まるのもわびしいということでいろいろ作ることに。作ったのは以下。

・桃カプレーゼ

 バジルではなくスダチの皮と果汁を。生ハム乗せバージョンも作成。

・玉蜀黍摺り流し

 レンチンしたトウモロコシと鰹と昆布の一番出汁を合わせてブレンダーにかけて網で濾して冷やして塩味を整えて提供。暑いから最初に冷たい汁物が出るのは良いと思って。仕上に醤油を塗って焼き上げた焼きトウモロコシと、スダチの皮を浮かべた。自分用か味覚の合う人のために作るならたぶん昆布だしと合わせるだけだけど、人が来るならたっぷりの鰹節を使って出汁をとってハレの日の味に仕立てた。料理屋の味。

・鰹しょっつる和えと長芋

 ほんとうは鰹酒盗で和える予定だったが切らしていたのを忘れていた。ということで急遽しょっつるで代用した。しょっつるだけだと個性が強すぎるのでコラトゥーラも混ぜた。個性に個性をぶつけたら消えるというわけではないが。角切りにした鰹にしょっつる&コラトゥーラを和えて、それに小口切りの薬味ねぎをさっくり混ぜる。別添えで長芋を千切りにして添えて一緒に食べる。美味しいんだこれが。

・平鱸昆布締め三葉和え

 平鱸が売っていたので。茹でた三つ葉と生の三つ葉と摺り胡麻(と少量の醤油)で和えるが、それなら昆布締め一晩じゃちょっと足りなかったな。2晩くらい締めてねっとりしたのを出したかった。

・ボイル剣先烏賊

 ただ茹でただけの剣先烏賊を輪切りにして酢味噌で。まあ不味いわけがない。

・出汁巻き玉子

 トウモロコシ摺り流しで一番出汁をひいたので出汁巻き卵に。

・夏野菜揚げ浸し

 茄子、ズッキーニ、アスパラガス、パプリカ、インゲンを素揚げにして、二番出汁に薄口醤油と味醂で調味した地に浸して温かいまま提供。最後にたっぷりの大根の鬼おろしと、彩りにブロッコリースプラウトを添えた。ちょっと野菜を揚げすぎて食感が残せなかったのが失敗だった。

・合鴨腿肉葱炒め

・牛たたき

 ステーキ用の肉の表面をさっとフライパンで焼いて薄く削ぎ切りにして皿に並べ、新玉ねぎ、ミョウガ、大葉、薬味ねぎをたっぷり乗せて、ポン酢ベースのタレをかける。

・蛸飯&赤出汁

 半夏生だったからね。というのは半分言い訳で、前日にスーパーに行ったら干し蛸が売っていたので作るしかないとなった。蛸飯は断然干し蛸で作るのが美味い。赤出汁はカクキューの純度100%八丁味噌に刻んだ三つ葉をたっぷり。赤出汁ダメな人もいたかもしれないが、悪いがここは我を通させてもらう、という気持ちでえいやっと出した。ダメな人もいたでしょうね。私は好きですが。

 料理は全体的にしっかり初夏っぽいラインナップにできて、細かいところで失敗はあれど概ね満足している。付き合ってくれたみんなありがとう。

 そして締めに羊羹を食べた。ひと箱1kg1万円という高級羊羹をな。美味しかった。

 

2023年6月7日&9日 洋食屋 四谷

 四谷の洋食。かつれつ食べる。美味しい。好き。狭いキッチンで効率化することろはして、残すべきコアな部分は残して、そういう取捨選択があったように思う。

 

2023年6月1日 ドジョウ汁

 ドジョウを買ってきて酒と塩で締めて洗って炒り焼きして水を入れて炊いて、ブレンダーでジュースにして、カツオ菜を入れてくったくたになるまで煮込んで食べる。味付けは塩だけで食べて翌日八丁味噌を入れて食べた。美味しい。韓国味噌があればそれを使ったんだけど家になかったので、八丁味噌で。ちなみにこれらの味噌は煮込んだ方が美味しい。

 

2023年6月1日 洋食 浅草

 浅草の老舗で。友人と。

 ミニサラダ。ビシソワーズ。カニクリームコロッケビーフシチュー。オムライス。エビグラタン。

 オムライスはふわとろオープン系でデミグラスソースパターン。この類ではいっちゃんうまいかも。カニクリームコロッケはとろっとろで美味しいけど、個人的な好みはとろっとろよりしっかりタイプだと認識。

 

2023年5月22日 とんかつ 大井町

 大井町のとんかつ。何度も行っている店だけど、福田和也の本に出てきてたので友人誘って行ってみた。この店でお酒を飲むのは初めてだった。ハムサラダとポークソテーをつまみにビールを飲んでオムレツも追加して日本酒も飲んでとんかつロースとヒレをシェアして楽しかったなーーーー。やっぱ豚屋さんだけあってハムサラダのハムがいいの使ってて良かった。ドレッシングも酸と塩味が強すぎず、主張しすぎない感じで、物足りなければ自分で塩とマヨネーズで調整できて、ツマミにしてグビグビ飲みたい人にもサラリと流してすぐにとんかつをがっつきたい人にも対応できる優れもので、その日の気分で使い分けられるようにという配慮よ………。ポークソテーは肉がしっとりしてて玉ねぎたっぷりで酒が進むし。オムレツにも玉ねぎとハムがいっぱい。とんかつ定食で腹を満たす以外にも隅々に楽しめる工夫があって感激した。ほんとに、いい店は行くたびにいいところが見つかるもので、この店はすでに5回は行ってるだろうけど、一面しか見ていなかった。頭の下がる思いだ。

 

2023年5月17日 骨付き鶏 香川ではなく横浜

 カルピス屋さん。この一言に尽きる。またカルピス飲みたくなったら行きます。

 

2023年5月の数日(日付記録なし) ウニ

 最初はイカウニに。アオリイカを薄く細くスライスして、ウニを乗せて。ウニの一番おいしい食い方これだろ。そのあと、スパゲッティ4種に使用。

①貧乏人のパスタ

②アーリオオーリオコンポモドーロベース、ウニ。アンチョビ、ケイパー、ピスタチオ。

③クリームレモンソースベース。ウニ。レモン。ピスタチオ。

④トマトクリーム。

トマトクリームがベタだけどいちばん美味しかったかも。①~③まではわりとしっかり火を入れたウニを使ったけど④では最後に和えるのと後乗せ追加したからかも。やっぱり生の方が美味いってことなのか???負けた気持ちだ。火を通しても抜群に美味しいウニパスタをいつか作ってやる。

 

2023年4月末~5月初頭 たくさんの酢豚

 夜遅く疲れて帰ってきてひたすら酢豚を作って食べて寝て翌日も朝から仕事してってサイクルだった。パイナップルジュースやオレンジジュースを使ったり、他にもいろいろ工夫した。

 複雑さで言えば、梅酒紅茶酢豚。以下作り方。

 去年漬けたダークラム梅酒30g、梅酒の梅の実4粒、黒糖15g、醤油25g、上記の5倍量くらいの水を火にかけて、梅の実が柔らかくなったら潰して種を取り除き、水を入れる前くらいの分量までリダクションする。この時点で梅の実と糖分でとろっと粘度がついているかんじ。粗熱がとれたら(ほんとは急冷したほうがいいですがすぐ作って食うのでまあよし)そこに酢を合計30g(今回は黒酢20g、リンゴ酢10g)と70gの紅茶、水溶き片栗粉少量を合わせておく。これがソースになる。豚肉300gは一口大に切って醤油(ソースに味があるから下味程度、ここは測ってない)と胡椒とほんの少し紹興酒を揉んで10分ほどおき、よく溶いてコシをきった溶き卵1個と片栗粉と少量の油を加えて揉んで衣を作る。ここも片栗粉計量してないけど粘り気具合で量を判断。水無しの卵の衣がポイント。油で肉を揚げて、薄く狐色手前のほんのり黄色くらいまでもっていく。これくらいが卵の風味が活きる揚げ具合。クッキングペーパーをひいたバットに取り出し油を切る。別フライパンにソース投入して沸かす。沸騰して水溶き片栗粉に火が通ってツヤとトロミがついたことを確認して肉投入。さっくり混ぜ合わせて豚の衣全体にソースが絡んだところで皿に盛って白髪ネギをあしらって完成。ソースと豚を和えるときに仕上げにダークラム梅酒を小さじ1杯くらい風味が増しでふりかけた。黒糖とラムのコク、梅(クエン酸黒酢リンゴ酢(酢酸リンゴ酸)の厚みのある酸、梅の風味、紅茶の渋みが調和してたいへん美味かった。

 衣は全卵を揚げた際の香ばしい風味を好ましいものとして選択してその方向性で頑張ったけど、片栗粉をまぶして卵白に絡めて揚げるやり方も今度やってみようと思う。

 

2023年4月24日 老舗蕎麦屋 室町砂場

 友人に付き合ってもらって行った。とにかくすべてが素晴らしかった。素晴らしい。また行きたい。天ぷらそばがとにかく素晴らしい。あれは卵料理だな。

 素晴らしすぎてあれこれ書くだけ野暮なので、これで終わり。絶対にまた行く。

 

今日はここまで。

次回は2022年と2023年の忘年会で作った料理について書き留めたい。

 

2023年4月1日 飲食雑記 洋食屋に行っています

 近況ですが、本当に疲れているらしく、金曜日夜、深夜1時半に就寝し、途中何度か起きたもののまたすぐに眠りに落ちて、土曜日17時まで眠りこけていた。この2週間ほどは仕事に追われて十分な休みも余暇も取れていなかった。このところ仕事以外で何も達成できていない。今日も起きてご飯を食べて買い物に行って高校数学を1時間半やったら今これを書いている途中で日付を回ってしまったでごわす。せめてブログを一本書き終えて公開し、何かをやったこととしたい。

 前回煉瓦亭に行ったのが2月4日*1、そのあと2月25日、3月20日、31日と洋食屋に行った。友人と洋食屋巡りをしている。出不精なので一人だとなかなかお店を回れない。一緒に行ってくれる人がいるというのはありがたいことだ。品数も頼めるし。

 

2月25日 上野

 煉瓦亭に行ったので、それに負けない古い店をということで上野の超がつく老舗店を選択。

 頼んだのはオムライスハヤシソース、カニクリームコロッケ

 ○○○○って頼んだらこういう味が出てくるよねーっていう理想形の美味しい味が出てくる。そのため意外性はあまりない。観光ついでにいくなら裏切られることはないので安心感がある。値段はちょっと高い。注文から提供までの速度がはやい。

 個人的には一度行けばいいかな…。お昼どきピークタイムは死ぬほど並んでいるし…。このメニューが面白いですよってのがあれば教えてほしい。

 

3月20日 五反田

 こちらは創業70年らしい。

 2人でシェアしながら注文したのはコンソメスープ、カニクリームコロッケ、レバーソテー、ハヤシライス、ポークエスカロップ

 最初に出てきたのはコンソメスープ。ウズラの卵が2つ浮かんでいる見たことないビジュアルをしている。一口スープを飲むと、タイムと胡椒の効いたハーバル&スパイシーな刺激的な香りにビックリする。見た目も味も、一品目から頭の上に???マークがいくつも浮かぶ。なぜ、ウズラの卵が浮かんでいるのか? 地元の洋食屋に、赤だし(私の地元はお店で出てくる味噌汁は赤味噌がスタンダード。しかしなぜ矢場とんの味噌汁は赤だしではないのか? 謎である)の中にウズラの卵が入っているものがあるが、濃い、多少粉っぽさもある赤だしに半熟になったウズラの卵の黄身がトロッと溶けてまろやかになって美味しい。つまりこの場合、料理としての必然性があるように思うが、このコンソメスープはどうなのだろうか? 美味しいには美味しいが、なにもわからない。ウズラの卵、それも2つ。一般に卵の味は強いので、コンソメスープ、ではなく、ウズラの卵ポーチドエッグスープ、とかの商品命名のほうが実態に沿っているように思われる。しかし、老舗店でよく発生しがちに思うが、メニュー名から想像もできないものが飛び出すのもまた一興、楽しみの一つという捉え方をするようになってきた。

 次にカニクリームコロッケ。三角形の独特な形をしたクリームコロッケが2つ運ばれてきて、味がついているので何もつけずにお召し上がりください、とのこと。食べると塩気がしっかり効いている。なるほど何もつける必要がない。それに加えて玉ねぎの甘味と、マッシュルームの食感、そして……カニ…? カニ…?????? カニ、いなくないですか? 口のなかでカニを探しても見つけられない。そのかわりに肉の出汁の味がする。あのコンソメに使うベースの出汁の味だろうか? いったいどういうことなのだろうか? 疑問は尽きることがない。またしても疑問符が頭の上に浮かぶ。

 3品目はレバーソテー。玉ねぎとピーマン、ベーコンと鶏レバー、そして鶏ハツが一緒に炒められていて、茶色い(というか黒に近い)とろみのついたソースでまとめられていて、仕上げに上にクレソンが添えられている。食べてみると、これも塩気がしっかり効いていて、そしてガツンとニンニクが効いている。これはなんなんだろうか。何味なのか? なにもわからない。2人で食べながら、そもそもこれは洋食なのだろうか?という疑問が生じた。中華料理屋でレバー炒めの名でこれが出てきても、もしかしたら違和感なく食べているかもしれない。この料理のルーツはどこにあるのか、類似の料理は他店舗にはあるのか、何もわからない。沼津のあんかけスパゲティ(とは名乗っていないが)にカルーソというレバー炒めをトッピングしたメニューがある。一緒に行った友人とも過去にそれを食べており、たいへん美味しかったことから、レバー炒めに勝手に期待して頼んでみた。沼津の店のカルーソは、玉ねぎスライスとレバーをからっと炒めて水分を飛ばした炒め物が乗っていて、そういう感じのものが出てくるのかな…というぼんやりした予想持っていた。ところが予想とはまったく違う、とろみのついたソースたっぷりのものが出てきた。あるいは町の洋食屋にありがちな生姜焼きや焼肉定食のようなあまじょっぱいソースが絡んだものが出てくる可能性も考えていたがまったく違う。鶏レバーというのも意外。あれはいったいなんだったのだろう?? 頭上の疑問符は増える。

 4品目はハヤシライス。正直、ここでハヤシライスではなくテールシチューやタンシチューを選ぶべきだったと後悔してはいるが、そこはまた行けばいい。ここのハヤシライスは、前回訪れた上野の店のようなみんながイメージする最大公約数的なハヤシソースでご飯を食べる料理ではなかった。玉ねぎと肉を炒めたものに肉の味の汁が絡んでいる料理、と表現した方が正確だろう。料理の要素の組み立てから判断すると、いっしょに行った友人の素晴らしい例えを引くのであれば「牛丼」に近い何かである。ソースポットにこぼれんばかりに盛られた玉ねぎ肉炒め+肉汁(ハヤシソース)のビジュアルもインパクト大で、お肉たっぷりで、満足度の高い料理だった。

 5品目はエスカロップエスカロップという、おそらく日本各地に別々に伝播し点在する謎の洋食メニュー。根室のそれは全国的に有名だが、福井の敦賀ヨーロッパ軒のスカロップ(もったりしたオレンジがかった色のシナモン風味のソースがかかっている)、名古屋市車道の某店のエスカロップ(ポークカツレツにデミソースが上からベタっと前面に掛かっている)などを私は観測している。他にも全国あちこちにいろんなエスカロップがあるのだろう。ここのエスカロップはチーズが入っている豚ロースカツで、横に一筋、黒いソースがかかっている。このソースはビーフシチューに共通のデミグラスソースだろう。チーズがもっちりしていて、ソースはコク深くてアクセントとしてしっかり効いていて美味しかった。しかし、エスカロップチーズ入りは初めて経験した。

 全体としてたいへん美味しかったが、店を出て同行人と同意見だったのが、「わからない」ということだった。なぜどうしてこうなっているのか、最初から最後までわからない。よく知っているはずのメニューがすべて未知な何かとして出てくる。似ているけどなにもかも違うパラレルワールドに迷いこんでしまったのだろうか。オフィス街の雑踏の片隅にひっそりと我々に馴染みがあるそれとは違う異世界がある。我々が生まれる前に忘却されたものが残っているのか、その店の独自発展の結果なのか、我々の無知ゆえであるのか、ともかくも、私の身近には私の知らない世界が大きな口を開けているのだ。私は覗き込んでしまった。もう逃げることはできない。

 

3月31日 赤坂見附

 31日は友人の職場が近い赤坂に良さそうな店があったので行ってみることに。1970年創業とのこと。頼んだのは、おつまみセット、ポークソテーナポリタン、オムライスデミグラスソース。

 おつまみセットは、燻製半熟茹で卵、ピクルス、エビフライのセット。卵はほどよく冷燻されていて、エビフライの衣が軽くて美味しかった。

 次に出てきたのがポークソテーポークソテーは鉄板に乗っていて、ガロニは人参、スナップエンドウ、ポテトフライ。茶色いソースがかかっている。同行人と2人して、ははーん、こういうパターンはもう美味しい、と確信。洋食屋で食べ物に茶色いソースがかかっていればだいたい当たりなのだ。一口食べてみると、マスタードだ。マスタードの酸味と刺激がファーストインプレッションとしてやってくる。食べ進めると、どうやらソースにはピクルスも入っている。友人が何のソースだろう?と問うたので、私は「うまあじ(旨味)ソースでしょ」とてきとうに答えたが、突如として私の頭のなかでピースが嚙み合った。あ、これ、シャリュキュティエールソースじゃん、と。炒めた玉ねぎに白ワインを加え煮詰め、仕上げにピクルスとディジョンマスタードを合わせたフランス料理の古典的ソースだが、ここまで色が濃いシャリュキュティエールは見たことがなかったから最初全然気づけなかった。おそらく、オムライスに使うデミグラスソースを少し加えているから茶色が濃いのだろう。現代のレシピでもフォンドボーを加えて旨味を増強することがあるので全然不思議なことではない。それどころかむしろ、指向としては正統な古典フランス料理への回帰といった趣すら感じる。ただの「うまあじ」ソースなどではない、洋食とフランス料理のたしかな知識と技術に立脚したソースだったのだ。

 3品目はナポリタン。トマトソースがたぶん入っている。ベーコンやハムやソーセージではなく、豚肉が入っていた。ナポリタンの肉の燻製のにおいはあまり好ましくないと思っていたので、個人的には当たり。ほっとする味だった。

 4品目はオムライスデミグラスソース。店の名前を冠した〇〇風オムライス、とのことで、意外や意外、ケチャップライスではない。硬めに炊き上げた粒立ちのよいピラフの上に、上面オープンの半熟オムレツが乗っており、さらにそのオムレツにピーマンや豚肉がビルトイン。その上からデミグラスソースがかかっている。一口食べるや夢中で食べきってしまう美味しさだった。同行人と思ったのが、これはオムライスなのだろうか? ということだった。何か似て非なる、でもやたらと美味しい何か。いや、もちろんオムライスと呼んでなんら差支えのない料理だと思うが、既知のものと違う。帰宅後、自宅で湯舟に浸かりながらそぞろにその日のことなどを思い出していたら、ふと、過去に同じような料理を自分で作ったことを思い出した。同じような、と書くと語弊があるかもしれない。美味しさを構成する原理部分は同じ、くらいの話なのだが、あれは、「愚者の祭典」じゃん、と閃いた。どうやったって注釈が必要だと思うので注釈すると、小林銅蟲の傑作料理漫画『めしにしましょう』に登場する料理で、白飯の上に、牛筋煮込みとふわとろ卵と豚の竜田揚げが乗ったなにかである(コミックスが今手元にないので記憶ベースだから違うところあるかもしれない)。私は昔新潟で働いていた友人の食客をやっていたことがあるのだが、その際振舞った経験があり、食べ始めると気づいたら満腹になっていて皿からメシが消えている。粒立ちよく硬めに炊いた米と、ふわとろ卵と、肉汁が口のなかで渾然一体となって化学反応が起こり食欲に着火する。あの店のオムライスもそれと同じだ。ケチャップライスであってはいけない。味が強すぎる。それに一粒一粒がきちんとそれぞれ解けてくれなくてはいけない。米はあくまでも米。そこに卵、肉味ソースのコンビネーションで料理が完成する。ひるがえって考えると、通常のオムライスは卵ではなく包まれているケチャップライスのほうが料理としての本体ということなのだろう。ふつうのオムライスにおいて卵やソースは増強剤にすぎないのかもしれない。おそらく多くの人がオムライスにぼんやり憧れを抱いているであろうふわとろ卵、デミグラスソース…なんて飾りです、偉い人にはそれがわからんのかもしれない。とまで考えた。話を戻すと、通常のオムライスセオリーからはおそらく違う原理で「美味しい」を生み出しているので、オムライスと呼んで差し支えないが、それともちょっと違う美味しい料理だった。ところで、その店はオムライスにソーセージやハンバーグを追加トッピングできるらしいが、「愚者の祭典」に準えるなら豚肉の竜田揚げに相当する位置づけにあり、米・卵・ソースの三位一体に敢えて別の咀嚼物を加えリズムを与えていると解するべきであろう。トッピング、むちゃくちゃいいじゃん。やればよかった。メニューを眺めた当初は、オムライスにトッピングなんて無粋では?と思っていたけど、なるほど料理の設計に適ったオプションだったのだと思い直し、当初の考えを改め反省した。

 燻製卵はおそらく自家製で、料理人の方は料理が好きでいろいろ試したくなる小粋な人なのだろうと推察される。一方で現代的な発想からはあまり生まれそうにないオムライスや、古典的なフランス料理の応用らしいソースがあったりと、どこからどこまでが創業時からなのか、途中で導入されたものなのか、古典と新鮮さの入り混じりの妙が謎を深めていく。先に記した五反田の店で謎に囚われて以来それを引き摺ってここでも深く考え込んでしまっていたが、風呂に入ってそぞろに思案しているうちに、ある店の料理すべてを統合する理屈をどうこうして考えだそうだなんておこがましいと思わんかね、と気付いた。長く続いている店にさまざまな地層が重なっているのは当然のことであり、それぞれについては考察の余地はあるが、それらすべてを一つの筋書きで理解しようすることなど土台無理な話である。ピラフの上に卵が乗ってピーマンや豚肉がちりばめられてソースがかかっている。あのオムライスに、必然性と偶有性の地層の重なり合いの表出をそのまま見い出せばよいのだ。今度トッピングを試すためにもう一度行きたい。

 

 洋食屋にすっかり魅せられてしまった。行く店はどの店も強烈な個性がある。同じ商品名でも振れ幅が予想を超えて大きい。しかもそうとは主張しないから、店に行って目の前に出てきて食べないとわからない。

 だが、メニュー名に盛り込み過ぎるとたぶん3軒目赤坂見附はこんなふうになってしまうだろう。「豚肉ソテー肉屋風旨味(うまあじ)ソース、自家製トマトソース入りほっこりナポリタン、手間ひまかけた特製ソースがけ元祖・玉子ご飯、大粒カキフライピクルスたっぷりタルタルソース添え*2」クソダサである*3。極端な例を出しておふざけをするのはさておき、仮に新規店で同じような商品を出すとしたらメニューにはなんと記載し、お客さんにはどのように伝えるだろう……と考えてしまう。

 店をホッピングしていくことへの躊躇がないではないものの、今は同行者がいることに感謝しつつ、しばらく洋食屋巡りを続けたいと思う。同行二人(弘法大師ではなく実際の友人だが)、洋食屋お遍路の旅は続く。

 以上です。

*1:いつの間にか岸田と尹が行っていた

*2:そういえばカキフライも頼んでたの忘れてた

*3:クソダサに書いてるんだからそりゃそうか。