暖かい闇

酒と食事と過去

『きみの色』視聴感想 自己愛への道程

弁明

・映画公開直後くらいからブログを書き始めたのに、記事の公開が遅れに遅れました。書く書く書いている書いていると友人諸氏に言いながらいつまでも公開しないままですみませんでした。
・映画のネタバレを含みます。
・むちゃくちゃネタバレします。


はじめに

光の三原色RGB
Ramuda, Gentaro, 残りはBakaだ♪

 

 しまった引用する文章を間違えた。これはヒプノシスマイクの「Hoodstar」でシブヤ・ディビジョンの夢野幻太郎(CV. 斉藤壮馬)が担当している箇所の歌詞じゃないか。違う、違う。

私の重さは私の愛です。私は愛によってどこにでも、愛がはこぶところにはこばれてゆきます。あなたの賜物によって火をつけられ、上にはこばれてゆきます。燃えあがり昇ってゆくのです。私たちの昇るのは心の上昇です。昇りながら階(きざはし)の歌をうたいます。あなたの火によって、あなたの善き火によって燃えあがり、昇ってゆきます。

 

 引用したかったのはこっちだった…。ヒプノシスマイクではなく、ヒッポのアウグスティヌス『告白』第13巻(山田訳)からでした。アウグスティヌス『告白』のこの一節を読んで一見奇妙に思えるのは、下方向へ引っ張るはずの「重さ」が、自身を上昇へと運ぶ力へと転換されていると感じるという逆説のゆえである。『きみの色』ではユニークな方法でこの逆説を解決しているように思える。本作映画も、アウグスティヌスが言うのと同じく、「私の重さ」が実は「私の愛」であったことを示す映画なのだ(と私は思った)。『きみの色』では現代的な世界(宇宙?)観にもとづき、重さを愛へと転換する。そして、その愛はその者を上昇へと導く。私にはこの映画が、このアウグスティヌスの一節に対するひとつの斬新な解釈を提示していると思われ、その意味でとても興味深い映画のように思えた。はたして「私の重さ=愛」はいかにしてその人の心に火をつけ、燃え上がらせ、上昇へと導くのだろうか。本作は、愛が人の生活のどこから発し、そして、その愛がどうやって神に向き直されるのか、その歴程を描く映画である。
 また、本作映画において私がもう一点重要だと思うのは、愛が上昇していく過程を、あくまで個人の具体的な生のなかでの出来事として描いている点である。本作では信仰をなにか観念的で抽象的なものとしてではなく、人生の各局面でその人に寄り添う、とても実践的なものとして描いていると私は感じる。とりわけ、(これを言う時点でとてもキリスト教チックな言い方になるのだろうが)人間の不完全性に対する姿勢は注目に値する。人間は不完全であるからこそ、人生の途上で都度、常に不可避に不完全な愛を発揮するほかない。『きみの色』における凸子も同じく、未完成な愛をぐっと振りかざしながら愛を高めていく。
 ということで、以降に映画感想を書いていきたい。
 と、そのまえに、あらかじめ断っておかなければならない。今回この映画感想を書くにあたり、山本芳久(およびトマス・アクィナス)の各著作を全面的に導きの糸とする(とくに、山本芳久『トマス・アクィナス 理性と神秘』岩波新書)。トマス・アクィナス、および山本芳久を『きみの色』理解のための解説本とする、という、自分でも風変わりだと思える映画感想記事を書くことになってしまった。でもそう思ってしまったんだから仕方がないじゃないですか。
 この映画感想記事は次の順番で話を進めていく。
 まず、主人公の凸子は自らの愛を徐々に高めていき、その愛を最終的に神への愛へと上昇させていくのだが、それを理解するためにはトマスにおける愛の諸段階について知る必要がある。山本芳久『トマス・アクィナス』を参考に、トマスにより整理されている愛の秩序・順序づけについて確認する。
 つぎに、本作の主人公である凸子が、そのトマスの愛の秩序を逆順に辿っていくことを確認する。彼女の愛は最終的に神への愛へと向き直されることとなる
その過程で、彼女が愛を上昇させる過程には、「重さ」を「愛」に転換する本作の映像上の仕掛けが密接にかかわっていることを示す。凸子にとっての重さと、キミにとっての重さの対比が示されるだろう。

 

トマス・アクィナスにおける愛の秩序

 山本芳久は『トマス・アクィナス 理性と神秘』(岩波新書)において、トマスが愛に設けている秩序を紹介している。トマスは『神学大全』第二部の第二部第二十六問題において、人間の抱くカリタス(愛・愛徳)には順序・秩序があると説いている。人間の抱くカリタスには、神への愛、自己への愛、他者への愛という順番での秩序づけがある。さらに、他者への愛は、欲望の愛と友愛の愛の2つに分けられ、友愛の愛の欲望の愛に対する優越が説かれる。順番に並べると以下のようになる。

①    神への愛
②    自己への愛
③    友愛の愛(他者への愛-a)
④    欲望の愛(他者への愛-b)

 なぜこのような順序となるのか?トマスは以下のように説明している。(山本芳久『トマス・アクィナス』からの孫引きになってしまいすみません。創文社訳にもあたるべきなのですが…。)

 神はカリタスの愛がそれに基づいているところの善の根拠として愛されるのであるが、それに対して人間は自己をカリタスによって、自らがそれによって前述の善の分有者であるという根拠に基づいて愛する。それに対して隣人は、その善における仲間であること(societas)という根拠に即して愛される。ところが、仲間であること(consociatio)が愛の根拠であるのは、神への秩序づけにおける何らかの一致に基づいてである。
 したがって、一であること・一性が一致よりもより強力であるごとく、人間自身が神的善を分有しているということは、他者がこの分有において自己と仲間になっているということよりも、愛することのより強力な根拠である。それゆえ、人はカリタスに基づいて隣人よりも自己自身を愛するべきである。

神学大全』第二部の第二部第二十六問題第四項 山本芳久『トマス・アクィナス』p.215-216

 はじめに、人間がカリタスを抱くことができるのは、人間が神からの善の分有に与っているからである。したがって、愛の秩序の第一には、人間の愛の根拠となる神に対する愛が置かれる。つぎに、自己自身には神的善が直接分有されているゆえに、愛の秩序の第二には、自己への愛が置かれる。「一であること・一性が一致よりも強力であるがごとく」とトマスが述べるように、「自己にとって、自己とは、神のカリタスが直接的に現前する唯一の場所」 *1なのである。それに対し、他者への愛は自己自身が神から与った愛を他者におし及ぼすものである。他者への愛には異なるもの同士の「一致」はあれど、「一であること」はない。このことから、自己愛が他者愛に優先するのである。
 また、第二部の第二部第二十五問題第四項でも同様のことが述べられている。

友愛は固有な意味においては、自己自身に対して持たれることはなく、〔自己自身に対する愛は〕友愛よりも大いなる何ものかである。なぜならば、友愛は何らかの一致(unio)を含意しているが――というのも、ディオニシウスが述べているように愛は「一致させる力(virtus unitiva)」だからである――各々の人間は、自己自身に対して、一であること・一性(unitas)を有しているのであり、一であることは一致よりも強力であるからである。それゆえ、一であることが一致の根源であるように、人がそれでもって自己自身を愛するところの愛が友愛の形相であり根拠である。というのも、我々が他者に対して友愛を有するのは、彼らに対して我々が我々自身に対するような態度をとるということにおいてだからである。

(第二部の第二部第二十五問題第四項 山本芳久『トマス・アクィナス』p.184-185)

 

 ここでは「人がそれでもって自己自身を愛するところの愛が友愛の形相であり根拠である」とも述べられている。自己への愛の根拠が神であったように、他者への愛の根拠も自己への愛に置かれる、とトマスは述べる。神への愛、自己への愛、他者への愛という秩序づけは、それらをたんに重要度の高い順番に並べたものではなく、その愛が発する因果の関係にもあるということがわかる。神からの愛があって、はじめて人は愛を抱くことができるのであるから、自己への愛よりも、神への愛が第一に置かれるべきである。また、他者への愛は、自己自身への愛の一性があってはじめて他者に展開可能なものなのだから、他者への愛より自己への愛が先に置かれるべきである。これにより、「神への愛 > 自己への愛 > 他者への愛」という3者の順序づけとその関係がわかっただろう。
 他者への愛のうちの区分(友愛の愛、欲望の愛)についても、引き続き山本芳久『トマス・アクィナス』に準拠しつつ確認しておきたい。「アリストテレスによると、友愛という人間の相互関係は、何かを共有することに基づいて生まれてくる」*2もので、共有されるものがどのようなものであるかによって3つに分類されるという。それは「利益に基づいた友愛」「快楽に基づいた友愛」「人柄の善さに基づいた友愛」の3つであるという。つまり、役に立つから愛する、喜びを与えてくれるから愛する、人柄の善さを愛する、という3つである。トマスは前2つを「欲望の愛」、3つ目を「友愛の愛」と整理しているという*3
 そして、トマスは欲望の愛と友愛の愛の2つの基本的な相違をこのように述べる。欲望の愛は、他者を自身の欲望の実現のために利用する「「我々にとって外的であるもの」すなわち他者を「我々自身に引き寄せる」」愛であり、友愛の愛は他者がその人らしく幸福になれるように積極的にその人にかかわっていこうとする「我々自身を、我々にとって外的なものへと引き寄せる」愛である*4

 

凸子の愛の始まり

 凸子は、前節で確認したトマスの愛の秩序を逆順に辿っていく。つまり凸子は、欲望の愛からはじまって、友愛の愛、自己自身への愛、そして最終的に神への愛に自己を開いていくのである。この節では、凸子が欲望の愛に目覚め、彼女の愛の旅路が始まるまでの過程を見ていこう。
 凸子は他人の色が見えるという特殊な知覚を有しており、ときに特定の人の纏う特定の色に強く惹かれることがある。桜の花びらの舞う時期(高校入学時か高校2年の春?キミの髪の長さから判断して高校入学時ではないかと推察するがどうだろう。)に凸子は校内を歩くキミの姿を見かけ、キミの纏う青い色に強く魅せられてしまう。このように凸子の愛は彼女の知覚によって、突如として外部からもたらされる。

「愛」というものは、単に心の中から内発的に生まれてくるものではありません。外界の魅力的なものから心を揺り動かされることによって生まれてくる。そして、心を揺り動かされるということは、単に一時的に起こってそれで終わりということではなく、持続的な影響を私たちに及ぼし続けることになります。
山本芳久『世界は善に満ちている トマス・アクィナス哲学講義』新潮選書 p.60

 キミによって外部から、受動的に、凸子の愛の情念はもたらされる。おそらくこの時点で凸子が抱く愛の感情は、トマスが細かく分析するような「〇〇への愛」といった明確な方向性や形をもったものではなく、未分化な、ただ惹かれるがまま惹かれるというエネルギーの塊であったことだろう。そして先の引用にあるように、この愛は凸子に持続的な影響を与え、それまでの彼女を否応なしに変化させる。凸子の意志如何にかかわらず、凸子はキミがいる世界に放り込まれ、その世界で生きるほかない。
 しかし、ここから凸子は自身を魅了する「欲求されうるものへの運動」をすぐさま開始したりはしない。むしろ自身の激しい感情をなんとか抑え込み、以前の自分と外形的には何ら変わらない生活を送ろうと試みる。校内でキミを見かけても、湧き立つ感情を抑え、しかし目の端でキミを追いながら、十字を切って胸のざわめきが落ち着くことを祈る。彼女の特別な知覚は多くの他人にとって特異なものであり、幼少期から彼我の違いを認めるにつけ、彼女は自身が特殊な知覚の持ち主であることを周囲に隠すようになった。その知覚から発する誰かに強く惹かれる感情も、彼女にとっては秘すべきものであったのだろう。凸子が教会の聖堂で唱えるニーバーの祈り「変えることのできないものを受け入れるだけの平穏をお与えください」という文言は、自分の特殊な知覚と、それが特異であるゆえに他人に受け入れられることはないだろうといういままでの状況を、「変わらないもの」とし、求めるものが手に入らないのならばせめて心の平穏を得たいと願ったものだった(これはこれで切実な願いである)。
 ところが、自身の愛を胸に秘めていた凸子にも転機が訪れる。体育のドッジボールの授業でふいにキミの美しい色に魅了されてしまった凸子は、キミに気を取られ、キミの投げるバレーボールの球を顔面で受けてしまう。凸子は鼻血を出し、その場に倒れこむ。いままで遠くから見るだけにとどめ、距離を保っていたキミという愛の対象が、凸子に直接接触してきたのだ。以降、凸子の心はキミで満たされ、凸子の世界は一変する。
 だが、愛で満たされた生活もつかの間、彼女の幸福はすぐ終わりを迎える。次の体育の授業にキミの姿は見えず、突如として凸子は愛の対象たるキミを失ってしまう。同じクラスの人に訊くと、キミは退学して学園を去ったのだという。キミの美しい色が凸子の世界から失われてしまった。だがもはや凸子にとってキミなしの世界は考えられない。凸子は居ても立っても居られずキミを探し始める。そして図書室でふと耳にしたキミについての噂話を頼みに、長崎の市内を探し歩くのである*5
 こうして凸子はキミに出会う以前の自身の世界から離脱して、新たに愛を求める旅を始める。「旅」という表現を使ったが、人生を旅になぞらえ人を旅人(viator)と捉える表現は、トマスを読んでいると私もときおり出会うことがある印象的な人間観を表す語だ。(山本芳久『トマス・アクィナス』2章の冒頭にもあるとおり。)旅人とは、人間が紆余曲折を経ながら神へと向かっていく過程の云いである。そしてその過程は、人間の完成の過程でもある。この人間観には2つの前提が必要だ。人間が不完全な存在であるということ、そして神の似姿として人間は神を求める存在であるということ、の2つだ。人間は不完全であるから、その生活史において、愛ははじめ可感的なものを通してもたらされ、受動的な感情として生じる。凸子が特殊とはいえその視覚による知覚をとおして自己を魅了する存在と出会ったように。そして、強く惹き付けられるにつれ、自己を魅了した存在に連れ出され、そして自らもそれを求めて、以前の自己から離れ、愛する対象を追い求める運動を開始する。凸子は愛を求める旅に出たのである。すこし長くなってしまったが、ここまでで凸子は愛を求める歴程の出発点に立つ。

 

他者への愛 欲望の愛から友愛の愛へ

 長崎市街を尋ね歩く凸子は、道端で出会った白猫に導かれ、ついにキミがアルバイトをしている古書店しろねこ堂に辿り着き、そこでキミと再会する。ルイが2人に、もしかしてバンドをやっているのかと尋ねると、凸子はバンドをやっている、メンバー募集中だと咄嗟に嘘をつく。この段階での凸子の愛は、「欲望の愛」の段階にあると言えるだろう。というのも、欲望の愛が、他者を自身の欲望の実現のために利用する「「我々にとって外的であるもの」すなわち他者を「我々自身に引き寄せる」」愛であるならば、この段階の凸子はキミの気持ちも考えず、ただ美しい色をもつキミを自分の傍に置きたい一心に、口からデマカセを吐いているからである。
 凸子の愛の次の段階(友愛の愛)に行く前に、ここで本作の重要なモチーフを導入しておきたい。次の段階へ行くために不可欠だからだ。『きみの色』では球体や円形が繰り返し登場する。ざっと列挙すると、ドッジボールに使用していたバレーボール(既出)、学園の噴水の雫、キミの自室のニュートンの振り子、書店しろねこ堂の時計の振り子、キミの自宅の庭の鈴生りの未熟なミニトマト、しろねこ堂の店先の電球、しろねこ堂の未熟なオリーブの実、図書室の地球儀、太陽系の星々、クリスマス市のスノードーム、バレエダンサーが俯瞰でくるくる回る姿…などである。この一連の球体・円形は、凸子やキミとともに表れ、徐々にその意味合いを変化させていく。
 たとえばキミにとって球体とは重さである。噴水の水面に朧げに映る人影は十中八九学園を去っていくキミなのだが、噴水の水滴はいっとき宙を舞い、しかしすぐさま自らの重みで落下する。ニュートンの振り子、時計の振り子は同じ場所を行ったり来たりするのみで、重力に縛られてどこにも行けないキミの様子を暗示しているし、実る果実はまだ青く、未来への可能性を秘めるものの、彼女にとっての心の荷の重さを感じさせるアイテムだ。キミにとっての球体とは、作中で重力として表れ、垂直方向の下方向へと彼女を縛り付ける力として現れる。
 これに対し、凸子は最初から球体をキミとは異なる仕方で受け止めている。凸子にとっての球体は、水平方向に引き付ける力、あるいは引き合う力として登場する。彼女の顔面に衝突するバレーボールはキミに決定的に惹きつけられることとなるキッカケであるし、その後登場する太陽系は、歌詞構想ノートに凸子がメモしているように、キミを太陽とし、自身を惑星と同一視する人間関係のモデルとなる。凸子にとって球体が被る力の正体は、人と人とを引き付け、ワクワクする感情や喜びの源泉となるエネルギーである。
 微視的に見ればこの地上に自身を縛り付けるにすぎない力が、巨視的に見れば互いを引き付け合う力となる。作中では、太陽系すら、銀河系を回るほんの一部にしかすぎず、より大きな引き合う力によって動かされていることが授業の学習映像で示される。引き付け合う力が、より大きな観点からは、さらに上昇へと自身を引き上げる力ともなりうるのである。そしてそれらはみな同じ原理の力なのだ。凸子とキミの引き合う力さえまるごと飲み込んで動かす大スケールの世界(宇宙)観である。凸子を取り巻く太陽系や銀河系のイメージは、キミの悩みを包みこみ、「重さ」への新たな解釈を与える。『きみの色』のこの重力から引力への転換は、冒頭に引用したアウグスティヌスの「私の重さは私の愛です」の現代的な解釈のように思え、とても新鮮だった。
 さて、ここまで確認したところで、凸子は「友愛への愛」に進んでいく。
 自分とキミとを太陽と惑星になぞらえて生まれた「水金地火木土天アーメン」は、太陽系の中心であるキミに向って自身が引き付けられるイメージから生まれた曲だ。ここには友愛の愛である「我々自身を、我々にとって外的なものへと引き寄せる」愛の萌芽がある。そしてこの愛は、具体的実践的には、凸子がキミを修学旅行の期間中学園の寮に泊めてあげるという形で発揮される。
 凸子は、キミから祖母に学校を退学していたことを伝えておらず、修学旅行中家にいるのは不自然だという事情を聞き、キミの心の内を思い遣り、なんとかしてあげたいと思案する。その結果、寮の部屋にキミを泊めるという案を思いつく。彼女は、キミがつらい思いをしないように、自身の居場所を彼女に差し出し、分かち合うことにしたのである。友愛の愛とは、「他者が他者自身として幸福な在り方をすることができるような仕方で、他者へと積極的に関与しようとする」*6愛であるから、凸子の行為はキミへの友愛の愛への発揮であったと言えるだろう。
 ただし、この友愛の愛の発揮は不完全な発揮だったことには注意しなければならない。山本芳久の言うとおり、他者への友愛の発露たる親切は「その意思さえあれば、いつでも誰でも容易にできることではない。それぞれの他者がいま何を必要としているのかを的確に読み取る知恵や、その必要としているものを準備するための経済力や行動力、人間関係のネットワークなど、実に多くのことが前提条件として求められる」*7。友愛の愛を十全に発揮することはとても高度な能力を必要とするのだ。凸子の場合を見てみると、祖母を欺き寮に忍び込むことがキミにとって真実に幸福な在り方とは思えないし、凸子は仮病を使って友人や先生を欺いた。それに、キミとただたんに一緒にいたいという気持ち(欲望の愛)があったことも否めないだろう。彼女の友愛の愛はどう見ても不完全だ。そして当然、その不完全さの代償を彼女たちは支払うことになる。事態は露見し、部外者を寮に招き入れたことの罰として2人は1か月間の反省文と奉仕活動を命じられることになる。凸子も自らの行為に間違った部分があることを理解しており、嘘を重ねたことに赦しの秘跡が必要かもしれないと発言する。彼女も自らの行為が道義に反していると自覚していたのだ。
 だが、凸子の友愛がたとえ不完全であっても、友愛の愛が発揮されたことは間違いないだろうし、さらに、その友愛の愛の中にはより上なる愛が胚胎している。凸子は嘘を重ねることが道義に反することを自覚する一方、寮のベッドでキミと居場所を分かち与えたことを「すごく楽しくて、嬉しいよ」とキミに伝える。このとき凸子が感じた喜びとはなにか? 山本芳久が引く『神学大全』第二部第一部第三十三問題第六項で、トマスは「他人に親切にすることが喜ばしいことであるのは、そのことによって、自らのうちにあり余るほどに豊かな善が存在していて、そこから他者へと分かち与える(communicare)ことができるほどだ、という何らかの思いがその人のうちに生じてくるからである」と述べている*8。たしかに凸子には賢慮の徳が欠けており、キミにとってなにが本当に善であることなのかについて見誤っていただろう*9。キミのためを思って実行した方法も褒められたものではない。しかし、彼女の内には、自身のうちに他者に分け与えられる(少ないながらも)善が存することにたいする満足が、そして、それを惜しみなく与えることができるという自分自身の能力にたいする満足があったことだろう。寮のベッドというスペースは、高校生で寮生活の凸子が誰かに分け与えることができるもののなかでも最大級のものだったはずだ。そのなけなしの狭いスペースを愛する誰かに分かち与えることができる自分自身がいるのだ、というまさにその事実が、凸子の喜びとなったにちがいない。
 また、球体のうち、キミを太陽、自分自身(凸子)を惑星とする太陽系モデルにおいても、凸子はたんに太陽に引き付けられる惑星としてだけ自身を捉えているのではない。図書室で歌詞を考えている最中(凸子は太陽系の本を手にしている)に凸子は地球儀を見て、俯瞰から見たバレリーナたちがチュチュを円く広げながらくるくる回転する様子を想起する。このわくわくを歌にしたいと彼女は思う。幼少期、彼女がバレエに抱いていた楽しみの感情には、現在、キミに魅せられときめく気持ちが結び付けられる。わくわくはくるくるであったのだ。彼女の心の高鳴りは、キミを中心にその周りを公転することによってのみもたらされるのではなく、自転する自分自身の回転運動によっても湧き上がってくるものであることが示されるのである。このように、凸子がキミに抱く友愛の愛のうちに、次なる愛の段階である、自己への愛の予告を見出すことができる。

 

キミにとっての球の意味の転換

 凸子とキミは1か月の間毎日反省文の提出と奉仕活動を終え、再びルイの待つ島を訪れる。凸子の愛の自己愛の段階へと進む前に、このあとの一連のシーンにおいて、キミにとっての球の意味にも変化が訪れることになるので見ていきたい。
 1か月ぶりに再会した喜びに、ルイは声を上げて2人に抱きつく。そして手をとって3人で円を作り、くるくると回る。この場面は、凸子が辿ってきた愛の歴程をキミが速習するシーンとして解される。ルイの抱きつきは凸子がバレーボールの直撃を受けたことに対応している。凸子がバレーボールの衝突によって愛を求める旅に連れ出されたように、キミは誰かに惹かれ求める愛の在り方を知る。また、3人が手を取り合ってくるくる回る行為は、お互いに引き合う凸子の太陽系のイメージに比せられる。愛のかたちが水平方向に互いに引き合うことの由であることを、キミはここで知るのである。

 1か月会えなかったことはルイにとっても、凸子とキミにとってもお互いを強く求めるに足るだけの十分な空白期間だった。ルイは2人に会えない間、キミが作った曲にフレーズを付け加えていた。ルイは「少し悲しい気がしたから」と言葉少なにフレーズを付け加えた理由を語るが、そこにはキミの悲しみに寄り添う思い遣りが、ルイからキミへの友愛の愛の発露がある。このとき凸子に見える色のイメージは、お互いの色が完全に混じり合って区別がなくなるイメージではなく、色が混ざり合ったあと、それぞれの色の球が引かれ合いながら回転するイメージであった。
 その日、船で島から長崎市内に戻った凸子とキミは、クリスマス市で売られているスノードーム(これも球の一種)をいっしょに眺める。スノードームの中には、鍵盤を叩く笑顔のゴールデンレトリバーが座っていて、周りにはきらきら光るスノーパウダーが舞っている。「きれいだね」「うん」「ルイくんみたいだね、かわいい」。凸子はこのスノードームを2人でルイくんにプレゼントすることを提案すると、キミは少し頬を赤らめる。そして、感情の高まりを表現するように、彼女たちを取り巻く周囲にもスノーパウダーのようにきらきらしたものが舞い上がる映像が映される。まるでサイダーの泡が沸き立つように。
 キミが好んで飲む飲み物はいつも黒く濁った炭酸飲料だ。最初に凸子とキミがルイのいる島を訪れるときの船中。青い線が走り、海へと変わる。二羽の鳥が並んで飛んでいる。凸子は船酔いをし、キミに膝枕をしてもらう。このときにキミが飲むのは黒い炭酸飲料だった。凸子が寮にキミを招いたときも、キミは黒い炭酸飲料を飲んでいた。キミは自分のことを良い子ではないと言うが、キミの心のうちは、清らかでも澄んだ青でもなく、あの炭酸水のように、体に悪そうで濁っていて、常に泡立って落ちつかないものなのかもしれない*10。キミにとって、心の重さは学園の噴水の雫、自宅のニュートンの振り子(振り子の玉にキミの顔が写る)、書店しろねこ堂の時計の振り子たちのように、重力から逃れることができず、元ある場所から動くことができないでいる、というものであったが、この黒く濁った炭酸飲料も彼女の腹の中に巣食う心の重さを表すアイテムとして登場する。
 炭酸が沸き立つようにスノーパウダーが舞い上がるシーンは、キミにとっての球の意味が変化するシーンのように私には思え、とても印象的だ。垂直方向にのしかかっていた重荷が沸き立つスノーパウダー(=泡)とともに浮かび上がる。彼女の心奥の暗い水底から、その重さに反する運動が、愛の力によって湧き上がってくる。彼女にとって祖母からの期待や愛情は重荷となってしまっていたが、その自分を引っ張る力の正体が必ずしも垂直方向に自分を引っ張る力であるとは限らないのだと知るとき、彼女は祖母と向き合う心の準備を整えることができるのである。

 

自己への愛、そして神への愛へ

 クリスマス、島の旧教会で学園祭に向け曲の練習に熱中していると、戸外ではしんしんと雪が降り始める。気づくと船は欠航となっており、キミはその日、寮に帰ることができなくなってしまう。ヒヨコ先生の機転により、「合宿」*11という名目で凸子に外泊を許可し(ヒヨコが学校にどのように説明したのかはわからないが)、3人は旧教会に一泊することになる。その日の夜、ロウソクの灯る旧教会のなかで3人は「好きと秘密」を共有し、各々自分と向き合う覚悟を決めるのだった。
 島から帰ってきた日、聖堂で凸子とヒヨコは並んで座って会話をする。「「合宿」はどうでしたか」と訊ねるヒヨコに、凸子は例のニーバーの祈りの言葉について「変えられないものを受け入れ、変えられるものを変える勇気、というのが少しだけわかった気がしました」と答える。彼女たちは「合宿」でなにを変えられないとして受け入れたのだろうか。凸子にとってニーバーの祈りの文句の意味は、序盤と終盤で明らかに変化している。
 映画序盤のニーバーの祈り「変えることのできないものを受け入れるだけの平穏をお与えください」は、凸子が「でも、私が願っているのはまずは心の平穏で」と述べるように、「平穏」に強調点が置かれている。その平穏とは、自分自身の感情を否定し、抑圧すること、つまり、自分自身の感情に無感覚になることを意味している。彼女は、自分の激しい情念が決して他人に理解されることはなく、なおかつ自分の恋い焦がれる対象が決して手に入らないということを「変えることのできないもの」と見做して、それを受け入れようとしている。
 これに対し、合宿の際、彼女たちが受け入れようとしたのは、序盤の凸子が受け入れようとしたものとはまったく逆のものだった。彼女たちにとって変えられないものとは、何かを好きでいる気持ちだ。合宿の日、暗夜でロウソクの灯火に照らされ、彼女たちは自身の心に着けられた愛の火を肯定したのである。好きという気持ちは一般に、凸子の例で見たように、はじめ外部からもたらされ、やがていやおうなくその対象に魅せられ、また求めずにはいられなくなる感情である(この感情はまた賜物と解することもできる)。旅人としての人生の始まりは、自身をどこへ連れ出すのかわからないという不確実性を孕むため、周囲の人間が期待する進路から逸脱する可能性を孕む。そのため、ルイやキミは自分の好きという感情を恐れていた。何かを好きでいるという感情を「変えることのできないもの」として否定せず受け入れることは、自分の人生を不確実性の中に投げ込むということにほかならない。しかし一方で、自身が不可逆に不可避に変化するということを受け入れられるのならば、すなわち、不確実な未来に向かって踏み出す勇気が持てるのならば、そのうえで他者と交流する余地も生まれる。医師を志しながら音楽を続けることはできるかもしれない、高校は辞めてしまったが自分のほんとうに好きなことを希求してもいいかもしれない。これらは依然「かもしれない」に留まるが、同時に未来への可能性を開き、自身を他者へと開く契機ともなる。
 ところで、自己の「好き」を受け入れることは、とりもなおさず自己への愛を抱くということにほかならない。ルイは合宿の夜、バンドを組めたということに対して「いますごくうれしいんだ」と発言する。キミも祖母に事情を打ち明ける際に「すごく楽しいの」と自分の今の気持ちを伝ええる。凸子がキミと一緒に寮のベッドに埋もれながら「キミちゃん、私いま、すごく楽しくて、嬉しいよ」と伝えたときに抱いたであろうような、好きな対象に愛を差し向けることができる自己自身に対する充足を、ルイとキミの言葉のうちにも読み取ることができる。また、凸子にとってこの合宿の夜は、自身の知覚の特殊性(これは彼女が何かを好きになるときに基底となる能力)が生涯ではじめて他者に受け入れられ、肯定された日だった。それによって、彼女は幼少期に封印した、かつてバレエが好きだったという気持ちを甦らせる。自己への愛を妨げていた最後の障壁は解け、他の誰と比べることもなく、下手くそなりに(下手くそでもいいから)ルイとキミの演奏のもとジゼルを踊ることで、ようやく彼女は自己への愛を自分自身で受け入れることができる。

 かくして、学校の中庭で凸子がひとりジゼルを踊るシーンが結実する。

 彼女は自分自身の好きなことを誰に見られるでもなく全身で表現する。このとき、くるくる回転する回転の軸となっているのは凸子自身である。バレーボールを顔面に受けたあの日から、キミの周りを公転する惑星の位置を経て、ついに自分自身が回転の軸となり、自転する存在として、彼女は自己への愛を享受する。

 このシーンは彼女が一挙に神の愛へと向き直されるシーンであるとも解される。

 踊りのさなか、彼女は手のひらを太陽にかざし皮膚を通して透ける自身の血潮の色を認め、「見えた!」と声に出し、高速でくるくると回転しはじめる。愛の溢出を表現するかのように、背景には聖堂や旧教会、ルイのグリーンやキミのブルーが入れ替わり立ち現われる。踊り終わって息つく凸子が空を見上げると、その先には真っ白に輝く太陽が輝く。彼女固有の色が太陽の光を分有しているだけでなく、他の色(光の三原色を構成するルイグリーン、キミブルー)も太陽の光が分有した結果、それぞれの存在に分かち与えられていることに凸子はここではたと気づくのである。彼女の眼は愛の成立基盤たる自己を存立せしめている存在に向けられる。彼女の愛は、いまや神に向き直されたのである。

 

凸子の辿る愛の道程

 ここまでをまとめよう。
 本作は凸子が自分自身を愛し、そしてその愛が神へと向き直されるまでを描く映画である。その愛は最初、感覚的なものを通じて自身の外部からもたらされる。すなわち、自分ではコントロールできないかたちで、ある種の偶発的なものとして、それは自分ではないどこからかやってくる*12。そのようにして心に灯された愛の火は、しかし、徐々に高められるにつれ、彼女の中で大きくなり、確実に彼女を成長へと導いていく力へと変わっていく。愛が愛「徳」であるかぎり、「恩寵を通じて動かされる限りにおいて」*13人間の自由意志と行為により、その愛を養い育てることができるはずである。
 彼女の愛はトマスの愛の秩序のうち低次の愛からはじまり、徐々に高次の愛へと変化していく。欲望の愛→友愛の愛→自己への愛→神への愛 という順序で。
 凸子はただキミという美しいものを手に入れたい、傍に置きたいがために、つまり「「我々にとって外的であるもの」すなわち他者を「我々自身に引き寄せる」」ためにキミを求める。そのためには口からでまかせも言う。これが欲望の愛の段階である。次に、交流を深めるうち、凸子はキミのためになにかしてあげたいと考えるようになり、自分の寮のベッドをキミに差し出すということまでやってのける。これは友愛の愛の段階である。他者がその人らしく幸福になれるように積極的にその人にかかわっていこうとする「我々自身を、我々にとって外的なものへと引き寄せる」愛である。そして、バンドメンバーと心を通わせることで、彼女たちは自分自身が何を好きで愛しているのかを認め合い、自分自身の好きなものを否定せず受け入れるという段階に至る。これが自己への愛の段階である。凸子の場合は、幼少期に封印したバレエへの愛情を甦らせ、中庭でひとり踊ることで自己への愛を表現する。ジゼルを踊ることにより自己への愛を享受する彼女は、踊り終わったあとに自己への愛を成立せしめている神の存在に気づき、神への愛へと自身を向き直させるのである。
 また、この愛の一連の上昇に「球」のイメージが伴うのが本作のユニークなところである。バレーボールの顔面への衝突により凸子は愛を求める旅に連れ出される。友愛の愛には太陽系のイメージが、自己への愛には自ら回転するバレエの動きが比せられる。太陽系のイメージは、太陽系そのものも銀河系を公転している映像により、最終的に愛を上昇方向に、すなわち愛が神への愛へ変化する可能性を予告してもいる。

 とりわけ興味深いのは、キミの心の重荷(学園の噴水の雫、自宅のニュートンの振り子、書店しろねこ堂の時計の振り子、青く実るトマトなど)が、互いに引き合う力(友愛の愛)の力と同じ力によって発生しているものであるとその意味を転換して見せたこと(手を取り合って回転する3人)、愛の力が上昇へと導く力にもなりうる(クリスマス市のスノーパウダーが舞い上がる)と示したことである。私にはこれがアウグスティヌス『告白』第13巻の一節に新たな解釈を与えるものに思えた。

 

おまけ serenity(平静、平穏)とはなにか

 凸子にとって、ニーバーの祈りの言葉は序盤と終盤で大きくその意味合いを変化させていた。序盤における「変えることのできないもの」とは、凸子が自分の愛する対象を手に入れることができないことであり、彼女は愛するものを放棄することによって、あるいは抑圧することによってserenity(平静、平穏。以下 serenity とだけ記す)の獲得しようとしていた。しかし、この映画感想で確認したように、不完全な愛であってもそれを否定せず肯定すること、そしてその愛を大切に育んでいくことこそが、自身を神へと向き直させるよすがだったのである。彼女は不完全な愛をこそ頼りにするべきだったのだ。したがって、序盤の凸子のserenityを希求する祈りは、自身の愛の成長を放棄する試みであり誤っている。それに、結果として彼女は心のざわめきは収まらず大きくなるばかりなのだから、端的に言って失敗してもいる。しかしながら、序盤のあの時点で彼女が自分自身の未分化で未熟な愛を肯定することも難しかっただろうと思う。凸子は、キミやルイとの交流の中で愛の経験をいくつも積み重ねることによって、段々と自分の愛を受け入れ慈しむことができるようになるのであり、その経験を徴として、未来の愛についても希望を抱けるようになるのである。そしてそれは、ヒヨコという庇護者がいたことなどのいくつもの条件により偶有的に実現しているにすぎない。その意味で、彼女が終盤ニーバーの祈りに示した理解は、たまたま凸子の運が良かったから到達できただけと言える。それにしても、ただserenityのみを求めるだけではserenityは遠ざかってしまうし、反対に、いざ受け入れようとしても、受け入れる当の対象自体(自分自身の心に芽生えた愛)がか弱く、受け入れるに値しないと思えるがゆえにserenityの状態に至ることが難しいのであれば、serenityの獲得とはなんと困難なことなのであろうか。もちろん、困難であるからこそそれを求める祈りが必要となるのだが、そこで、ここではニーバーに即して、serenityの正体について考えたい。

 安酸敏眞は『キリスト教思想の隠れた水脈』において、「平静の祈り」にまつわる問題性を指摘している。ニーバーの平静の祈りはいくつかのバージョンが伝わっており、ひとつには ”give us serenity to accept what cannot be changed” であり、もうひとつには “give us grace to accept with serenity the things that cannot be changed” とあって、安酸はこの grace(恵み、恩寵)の挿入の有無に着目している*14。また、大木英夫による日本語訳の順番とジュン・ビンガムのニーバーの伝記の「変える(ための)勇気」というタイトルに触れ、ニーバーの真意は serenity よりも「変えるための勇気」のほうに置かれていたとも考えられ、そのような serenity に対し現実に立ち向かい変えていく courage を先行させる考え方がニーバー自身の思想に照らして正しいかという問題提起をしている。ニーバーは激動の時代に社会正義の実現のため積極的に活動した神学者である。同時代人を挙げるとイメージがつきやすいかもしれない。ボンヘッファーはニーバーの後輩であり友人であったし、ニーバーはティリッヒの亡命を手助けしている。彼が「変える勇気」に重点を置いていたという考えにも説得力があるし、事実、彼にとって現実変革の勇気は欠くことのできない要素だ。それでも安酸はニーバーの祈りの serenity とそして grace にこそニーバーの思想にある隠れた構造が見いだせると述べ、その重要性を指摘する*15。少々長い引用になるが、

「平静」(serenity)はおのが限界を謙虚に認める「謙遜」(humility)と、そのような魂に与えられる「恵み」(grace)とに支えられている。ニーバーによれば、「生にあるいは歴史に単純な調和は存在しない。……生の最終的な知恵は、不調和を廃棄することではなく、生の内部でまた生を超えて、平静を達成することを必要とする」。「生の内部でまた生を超えて、平静を達成すること」(the achievement of serenity within and above it)というこの表現は、ニーバーにおけるserenityは「内在」(within)と「超越」(above)の両契機が真剣に切り結ぶ局面で初めて達成される境地だということを示している。つまり、serenityは人間的生や歴史の内側から達成されるものではなく、人間のあらゆる内在的努力の限界を悟った人において、人間的生や歴史を超えた超越の側からの働きによって、つまり恩寵の恵みによってはじめて可能だということである。

安酸敏眞『キリスト教思想史の隠れた水脈』知泉書館、p.312

 このようなserenityの「世界超越」の契機があってはじめて現実の歴史の中での「世界変革」が逆説的に可能になる、とニーバーは考えている*16。ゆえに、やはり、順番としてはserenityが先で、そのあとにcourageが得られるのであるが、とすると、ニーバーの思想に即するとserenityというのは、人間側の解釈により「変えることができないもの」「変えるべきこと」を自由連想的にスライドさせ、恣意的な操作的手順を経ることで得られるような性質のものではないと考えざるをえない。なにより、 serenity が現実を変革していく勇気と活力の礎にならなければならない。現状の追認を許容するための概念ではないと私には思えるのだ。 serenity は「おのが限界を謙虚に認める「謙遜」(humility)と、そのような魂に与えられる「恵み」(grace)」の切り結ぶ局面で達成される。

 私はトマスに引き寄せて、『きみの色』の感想を述べてきたが、それをここに接続させていいのであれば*17、彼女たちにとっての serenity の境地も、自分自身の色という内在(余談だがパンフレットで『きみの色』の英題は” THE COLORS WITHIN” である)と、そこにつねに働く恩寵との絶妙な切り結びによって達成される、と私は思う。『きみの色』で、合宿の夜、凸子たちは自分自身の内に灯った愛の火を受け入れる。このことは、自分たちが何かを好きになってしまったという不可避な(なんなら自分のせいではない)帰結の受容であり、自分自身の運命を引き受けることである。このことは同時に、旅人として生きるという彼女たちの積極的な覚悟の表出であり、それは自分の人生を不確実性の中に投げ込むということにほかならないのであった。しかしながら、なぜ彼女たちは覚悟をもって自分自身を受け入れることができたのだろうか。不確実性に人生を投げ込むならば、いつか予期せぬ逸脱が彼女たちを飲み込んでしまうかもしれない。そうであっても彼女たちが自身を受け入れることができたのは、彼女たちが自分たちの経験のうちに恩寵が働いていると希望を持てるからではないだろうか。序盤の凸子はそれを信じることができなかった。自分の愛が、成長し高められていく可能性をもつことを彼女は知らなかった。しかし、偶然にも、凸子はキミやルイと出会い、自身の未分化で未熟な愛を育むことができた。たとえ未完成であろうと、自分が何かを愛することができ、誰かを愛することができ、そして自分自身を愛することができる。そしてそれを互いに認め合うことができる。この僥倖のうちに、神の恩寵が働いている「徴」を読み取れるからこそ、彼女たちは不確実な未来に向かってなお自身を投げ入れる変革の勇気を持つことができるのである。

 

 

以上。

 

*1:山本芳久『トマス・アクィナス』p.216

*2:山本芳久『トマス・アクィナス』p.218

*3:同前

*4:同前

*5:11月に九州旅行したときに長崎にも訪れ、少しだけ『きみの色』の聖地巡礼をしてきた。4回目5回目を観たときは凸子がキミを探し回った軌跡を部分的に追体験できた。美しい街だと思った。

*6:山本芳久『トマス・アクィナス』p.219

*7:山本芳久『トマス・アクィナス』p.221

*8:山本芳久『トマス・アクィナス』p.220

*9:凸子はキミに対して無理にこれをすべき、あれをすべきと強いることはない。これは本作の特徴的なところだ。祖母にほんとうのことを打ち明け、いちはやく問題を解消することがよりよいのは誰の目にも明らかなのに、凸子はそうするよう無理強いをしない。たしかに凸子の行動には考えの足りないところが多々あるが、この態度は美徳であったように思える。他者の善を願うことのうちには、いっときのあいだその人の不完全さを受け入れることや、本人にとってのしかるべきときを待つことも含まれるのではないだろうか。

*10:凸子が船の中で膝枕をされながら抱える水のペットボトルには「清らかな水」といった商品名がラベルに記載されている。そのとき、「清」のさんずいが隠れて「青らかな水」と読めるようになっている。凸子にとってキミはそう見えているのかもしれないが、凸子の知覚はかならずしもその人の実相を写しているとは限らないのかもれしれない。外から見えるキミと、キミの腹の中で渦巻いていることには相当の乖離があるのかもしれない。

*11:ところで、この「合宿」のシーンは、凸子とキミがついぞ経験することがなかった修学旅行の夜、といった雰囲気があって良い。宿の大部屋で女生徒が車座になって普段言えない秘めた心の内を告白する大会がはじまるというのは、私が中高生のころにも発生していたと伝え聞く女子中高生の定番のようなのだが、いまでもそういうことはあるのだろうか。ともかくも、ヒヨコが、凸子とキミに修学旅行の夜をクリスマスプレゼントに贈ったのだと考えると胸が熱くなるな

*12:ただし、この映画感想はトマスに依拠しているので、愛の火を灯すきっかけは外からやってくるとはいえ、愛は霊魂のうちに創造されたものである、という立場をとる。そうでなければ愛がその人に備わった徳として成長していく、という観点が持てない。

*13:自由意志と恩寵の協働説、および人間の功績(功徳)については私の手に余る論題なのでここでは深く触れない。

*14:なお、安酸はドイツ語版記載の祈りの言葉にもGnade(恩寵)の語句が挿入されていることにも触れ、さらにserenity が Gelassenheit という用語に翻訳されていることに一言付している。この単語はドイツ神秘主義において大きな意義を有しているということだが、たしかにドイツ神秘主義では日本語で放下、あるいは離脱と訳される鍵語である。ここからただちに何か言えるというわけではないものの、serenityという語の選択がニーバーにとってそれなりに重みがあったのだと想像するには十分な指摘であり、重要な指摘だと思うのでここに記しておく。

*15:トレルチの思想の継承をここで指摘していて面白い。

*16:安酸敏眞『キリスト教思想史の隠れた水脈』知泉書館、p.310

*17:正直、かなり無茶、とは思う。安酸は、ニーバーがトレルチのある種の「他界主義(otherworldiness)」を継承しているとしていて、彼岸が此岸の力になるダイナミックな二元論の思想を持っていたと指摘している。トレルチやニーバーの著作にもあたってみないと正確なことは何も言えないが、このような思想と、今回『きみの色』を読解するにあたり私が引き合いに出したトマスの思想との間には、無視できない隔たりがあるように私には思える。が、これは今後の宿題とさせてください。いまの私は到底論じられるレベルにない。

飲食雑記:2024年6月

 6月は自炊を頑張った月だった。

 

自炊 韓国料理

 レシピ本を5, 6冊買い込んで韓国料理をメインに作っていた。

 自炊生活と韓国料理はかなり相性がいいかもしれない。なぜかと言うに、作り置きのレシピがかなりの程度あるから。そういった作り置きを常に冷蔵庫に複数用意しておけば、あとは毎回の食事のたびに汁物さえ拵えるとあっという間に一汁三菜が出来上がる。まあ一汁三菜と言っても作り置きだけでは主菜が欠落するかもしれないが、韓国料理の場合、汁物を主菜の立ち位置に引き上げる(韓国料理屋のランチとかにあるスープを中心とした定食を想起してほしい)みたいなこともできるわけで、わりあい柔軟な献立の立ち回りが可能だ。しかも、ナムルを代表に、調理も味付けもシンプルなものが多く、調理の難易度もそこまで高くない。季節の食材を都度取り入れればバリエーションもじゅうぶんある。一般に韓国料理はニンニクと唐辛子がたくさん使われていて、なおかつ味の濃いものが多い、という印象があると思うが、そういった料理が重要な部分を成していることは誤りではないものの、全体の布置の中ではやはり一部にすぎないというところが実態に近いというものだろう。それに、だいたいのレシピはレシピ本にニンニクを入れる指示があったとしても、ニンニクを省いたとて美味しいものが作れる(私はほとんどそうしている)。それゆえ、淡白な味の料理を選んで作っていれば、食べ疲れしない構成にすることも容易だし、それでもブレずにちゃんと韓国料理だ。

 私の実感としては、地味な、食材単品で作る料理(ナムルは食材ごとに別々に調理するのが基本。複数の野菜を混ぜて調理しない。色を混ぜないというのが重要。)が並んで、味付けもシンプルで、こういうのでいいんだよ、こういうので、という気持ちになる料理が作れると感じる。

 個人的に調理のハードルが下がると感じられるのは、出汁を要求されなくてもいい場面が多いからだ。和食と一番大きな差異だと思うのはそこだろうか。ことあるごとに出汁を要求されると、日常的には顆粒出汁とかパック出汁に頼らざるをえず、そういうものの味があまり好きじゃないので続かなくなってしまう。そのかわりに韓国料理ではゴマ油(またはエゴマ油)をよく使う。それによってコクを出すことが多い。ゴマ油は飽きないのかと問われると、飽きる人もいると思う。私はいまのところ大丈夫。料理の基底にごま油を据えるか出汁を据えるかみたいな整理はいささか単純化しすぎだが、和食との発想法の違いに出汁への考え方の違いがかなりあると思う。たしかに韓国料理でも汁物はまた別で出汁を必要とするのだが、韓国料理の汁物の場合は入れる具材からそのまま出汁を取るというのがおそらく正調で、別途専用に出汁を取らないバリエーションで作っても許容できる場合が多い(たぶんこの理解は現代の韓国料理からは少し外れる(んだろうけどこのことの説明はちょっとめんどうなので省く(韓国料理の汁物カテゴリーはむちゃくちゃ奥が深くて旨味の抽出・添加の仕方も様々(と思いきや出汁要素が全く入らない外れ値みたいな汁物もあるので油断ならない(念の為誤解のないよう言い添えておくと魚醤やアミの塩辛を加えてお手軽に旨味をブーストする方法はある(煮干しとダシダの話は今していません))))))。

 一方でたとえば中華料理と大きく違うのは、中華料理の一番の典型を炒める調理法だと仮定したうえでの話だが、韓国料理はほぼほぼ強火で調理することはしないし、中華料理に較べると炒める際に使う炒め油の量も少ないというところだろう(ただし中華料理はあまりにも多様なので、これはあくまで炒めものを典型と考えたときの話です。大事なことのなので。ここで中国料理と言わずに中華料理と言っているのも、あくまで日本の環境で他のアジア料理カテゴリーとの差異について考えたいため。)。高温に熱した油を媒介に短時間で食材に火を通す、という技法は、韓国料理では全く典型ではない。というかほとんどやらないんじゃないかな。おそらくこの違いが生まれた理由には熱を生み出す資源の問題があったのではないかと想像しているが、これはまだ想像の域を出ていない。

 ちゅうわけで、1か月作り続けてようやく韓国料理の輪郭が見えてきたなと感じる。あとは汁物と鍋物(汁物と鍋物の違いってけっこう難しい。タンとクッとチゲの違いとかまだいまいちピンときてない。)のレパートリーを増やせば一応一通り履修完了って感じかな。キムチづくりはやらなくていいのかって???? それはやりません。店のを買います。そういうのはプロに任せようぜ。

 

ラーメン

 私の最も愛するラーメン店が、来年の3月か4月には閉店してしまうらしい。とても悲しい。もっと通っておけばよかった。四半期に一回くらいしか行っていなかった。失うとわかってからしげしげと足を運ぶ薄情な人間が私です。

 6月は週末限定の創作つけ麺を2種類とこれも期間限定の冷やしラーメンを1種類食べた。本当はさ、レギュラーの醤油ラーメンがとにかく美味しくて、それをこそ食べるべきなんだけどさ、自分は薄情なので限定メニューを選んで食べに行ってしまうのさ。

 さて、ここの冷やしラーメンを超える冷やしラーメンにはこの先出会うことはない気がしている。今年が最後なのだな。構成はあっさりとした曇りのないつゆと、麺だけ。それに別添えで茗荷と大葉と生姜の薬味、あとがけの油。麺と出汁を思う存分味わえる。そもそもシンプルなので、薬味を加えると味わいが鮮やかに変化する。その嬉しさ。油を加えるとラーメンっぽくなる。その愉快さ。ただし、油を添加すると出汁の風味がマスキングされてしまうので最初から入れることには慎重になっていただきたい。ラーメンというカテゴリに収まりつつも、その枠に囚われない素晴らしい料理だと思う。店主のブログを読むと近くの讃岐うどん店にインスピレーションを受けたという。うんうん、そこの冷やかけも美味いっすよね~。激しく同意。この冷やしラーメンを食べた日は蒸し暑い日だったけど、食べ終わると体中の熱がすっと引いて、外に出ても風を爽やかに感じることができた。

 つけ麺一つ目は1.5kgオーバーのアオリイカを使ったつけ麺。アオリイカのクオリティが高いのは言うまでもなく、それをラーメンに昇華させる発想と技術。ここのつけ麺には何度も驚かされた。毎度が毎度、食材が食材(ラーメン屋で見かけるクオリティの食材ではない。だいたいが高級日本料理店に回るような食材。)なので、素材の持ち味を如何に活かすかに心が砕かれている。イカはバターで軽く炒めてつけ汁に入れられていた。店主曰く、イカは単品で出汁が強く出る食材ではないから、つけ汁のベースは干し貝柱をベースにまた別に用意して、イカはバターで炒めることによって風味をつけ汁に移したとのこと。これによって、イカの風味を強く印象付けることができる。これは私は一昨年に食べて大感動した帆立の塩ラーメンと同じ発想だ。そのときの帆立ラーメンは、大ぶりの帆立を油で焼いて、炒めたフライパンに出汁をじゃっと注ぎ、残った油と、こべりついた帆立の旨味を出汁に溶け込ませてラーメンに浮かべるという手法を取ったものだった。カクテルでいうところのフロートという技術だ。たとえばゴッドファーザーに最後ピートの効いたウィスキーをバースプーン1杯か2杯程度浮かべると、全体に入っていないのにピートの香りを強く感じることができる。たしかに、帆立からは出汁をとることもできないではないものの、全体に馴染んでしまえば個性は隠されていまう。それに帆立とわかるまでスープ全体に帆立の旨味を加えようと思ったら原価がいくらになるかわからん。そもそもそんなことをして美味しいのか。すくなくともだしがらになった帆立は美味しくないだろう。帆立の風味を最大限に最も効率よく活かす手段について考えられた結果だと思う。それが今回つけ麺でも実行されていた。

 つけ麺2つ目は蛸のつけ麺。これも蛸は2kgオーバーとのこと。つけ汁には蛸の桜煮、つけ汁で瞬間しゃぶしゃぶになった薄造りが入っている。桜煮の煮汁で炊いた大根、名古屋コーチンの卵焼き、オクラとなめこ。これも蛸だけの出汁だとやっぱりつけ麺としては成立しない。昆布をつけ汁のベースにしながら、蛸の風味が強く染み出た桜煮の汁を加えることでふわっと蛸らしさを感じさせる。発想としては先述のイカと同じだ。ただ、蛸の場合は油分の介在がない。イカと帆立は油脂に香りを移してつけ汁に風味を加えたが、おそらく蛸の桜煮はそのままでむちゃくちゃ強いからそれで風味をよく感じられる。素材の良さを一番感じられる閾値に風味をチューニングする技術とでも言えばいいだろうか。蛸をさ、つけ麺で美味しく食べさせながらさ、はっきりと感じさせるなんてすごいよ。

 何度もこの店のつけ麺を食べてきたけど、日本料理の枠内ではお椀というより煮物椀だし、というかそういうんじゃなくて、発想としては寄せ鍋、ちり鍋に近い気がする。もっと言うと、麺と合わせるということを考えればうどんすきがイメージとして一番近いと思う。うどんすきを例にとれば、たしかな出汁の美味しさが基底にあってこそ具材の自由さが獲得されるし、味の深みが増す。そう、ここのつけ麺は、大阪の出汁文化の素晴らしさを訴えかけてくるつけ麺になっていると私は前々から思っていた。たしかな出汁をベースに、具材を加えてそれでいて味が濁らず賑やかになっていくところってとってもうどんすき。で、やっぱりうどんすきってきわめて大阪らしい食べ物じゃないですか。店主は大阪の人で、ラーメンを通して大阪の食文化をうかがうことができるのも私がこのラーメン店を愛する理由のひとつだ。東京でラーメンを通じて(しかもラーメン激戦区で)大阪の魂を伝え続けてきた営みは偉業だと思う。

 これから一ヶ月に一度は食べに行くことに決めている。

 

日本料理

 ずいぶん久しぶりに日本料理のコースらしき食事に行った。大学の1年生のとき以来の友人に誘ってもらって。ありがたいことだ。郡上の鮎が食えるってんで二つ返事で行くことに。どれも美味しかった。焼き物と最後の食事が鮎ごはん。私のなかで鮎は川魚のなかでも別格で、他の川魚にはない清明な味わいが格別なのだ。小ぶりの鮎で、若鮎のとても清らな味がした。長良川水系上流から中流のきらきらした水面を思い浮かべることができた。

 が、最後、鮎ごはんといっしょにイサキから出汁を引いた味噌汁が出てきたのはちょっとよくわからなかったかもしれない。これは私の鮎への気持ちが強すぎるせいだが、山のものと海のものは取り合わせたくないなという気持ちになってしまった(ちなみに味噌汁は磯くささは感じられずきれいな出汁でした)。また、イサキはコースでは焼き霜にして刺身で出てきていて、海苔の佃煮が添えてあり、少しのせて一緒に食べると磯の風味が口に広がって、イサキの香りと調和しとても美味しかったんだけど、順番としてその次に鮎の塩焼きという流れになっていて、その点も構成としてあんまりよくわからない。海の香りが強く印象付けられたあと(海苔の佃煮がすごく美味しかった)、その余韻があるところに鮎の塩焼きが登場というのは、自分としては少々違和感がある。向付のあとに焼物が来るのは順番としてはそのとおりなのだろうが……*1。高級日本料理の経験があまりないので私の考えや感じ方が誤っているのかもしれない…。地元で外食で鮎を食べるときには、川魚専門店(高級店ではない)で食べることが多いから、お刺身も鯉の洗いとか、せごしにした鮎とか、そういうものが出てくる。山の幸を食べるときはもっぱら山の幸を食べるという、そういうのに慣れてしまった私の先入観なのかもしれない…。などと考えながらその日は帰路についた。もちろん食事は美味しくて、そして楽しかったんだが、自分の知識も舌もまだまだ未熟だなと感じ、やっぱり日本料理は難しいと思った。

 

*1:………と思っていたが、さっき食事が終わったときにもらった献立表を確認したところ、イサキの焼き霜と鮎の塩焼きの間に箸休めとして万願寺とうがらしの焼きびたしが挟まっていた。しかしその日は鮎の後に万願寺とうがらしが出てきていた。献立表のほうが本来想定していた順番だったんだろうか…?

飲食雑記:2024年5月

 近況です。

 5月は読書をほとんどしておらず、虚無です。仕事もふつう。

 小旅行的なものが2回あった。

 

2024年5月8日 イバラモエビ

 スーパーに売っていて今回初めて食べたけどけっこう美味しい。甘海老より食感があって、甘海老のように甘味があって美味しい。トゲトゲしていて剝くときちょっと痛い。ガスエビのほうが好きだけどこれも美味しい。また見つけたら買う。

 頭と殻でフォンドマール(オマールは使わない)をひく。頭と殻は乾燥するまでゆっくり炒めて、いったん取り出して同じ鍋で玉葱を炒め、しんなりしてきたらその水分で鍋にこびりついた海老の旨味をこそげ取り、玉ねぎの刺激臭が飛んだら海老頭と殻を鍋に戻して、さらに水分を飛ばして、トマトペーストを入れて玉ねぎ海老の全表面に行き渡るように混ぜながら水分をさらに飛ばし、ブランデーを入れてさらに鍋にこべりついた旨味を剥がし溶かしながらアルコールを飛ばし、白ワイン少量を入れてアルコールを飛ばし、水を入れて乾燥エストラゴンを入れて10分ほど煮出す。そいで濾す。けっこうクリアな出汁が取れたと思う。ここからいろんなソースのベースに派生できるんだが、しんどかったのでそのままスープとして飲んだ。3月4月にフランス料理をたくさん作っていたのでお手の物ですわ。

 フォンにもいろんな主義主張があるんで、どういう料理を目指すのかで作り方は様々だが、食材を入れて水分を飛ばしていって味を凝縮していくという工程はとてもフランス料理らしい調理の方法だと思う。今回のイバラモエビで出汁を取るのはとてもいい勉強になる気がする。出てくる水分で海老がびちょびちょになってもダメで、常に水分が鍋肌に触れてぷつぷつ蒸発していくイメージで、それでいて焦げないように炒めるよう気を付け、野菜を入れても同じように食材の水分が出てくるたびに鍋肌に触れて蒸発していくよう気を付けて作業をする。素材に応じて火加減も調整していく。そうすると磯臭さも飛んで、焦げ臭さもない良い出汁が取れる。

 海老の殻だけだと旨味が足りないからトマトペーストを足したり、甘味が足りないから玉ねぎを足したりする。鮮度が良くて臭みがなければ海老殻を焼く工程ももしかしたら省いてもいいかもしれない。その出汁をどういう用途で使い、どういう料理にするかによりけり。私は素人なので、定番のレシピでやったほうが失敗が少ないからそれをチョイスしますが。

 

5月8日~5月10日 牛筋と牛スネでカレー

 一度作ってしまえば数回分の自炊が消えるので作った。ものにもよるけど、牛スネだけだと脂が少ないし、牛筋だけだとゼラチンと脂が多くて気持ち悪かったりする。ということでハイブリットで作った。

 赤ワインとマデラワインをリダクションしておく。砂糖を焦がして赤ワインビネガーを加えてソースガストリックを作る。玉ねぎを大量に炒める、牛筋と牛スネに少量の小麦粉をふって香ばしい焼き目を前面に付けるよう炒める。しっかり炒め切った玉ねぎと牛肉を鍋でトマトペーストと炒めて、リダクションした赤ワインを加えて、ハインツシェフソシエのフォンドボーとデミグラスソース缶加えて、水加えて、煮る。最後に市販のカレールーを加えて煮る。贅沢仕様のカレーを作りました。はじめてやったけど結構おいしかったですよ。ブラウンルーもコクを出すために少し加えた気がする。

 そこから、鰹と昆布で出汁を引いて、醤油と味醂で調味してカレーを加えて九条ネギとお揚げさんを加えたカレーうどんに派生させたり、ごはんを最初からまぜまぜして生卵を乗せてウスターソースをかけて食べる自由軒風にしたりして楽しく食べた。ハインツシェフソシエのフォンドボーとデミグラスソース缶を加えたのでゼラチン質が多くて、自由軒風にすると米の内部にまでカレーソースが浸透しない感じがあってわりと贅沢仕様カレーと相性がいいかもしれない。

 謎洋食作るのは楽しいぞ。京都はふうインスパイア牛カツ&牛カツサンド。五反田グリルエフインスパイアハヤシライス。根室エスカロップインスパイアエスカロップ。四谷ながいインスパイアミートソース納豆スパゲッティ。大阪自由軒インスパイアカレー。まあ京都はふうは謎ではないが。

 

5月13日 牛テールスープ

 実家から牛テール肉を冷蔵便で送ってもらって。母の日に何かをプレゼントするのではなく、母親に肉を買いに行かせて送らせる、親不孝が私です。友人諸氏はちゃんと食事をご馳走したりしていたらしい。偉いな。テールスープは美味いのよ。タケノコも送ってもらって柔らかい部分をゴマ油と塩と摺り胡麻で和えてナムルにして食べた。

 

5月18日 タケノコペペロンチーノ

 タケノコの根元のほうは薄切りにしてペペロンチーノにした。仕上にクラフト粉チーズをぱらぱらかけて食べた。美味しかった。春が終わってしまう。

 

5月18日 ピビンパと、スルメイカと大根のスープ

 ナムルは多いほうがいいよね。豆もやし、ほうれん草、茄子、人参、ワラビと干し椎茸。レシピ本をみるとナムルになんでもかんでもニンニクを入れがちだけど、なくても美味しいというかないほうが美味しくないか? こないだドラマを見ていたら、もやしのナムルを作るのに、白ごま、胡麻油(私はこれと塩でしか作らない)に加えて、塩麴、にんにく、一味唐辛子を加えていて、そんな必要ないじゃんねーーって思った。なんで味を複雑にしてしまおうと思うのだろう。他のドラマでも、もやしには味がないからむしろ何色にも染まってくれるみたいなセリフがあったように記憶しているし、なんか、もやしって無だと思われていて可哀想ではないだろうか? もやしって安いからって下に見られがちだよね。お前らさ、もやしは美味しいから食ってんの!!!!という強い気持ちになる。もやしってかなり個性の強い野菜だと思うんだけど(同じような扱いをされている食材に水菜があると思う)。私はニンニクさえ不要だと思っている、白ごまも不要だと思っているから過激派なのかもしれない。

 ナムルにいろいろ味をつけたくなる理由について考えたんだけど、おそらくナムルを一品だけしか作らないなら、いろいろ複雑な味にしたい気持ちはわからないでもない。それといろいろ入れて味を複雑にした方が料理した実感が得られるという利点もあるだろうと思う。

 

5月21日 牛わかめスープ

 冷凍庫に眠らせてた近所の肉屋で買った近江牛細切れ肉を消費するために。牛とわかめをさっとごま油で炒めて(この工程が必要なのか正直よくわからんが、出汁をとらないならごま油でコクだしするためかもしれない。それと炒めてから乾ききらないくらいで水を入れると美味いこと油脂と水分が乳化して味がまったりする効果もあるように思う。)水を注いで煮る。醤油と塩で薄味に調味して終わり。味の足りない分は味の素で補った。わかめスープの旨味の源泉は牛肉で、そんなにたくさん入れるわけでもないから少々足りない。かといって他の出汁を入れたくない。ということで味の素を少量振り入れた(ほんのちょっとでいいんよ)けど、これできっちり味が決まったから今後もこの方法を採用します。牛肉の香りを邪魔したくないからこれでいい。そして私はここでもニンニクを入れない。味が足りなければ塩を足すか、小葱と醤油と唐辛子と摺り胡麻を混ぜておいたヤンニョンを加えて食べる。

 

5月21日 鍋焼きうどん

 蒸し暑い、雨の日だった。友人と冷房があまり効いていない蕎麦屋に入り、私は鍋焼きうどんを頼んだ。行く店も決めず、目についた駅からすぐ近くという理由で飛び込んだが、鍋焼きうどんにかんしては、超大当たりだった。タケノコ、シイタケ、お麩、ナルト、かまぼこに、青菜(ほうれん草)、玉。エビ天は保水エビじゃなくて、衣はごま油の香りがあって、うどんは太めの柔め、つゆは濃い目。卵焼きが入ってたら完全無欠だが、東京の鍋焼きうどんの形式をきっちり踏襲して、とても美味しい鍋焼きうどんだった。ありがとう。

 

5月23日 ボルカノのあんかけスパゲッティとポークカツブールノワ、その他@沼津

 沼津はいいぞお。ぜひ行って、ボルカノであんかけスパとブールノワを食べてください。それはなんだって? 食ってくれ。最高だから。

 ボルカノで食べた後、パン屋というか総菜やというか甘味やというかのお店を教えてもらってコッペパンのメンチカツサンドを買い、海岸で海を見ながら食べた。食べてる間、頭上を2羽のトンビが旋回し、メンチカツサンドを搔っ攫う機会がないかずっとこちらの様子をうかがっていた。沼津の海岸は砂ではなく砂利で、その玉砂利を掴んでトンビのほうに投げるなど、威嚇をしながら、身体を丸めながらコッペパンメンチカツサンドを食べた。

 このメンチカツサンド、かなり不思議な食べ物で、ソースではなく謎の甘いたれがメンチカツにからまっていて、極薄のボローニャソーセージも挟まっている。この甘いたれの味がよくわからない。店ではサンドイッチの隣にみたらし団子が陳列されており、あれなのかな?と思ったりもしたが、正体は不明だ。だがテクスチャーはみたらし団子の甘ダレと似ていて、とろりを超えたもっちりした感じ。コッペパンは思ったより食感しっかりしていて美味しく、メンチカツは食感肉っぽいんだけどあまり風味を感じず、甘いたれも主張が激しすぎるわけでもなく、なんというか、それぞれがそれぞれの個性をうまいこと打ち消し合って混然一体になっているというか、どれを取っても突出したものがなく、どういう味?と聞かれても困惑するような、そんな食べ物だった。小腹を満たすためには最高の食べ物だと思う。コンビニでも美味しい総菜パンが買える現代においてはヴィヴィッドなところがないのでいまいち押しに欠けるかもしれないが、とても好感のもてる食べ物だったと思う。これも沼津に来たらぜひ食べたいもののうちにリストオンです。

 そのあとさわやかでハンバーグ食べたのはやりすぎだったと思う。食いすぎでしんどかったあ。あと沼津では千楽ってとこのデミソースがかかったとんかつが食べたいんだよな。ちゃんと夜泊まって鮨も食べたいし。

 なんだか、沼津がすごく好きになった。他の地方都市同様徐々に活気がなくなっていってるのがわかって(私の地元と一緒だ)少し悲しかったが、ちゃんと地方都市で、他の都市にはない個性があって、歴史があって(沼津の歴史民俗資料館はオススメです)、もうちょっといろいろ回ってみたくなる。帰りしな、駅裏のほうで高校生っぽい男女グループが交番の近くで煙草をスパスパ吸っているようだったのを目撃したときは驚いたが…。

 

5月24日 チュオタン(ドジョウ汁)

 スーパーでドジョウが売っていたので…。具はシイタケ、ワラビ、ニラ、ネギ、セリ。ドジョウは圧力鍋で煮込んで溶けたやつ。味噌とコチュジャンをベースに擦り下ろしニンニク少々、摺り胡麻たっぷり。あとは醤油で味調整。美味しかった。

 

5月25日 穴子丼@富津

 友人と富津に車で日帰り小旅行。お昼の穴子丼が美味しかったーー。タレと塩味の2色丼。穴子天重も食べたら腹はちきれるかと思った。

 そのあと焼肉屋に向かったら予約でいっぱいで、東京に戻ってから焼肉食べて解散

という流れに。

 富津では東京湾観音にも訪れて大満足ですよ。友人に感謝。

 焼肉はリベンジしたい。

 

5月27日 骨董麺

 「コルトンミョン」と読むらしい。韓国料理のレシピ本に書いてあって美味しそうだから作ってみた。とっても美味しかったのでまた作る。赤、白、黄、茶、緑がそろって混ぜ合わされていて、見た目にもきれいだし、食感も味も鮮やかでとてもいい料理だと思う。すべてを別々に調理して混ぜるというところがめんどくさいけど、いかにも韓国料理っぽい発想の料理で良い。

 

5月27日 割烹

 会社のお金で。ご馳走さまでした。いい店だった。一つ一つの何気ない料理の何気ない味付けがしみじみ美味しくて、サービスは気さくで温かくて。フランス料理と韓国料理ばかり作っていた最近だが、日本料理にも今年はちゃんとチャレンジしたい。

 

5月30日 ハマグリボンゴレスパゲッティ

 家で作ったら超美味しくて、超美味しかった。ニンニクは潰したやつをジクジク炒めて香りをオリーブ油に移して、ハマグリ入れて、少量の水を入れて蓋をして、殻が開いたら殻を取り出し身はソースに残して、スパゲッティ入れて、ちょっと煮て、青唐辛子を刻んで入れて、さっと混ぜて、火を止めて、イタリアンパセリ、オリーブオイル、さっと2、3回あおって完成。むっちゃ美味い。ハマグリの繊細でいて強烈な旨味、青唐辛子とイタリアンパセリの爽やかさ。春になったら毎年作ろ。

 

5月31日 カツカレー????

 なんか謎のカツカレー食べた。てかあれカツカレーだったんかな…?

 

書くのが疲れてきたので今日はここまで。

 

飲食雑記:2024年3月~4月

 まず近況です。仕事の繁忙期を終えた…。明日の処理が終われば今年は完結する。ようやく一安心だ。今年は年明けから徐々に忙しくなり、2月後半から気合いを入れなきゃいけなくなって、4月は3日から19日まで17連勤、そのうちほぼすべての日が1日12時間以上稼働だった。5月からもなんやかんやあれこれのタスクが詰まっているので今年はしばらく忙しそうだ。

 3月9日から自炊でフランス料理を作り始めたので記録に残しておく。

 友人宅でもフランス料理を作った。

 まずフランス料理を自宅で作れるための食材の条件だが、2つある。エシャロットとフォンドボーだ。この2つがないと、無理とまでは言わないけど、レシピ本や動画を見て作りたいと思い立ってもかなり数が制限されてしまう。エシャロットは仕事で外出したついでにデパートで買い求めることができる。日持ちする食材なので、気が向いたときに買い貯めておけばよい。フォンドボーは幸いなことに、今年になってから近所のスーパーでハインツの缶の取り扱いが始まって入手しやすくなった。そのほかの食材はスーパーでもそこそこ買うことができる。

 

以下作ったものですが、途中、日式洋食メニューも入っています。

ニュージーランド産牛肉サーロイン、ソースベアルネーズ。

ニュージーランド産牛肉(ランボソ)、ソースオポワブル。

ニュージーランド産仔羊モモ肉、ソースディアブル(ガラムマサラちょっと入れてます)。グラタンドフィノワ。

近江牛シャリアピンステーキ。クレソンサラダとグラタンドフィノワ。

・国産豚肩ロース、ソースシャルキュティエール。クレソンサラダ。

・国産鶏モモ肉、バスク風。ピラフ。

・国産鶏ムネ肉、ソースシュープレーム。ほうれん草のソテー。

ニュージーランド産牛肉サーロイン、ソースシャスール。

ニュージーランド産牛肉サーロイン、ソースアラムータルド

・チキングラタン。

・タイ産合鴨ロース、ブラッドオレンジ使用ソースガストリック(こちらもガラムマサラナツメグを少しだけ加えてスパイシーに)。

・ハヤシライス(通常バージョン)。

・ハヤシソースの残りに玉ねぎ合いびき肉を追加してミートソースにしてスパゲッティ。

・ミートソースに納豆をかけて四谷のながい風のミート納豆ソーススパゲッティ。

ウッカリカサゴのポシェ、ソースブールブラン。

ニュージーランド産牛肉(モモ肉の一部詳細不明)、ソースヴァンルージュ。

ホタルイカのタブレ。

・ピエドコションのテリーヌ、をさらにフリットに、ソースグリビッシュ。アスパラガスソテー。

・イトヨリのポシェ、ソースブールブラン。

・仔羊モモ肉、ソースディアブル(ガラムマサラ少量加えた)。ラタトゥイユ

近江牛シンシン、ソースヴァンルージュ。

ニュージーランド産牛肉ランプ肉で牛カツ、デミソース。

エスカロップ根室)。豚肩ロース肉のトンカツ、たけのこバターご飯、デミソース。春キャベツのコールスロー

近江牛シンシンで牛カツ、デミソース。バターとイタリアンパセリを和えたブカティーニ。(京都のはふうをイメージ)

・国産黒毛和牛ヒレ肉で牛カツ、デミソース。

近江牛シンシンで牛カツサンド。(京都のはふうをイメージ)

・ハヤシライス(五反田のグリルエフインスパイア)

 

ソースオランデーズ(卵黄ベース)、ソースオポワブル(生クリームベース)、ソースマデールからの派生のソースアラムータルド(アルコールベース)、ソースガストリック(果汁ベース)、ソースディアブル(フォンベース)、ソースシャスール(フォンベースかな)、ソースロベールから派生のソースシャルキュティエール(フォンベース)、チキングラタン(ベシャメルベース)、ソースグリビッシュ(卵黄ベース)、ソースブールブラン(バターベース)、ソースヴァンルージュ(アルコールベース)、なんちゃってデミグラスソース(街の洋食屋レベルまではできた)

 

 ある程度ソースの基本は履修した気がする。人の家で複数品作るのも実現したし、わりと身についてきた気がする。

 今回わかったのは、フランス料理を一応でも履修しておくと、フランス料理から日式洋食への連続性がなんとなく見えるということだ。今回やらなかったものの、フォンドボーは市販のを使うとして、ソースエスパニョールからソースドゥミグラスを作る工程は一回自分でやってみたほうがいいんだろうと思う。てか、そっちから現代のソースに段階を経て近づいていくほうが体系的なフランス料理の理解へと繋がるだろう。ことフランス料理においては古典(フランス料理で古典と言うとエスコフィエが念頭に置かれると思うので、古典と言っても19世紀末から20世紀初頭のことだと思うが)を参照することには大いに意味があるように思う。

 あと、豚足のテリーヌをつくる過程で産出された豚の出汁を使って、豚バラ肉を茹でて、醤油ダレに漬け込んで煮豚を作って、煮汁と煮豚と醤油ダレでラーメンを作って、煮豚の残りと醤油ダレでチャーハンを作って食べた。豚足出汁はゼラチン質を多く含むので汁に若干の粘度があって、旨味を強く感じやすい。むっちゃ美味かった。

 今日はここまでで。この1か月の疲労がどっと襲い掛かってきている。どっどど襲い掛かってきている。気力で肩代わりしていた疲れが精神面から身体面に変換されて体の疲れとして出力されているような…。

 去年の秋の旅の食事(ラーメン・焼肉・鮨など)もそのうち書き残したい。

映画『カラオケ行こ!』感想 一人称語りの映画への翻案技法と、少年の「天使主義的心中」について

弁明
・原作映画双方のネタバレ含みます。
・むちゃくちゃネタバレします。要注意です。
・続編漫画『ファミレス行こ。上』のネタバレも含みます。
・筆者は映画より前に和山やまの作品のうち『夢中さ、君に。』『カラオケ行こ!』『女の園の星』(1,2巻。3巻未読)をすでに読んでいてファンです。
・筆者は『夢中さ、君に。』のドラマも観ています。
・漫画は手元に置いて適宜読み直してながら書いているが、映画については記憶違いがあるかもしれない、というかところどころあると思います。
・この文字数書いて書ききれないことがいっぱいある…。

 

 映画を観る前日の夜に原作を再読した。面白かった。中学3年生合唱部部長の岡聡実が、歌が上手くならなければならない特殊な事情を抱えたヤクザの構成員・成田狂児に目を付けられ、カラオケに付き合わされ、歌を教えさせられる。変声期にさしかかり合唱部の活動に不安と焦燥を感じていたところ、聡実は狂児に翻弄されるというか手懐けられるというかしてしまい、ひと夏だけヤクザの世界に急接近してしまう、というコミックス一巻完結(続編『ファミレス行こ。上』発売中)の物語。ヤクザのお兄さん成田狂児と次第に懇意になるにつれ、カラオケで組員にこぞって歌評をさせられ、そのうえすごまれたり、薬物中毒者の危ない人に絡まれたりと、客観的に判断すると聡実は次第に危ない状況に巻き込まれていっているにもかかわらず(しかもまだ中学生だからね?)(原作で聡実は汗と涙をだらだら流す表情が多い)、他の和山先生の作品にも共通する訥々とした語りのモード、特に『カラオケ行こ!』にあっては、聡実による、自分を少し遠くから観察するような一人称語りによって、受け身な主人公が違和感なく成立している。実際に起きている出来事と語りのギャップに独特の可笑しみがあって、しかも、その一人称語りは実は高校の卒業文集の文面だったことが終盤に判明するというカラクリ付き。そして、卒業文集で物語られたストーリーはひと夏の幻影だったのだろうか、と思いきや、大学のため東京に向かう空港ロビーで狂児と再会するラストの提示&狂児からの発言「カラオケ行こ!」タイトル回収で、読者にその後の2人の関係性について想像の余地を残すという、ツボを押さえたBL漫画になっている。さらにさらに、巻末の狂児がヤクザの道に入るきっかけエピソードを読むと、読者は(すくなくとも私は)聡実の将来について不穏な類推*1を働かせてしまうというオマケがついている。コミックスを買ったときに読み飛ばしていたいろんなことに気づき、あらためて読むとむちゃくちゃ面白れぇーーーという感想を胸中に抱いて翌日劇場に向かったわけです。
 映画は、面白かった。原作に負けず劣らず面白かった。というかむしろ、部分によっては原作を超え出た面白さがあった。友人諸氏も観ており、とにかく脚本が、上手い、素晴らしい、と絶賛の声。私もそう思う。原作漫画から実写映像への翻案が上手い、と言ってしまえばそれまでだが、本作は、原作を深く読解し、そこに堅実で隙のない解釈を一つ一つ与えていく、地道な労力の積み重ねが結晶してできた作品であるように思う*2。思い返せば、映画オリジナル要素は結構多いし大きいし重たいのだが、そのいずれにも必然性があったように感じる。細かい部分については今回この記事が長くなっちゃったので割愛するとして*3、ここでは、原作漫画最大の特徴(と私が思う)「聡実による一人称語り」が映画で廃された*4という変更について感想を述べたいと思う。

 映画『カラオケ行こ!』では、なぜ聡実による一人称語りが採用されなかったのか? 聡実による一人称語りの替わりに、どのような仕掛けが施されているのか? そしてその変更は、原作の一人称語りのたんなる代替物なのだろうか? たんなる代替物に留まるのでないとしたら、原作との差分、つまり映画の独自性はどこにあったのか? そしてそれがどんな意味を持つのか? というところまで書きたい。

 

なぜ聡実による一人称語りが採用されなかったのか? 
 どうしても推測するしかない部分もあるが、その理由を考えたい。2点ある。
 まず、一般論として、漫画とか小説の一人称語りは、そのまま映画に輸入しないほうがいい。映像であるならば、やはり画で見せるのが正道だからだ。したがって、積極的に一人称語りを採用しなければならない理由がなかったのではないか。
 つぎに、原作の一人称語りは先ほど触れたように高校の卒業文集に書かれた、という建付けになっており、高校3年生時点から振り返っているという構造が映画における一人称語りの導入の阻害要因になったのではないだろうか。合唱コンクールの時期に変声期に差し掛かり、上手く歌えないのではないかという不安を抱える少年が、ひと夏、ヤクザのお兄さんに急接近してしまう、原作も映画もそういう物語だが*5、その少年のひと夏のまことしやかな体験談を、声変わりをとうに終えた高校3年生の青年が語り直す、というのが原作での一人称語りのモードだ。これが漫画であればある種の叙述トリックとして働く。四角枠で囲まれた一人称語りの聡実の声と、スピーチバルーンで発話される聡実の声は違う声だったのだ、ということが終盤で明かされ読者は驚くという寸法だ。ところが、これを映像で実現しようと思うと、一本の映画を撮影するために聡実役の俳優の声変わりが完全に完了するのを待つわけにはいかないし、あるいは、たかが3年の差で別の俳優を起用すれば、視聴者に不必要な混乱を生じさせるリスクを負うことになる。したがって、実写映像化に際し、そもそも主人公一人称語りが採用しにくい事情があったのではないかと推察される。

 

聡実による一人称語りの替わりに、どのような仕掛けが施されているのか?
 とはいえ、一人称語りを放棄すると主人公の心情を自分で語らせることができなくなるため、主人公の心情変化を伝える手段を別立てで用意する必要が生じる。本作映画では、主に以下の2つの仕掛けが一人称語りの替わりの役割を果たしていたように思う。①原作で多く描かれなかった合唱部の部活動パートの充実、②聡実の手による「紅」の歌詞の和訳、である。
 先に議論の前提として、一人称語りによる心情説明の一部を原作から確認したい。原作コミックス1/4くらいのところで、変声期に思い悩む聡実の心情と、そんなセンチメンタルな聡実の心にずかずかと踏み込んでくる狂児の様子を、聡実自身が語ってくれる箇所がある。以下の語りは、合唱部の木村先生にソロパートを任され、その直後すかさず、木村先生がもしものとき(聡実の声が出なくなったとき)のために和田を代理に指名したあとの場面である*6

ついに僕もアレを迎えてしまいました。/変声期というやつです。/最近になってとうとう声がかすれ、高音が出にくくなってきました。/成長期の1つにすぎませんが、僕にとっては大事件です。/必死にごまかしながら歌っても先生にはわかっていたようです。/自分の声に裏切られたような気分でした。/つらいです。/だからヤクザの面倒を見る心の余裕なんてないのです。/それでも狂児はやってきます。
『カラオケ行こ!』p.37,38

 ここで聡実は、声変わりが自分にとっての「大事件」であることを自ら読者に教える。

 この次のページからシーンが変わって、道端で学校行事のいちご狩りに向かう聡実を見つけた狂児が、半ば強引に、ヤクザが集まるカラオケルームに連れていく場面に転換する。そこで聡実は、歌の練習をするヤクザ連中に正直に歌の評言をするように強いられ、その結果、ヤクザの一人を怒らせてしまい怖い思いもする。しかしここで重要なのは、狂児が強引だったとはいえ、聡実自身が学校行事をサボって彼に付いていく選択をしたとも考えられることだ。このことから、自分の声の変化に対する戸惑いが先にあり、その心情を前提として、ヤクザの狂児に接近する導入となっていることは明らかだ*7。すなわち、いくぶん単純化してしまうと、ここで「声変わりに端を発する学校内の問題から逃げる → 狂児に接近していく」という図式が聡実に成立したのである。クライマックスで聡実は、合唱部から逃げた先で別の勝負に挑むことになるのだが、そこに向けての舞台装置がこうして準備されるわけだ。声変わりについての思い悩みが狂児に接近する導入になる点については読者側の読み込みが必要なものの(ただし、一人称語りは主人公による直接的な心情説明を可能にするものの、その語りを額面通り受け取ってよいかどうかは別問題である。ここでは、いちご狩りをサボった聡実側の選択については語られない。この語り手の信頼性については後述。)、聡実が抱える課題が一人称語りよってはっきりと言葉で提示されるため、物語を転がすための前提条件(声変わりに対する不安が行き場を探している)は容易に読者と共有される。
以上、原作における一人称語り心情説明と、それによって物語展開の前提が準備されていることを確認した。
 では、映画ではどうだろうか。映画では、合唱部パートを詳細に描くことで聡実の抱える心理的課題を観客に伝えている。彼を取り巻く人物との対比によって、状況を通して、彼の抱える屈託の輪郭がはっきり見えてくるようになっていると思われるのだ。
 映画ではどうやら、聡実の所属する合唱部は名門合唱部で、前年までコンクールで2年連続金賞を受賞する強豪のようだ。ところがその夏のコンクールでは銅賞に転落し、全国大会出場を逃す*8。原作の木村先生は映画で名前しか登場せず、産休育休で長い休みに入っていることが聡実と和田の会話で伝えられる。木村先生は映画では合唱部を2年連続金賞に導いた名指導者のようだ。その代わりに芳根京子演じるモモちゃん先生が合唱部の指導を担当している。
 大会後の放課後練習の場で、銅賞受賞について、芳根京子演じる顧問のモモちゃん先生と、2年生で聡実の後輩にあたる和田で意見が対立する。和田は金賞が獲れなかったことが悔しく、何がダメで、どこが改善点だったのか先生を問い詰める。先生はあっけらかんと、よくがんばったとみんなの努力を労う。3位入賞かて立派やで、技術も申し分ないし、声も出ていた、みんなはがんばったよと。それで納得しない和田に対して、強いて言うなら愛が足りなかった、歌は愛やで、と言い放つ。和田は納得せず、やがてその苛立ちは、狂児とのカラオケにうつつを抜かし(もちろん和田はそんな事情を知らないが)部活を抜け出したりまともに歌わなかったりする部長の聡実に強く向けられるようになる。
 モモちゃん先生にとってコンクールは来年も再来年もまた巡ってくる年中行事で、この学年でなんとしても勝たなければならいという気負いがない。明るく楽天的、は美点であるが、その明るさはかえって、3年しかない学生生活の生徒本人たちにとってのかけがえなさを等閑視する態度に繋がる*9。そしてその鈍感さにより、彼女は聡実本人にとっての声変わりの切実さにまで思いが至らない*10
 一方で和田は、過去2回、金賞に輝いた栄光の部で、聡実が部活動に不熱心な様子なのが許せないようだ。合唱部として、みんなで、努力して高みを目指したいと思っている。だがその熱心さによって、和田は、聡実が声変わりで悩んでいることに思いが及ばない。自分を含むみんなにとっての青春には熱心だが、個々人の身体に不可逆な変化がやってくるのだということも、その変化がもたらす帰結(聡実の場合はソプラノの声を一生失ってしまうこと)にも彼は気づいていないようなのだ*11
 先生も和田も過剰なところと不足しているところがあり、それらと聡実との対比によって、聡実の抱える課題がはっきりと浮かび上がる。声変わりによってソプラノ音域が上手く出せなくなってしまうのではないかという不安。たった一回の移行期間で、いままで出せていた音が一生失われてしまう不可逆性に対する恐怖*12。そして本人にとってのその切実さ。しかも、それは本人の努力ではいかんともしがたい性質のものなのだ。
 それをいまいちわかっていなくてもっと頑張らなきゃ、みんなも頑張るべきだ、と考えている子供な後輩。そして、不可逆な変化があってもそういうのは乗り越えられるしいつか思い出になるよくらいに考えているであろう大人な先生*13。和田のボルテージが上がって対立が鋭くなるほど、聡実は部活から離れていき悩みを深めていく。どうしたらいいかわからなくなって、部活から逃げ出し、狂児のもとに走ってしまうきっかけを作るには、じゅうぶん説得的な配置ではないだろうか。このようにして、映画においても「声変わりに端を発する学校内の問題から逃げる → 狂児に接近していく」という図式が構築される。
 以上のように、映画では合唱部パートの人物造形とその関係を丁寧に描くことによって、それら人物との対比対立を通して、思春期固有の身体の変化に由来する聡実の屈託の内実を、独白なしに鮮明に浮かび上がらせるのである。合唱部の人物描写の充実は、聡実の一人称語りによって説明されていた心情を別の手段で実現しているという意味で、一人称語りをいわば機能面において代替していると言えるだろう。
 次に、聡実の手による「紅」の歌詞の和訳が本作映画で果たした役割についてみていこう。映画ラストでは、聡実が読み上げる「紅」の和訳のナレーションを背景に、狂児が去った街の中を聡実が訪ね歩く。これはぜひとも実際に映画を観てほしいが、その彼の行動が見事に和訳の歌詞と一致し、彼の心情が「紅」の歌詞和訳に仮託されて表現されている。彼が語るのは「紅」の歌詞和訳であることから、これを彼自身の純粋直接な心情語りとすることができないものの、歌詞和訳に彼の心情が重ね合わされることで間接的に主人公の一人称語りを実現するという仕掛けになっているのである。さらに、歌詞和訳最後の大阪弁イントネーションで発音される「ぴかぴかや」の一言に、まるで原作の語りのどことないおかしみ(これは他の和山作品にも共通するテイスト)のニュアンスが代表されているようで、こんなに原作愛が凝縮された翻案ってありえるんだろうか、と舌を巻いた。
 「紅」の歌詞和訳は、機能面で一人称語りの代替になっているというよりは、歌詞和訳を使って主人公の心情を仮託させ、一人称語りに近しい(というかほぼ一人称語りと言っていい)語りを映画に招き入れる仕掛けだったと言える。

 

原作の一人称語りのたんなる代替物なのだろうか?たんなる代替物に留まるのでないとしたら、原作との差分、つまり映画の独自性はどこにあったのか?
 先に確認した一人称語りの代替となる①部活動パートの充実、②聡実の手による「紅」の歌詞の和訳、は原作の一人称語りのたんなる代替物なのだろうか? 代替手段の導入により、結果、当然ではあるが、原作と異なる映画の独自性が発揮されているように思う。①②それぞれについて、原作と映画の違いを検討したい。
 ①部活動パートの充実、その中でも和田の対立心とモモちゃん先生の無神経は、聡実にソプラノとして上手く歌わなければならないという強い規範意識を植え付ける。しかし、声変わりという本人の努力ではいかんともしがたい事態によって、その規範の履行に危機が訪れる。ソプラノとして上手く歌いたい、歌わなければならない、しかし、できないかもしれない、自分の意志や努力ではどうしようもない部分がある、というジレンマは原作でも示される心理的課題だが、これが人物同士の対立という形で顕在化しているため、原作よりもはっきりとわかりやすく提示されており、それだけでなく、顕在化しているがために実際に解決しなければならない課題として立ち現れる。これは原作とは大きく異なるところだと言える。
 原作において、和田は聡実と激しく対立する人物ではない。むしろ、聡実のことを慮っていさえする。原作pp.68-71で、外階段で一人練習する聡実のところに和田がやってきて、声を出すのがきつそうだからソリのパートを代わりましょうかと提案、最後の舞台は楽しく立ってほしい、苦しい顔で練習しないでも、無理をしないでほしい、と話しかける。それに対して「ええってもう」ときつめに返答するのは聡実のほうだ。このやりとりのあと、「和田の言うとおりでした。/練習すればするほど苦しいのです。」と、聡実の一人称語りが続く。原作の和田は、聡実の声の異変とそれによって苦しんでいる聡実に気付き、聡実にとってより良い方を考えた上で声をかける人物であり、映画の人物造形と大きく異なる。
 ここからわかるように、映画で和田が聡実と対立し物語を展開する力となっているのとは異なり、原作では他ならぬ聡実自身が自分の心理的課題をどんどん膨らませる張本人となる。原作における聡実は自身の感情についていくぶん自己完結的だ。自分自身の問題を自分自身の語りによって大きくさせていくこの展開は、表現として、聡実の一人称語りがなければ成立しない。一人称語りによる描写を省略する紙幅の経済面の効果や狙いもあるとは思うが、語りの力によってある種の正常化バイアスが働くため*14、主人公に受け身な性質が付与され、ヤクザとの奇妙な交流という異常事態がなぜか成立してしまう。
 さらに、ヤクザにかかわって中学生が危ない目に会うという異常事態よりも、声変わりの個人的問題のほうが本人にとって重大事になるというような逆転現象も発生する。これは、原作を読んだ人なら強く印象に残っているであろう、お守り投げつけシーンにおいて最も顕著に表れる。
 合唱祭が近いことからお互い個人で練習すること提案した聡実は、合唱祭が近づくにつれ不安が増していく。自分から会わないと提案をしたにもかかわらず、合唱祭の前日、ここに行ってはならぬと狂児から渡された手描きの地図を頼って、狂児を探しに街の治安の悪いエリアに来てしまう。そこで聡実は薬物中毒者の元組員に絡まれ、たまたま通りがかった狂児に助けられる。お守り投げつけシーンはそのあと、狂児が聡実を家の近くまで送る車中での出来事だ。
 その車中での聡実の一人称語りでは、一人語りによって彼の感情が増幅されていく。

このときなぜか僕はイライラしてどうしようもなかったのです。/なにをしてもうまくいかない苛立ちか、自分の未熟さや浅ましさに情けなくなったのか、ワケもわからず腹を立てていました。/涙も出そうになりました。/それこそ幼稚で甘えだと、更にイライラは募るばかりです。
『カラオケ行こ!』p.87

 彼の感情が増幅されていってると読者が解するのは、彼がそのように語るからだ。

 そのあと、狂児が「聡実くんも明日がんばってな/俺も頑張るから/言うて必死さは全然ちゃうねんけど/聡実くんはのほほ~んと歌いや」と語りかけると、聡実がブチギレ声を荒げて怒る。そしてお守りを投げつけて車を降り去っていく。歩いて帰る聡実の一人称語りは続く。

なぜあんなにも感情がこぼれてしまったのかわかりませんでした。/でもワケもわからず涙がでることってあるじゃないですか。/自分だけ可哀想な気分になって、悲嘆になってひねくれて/今思い返せばアホみたいです。
『カラオケ行こ!』p.90

 彼は自分の語りで増幅させた感情が大きいものであったことを認めつつ、これまた自分の語りでもって、読者に同意を求めながら鎮めていく。

 しかしちょっと待ってほしい。直前のシーンは聡実がヤクザにかかわったせいでとても怖い思いをするという場面だ。薬で頭のネジがはずれてしまった元組員に連れていかれようとするところ、狂児がバッグでこめかみを殴打し、殴打したところから血が噴き出し、人が倒れる。狂児に助けられた負い目があったとはいえ、冷静に考えれば、直前の出来事が怖かったとかなんだとかいうことについて泣いたり怒ったりしそうなものだ。しかしそれよりも、狂児を探しに危ないエリアまで行ったのにその狂児が自分の深刻な問題に対して「のほほ~ん」などと見当違いなことを言ったことに対し、聡実は感情を動かし激昂する。ヤクザにかかわったことで発生した異常事態は容易に看過され*15、それよりも聡実の個人的な問題がフォーカスされる逆転現象である。これは中学生らしいといえばらしいのでリアリティがないかといえばそうでもないが、たしかに語りの効果によって実現されていると言えるだろう。
 聡実は成田狂児に翻弄されていく受け身型主人公の人物造形となっていて、自分自身の語りによって、個人的な出来事に対しての感情を増幅させ、狂児への想いを強くしていく。原作では一人称語りが物語の推進力として機能するのだ。そして、高校3年生の時点から語り直されるひと夏の狂児との思い出は、一人語りをしている時点で、すでに本人の中でなんらかの決着がついているものとして読者に提示される。すなわち、彼の心理的課題の解決がどのように行われたのかは主題化されなくてもいい、ということになるし、それによってことさら読者が不自然に感じるとも思えない。むしろ読者には想像の余地が残って良いとさえ言えるかもしれない。
 それでは映画に戻ろう。すでに説明したように映画では一人称語りを推進力に使えないため、和田というカウンターを用意し、彼との対立により聡実の心理的課題を浮き彫りにし、物語を展開していく。だが、この対立は現実に人物の対立として顕在化しているために、聡実の心内で自己完結することができず、明示的解決が要求される。では、彼の問題はどのように解決されたのだろうか?
 聡実は合唱部から逃げて狂児に接近していき、ついに合唱部の練習をサボって、放課後、映画を観る部で過ごすようになる。そこに和田が乱入し、練習サボって何をしてるんですかと聡実に怒りをぶつける。そして流れから、映画を観る部の、巻き戻し機能が使えなくなってしまっている古いビデオデッキを壊してしまう。ここで和田と聡実の間の緊張は頂点に達する。聡実は果たして部活に戻れるのだろうか、と思っていると、聡実はビデオデッキが壊れたことに責任を感じていたのであろう、漫画では狂児を探しにやってくるヤクザ事務所がある治安の悪いエリア(映画ではミナミ銀座という名前)にある中古屋に、ビデオデッキを探しに来る。そこで薬物中毒者に絡まれ、狂児登場、バッグでこめかみを殴るという展開は原作漫画と一緒だ。
 そのあと2人はミナミ銀座を見渡せるビルの屋上に移動する。そこでお互いの決戦の日(合唱祭とヤクザのカラオケ大会の日)が一緒だということを知る。聡実が語りだす。もうこれで中学の合唱部で歌える機会も最後なのに、出られそうもない、上手く歌えない、もうソプラノが綺麗に出ないから、と心の内を狂児に吐露する。そこでの狂児の言葉が聡実にとって決定的となる。「アホやな、綺麗なもんしかあかんのやったら、この街はおしまいや」(という感じのセリフだったと思う)。聡実はこの言葉をかけられて嬉しそうににやける。ソプラノの声を綺麗に出して上手く歌わなければならないという彼を縛っていた規範が、ここで解除される。こうして彼はまた部活に戻っていく決心をする。
 彼の心理的課題は上手く歌わなければならないという規範に由来していたのだから、この狂児のセリフをきっかけに彼の課題は解決した、と言ってしまっていいのだが、これはいったいどのような解決だったのだろうか? 狂児の言う汚いものがないと成り立たない「この街」とは、屋上で見下ろした街である。そこはどこか? ヤクザの事務所があって、薬物中毒者が中学生に掴みかかり、ヤクザが集結してカラオケ大会を開くスナックがある街だ。聡実の心理的課題の解決は合唱部の外からもたらされるが、その出所には注意したい。彼は合唱部の内部で葛藤して自分の問題を解決したのではない。ヤクザのほうに軸足を置いて、合唱部の外に立って外から合唱部を眺めることで解決を図ったのだ。狂児は屋上のシーンで、ついに聡実を堕とすことに成功したとも考えられる(それを無意識に行っているあたり、魔性のヤクザ成田狂児なんだよな)。
 映画にもお守り投げつけシーンがあるのだが、聡実が激昂した対象が原作とは異なることに注意されたい。
 映画で聡実は狂児の言葉に勇気づけられ、合唱部に復帰する。納得がいかないのは和田だ。謝る聡実、納得いかない和田、仲裁する副部長の中川、三つ巴の口論が繰り広げられ、それを狂児が校門の外、黒塗りの車の中から眺めている。中川が狂児に気づき、聡実に行くよう促すと、いったん和田と中川は教室に帰り、聡実は校門の外の狂児のもとへと歩いていく。そこで狂児は「そらお年頃の男の子女の子やもんな、聡実くんも隅におけませんな~」(てなセリフだったと思う)と何の気なしにからかうと、聡実が激昂して罵詈雑言を言い立てる。「どうせあれやろ、くだらん想像してたんやろ、ちゃうわスケベなアホカス、狂児のドアホ!!」(てな感じだったはず)。原作での怒りの対象は、合唱部での不安を汲み取ってくれなかったことに対してだったが、映画での怒りの対象は、合唱部の女の子と恋愛関係にあることを邪推されたことに対してである。このシーンはヤクザの世界と学校の世界とで見事な対照をなしていて、聡実はヤクザの世界の視点を自分に導入することで合唱部と向き合う勇気をもらい学校の中にいるのに、狂児はその聡実を自分たちヤクザとは違うほのぼの青春学校ストーリーの一部として眺め、解釈する。そのことに対する聡実の怒りなのだ。同じ風景を見ている、あるいは聡実が見たいと思っている当人に、自分とは違うと拒否され、裏切られたことに激昂したのだろう。そしてお守りを投げつける。
 原作では、狂児と会わなくなって3年が経過した高校3年生卒業式時点から過去を省みて語られ、もうヤクザとの関係が断たれていることが示唆される(がラストにまた再開するんですが……)。一方映画では、ヤクザの世界に軸足を置いて別のものの見方を獲得することで心理的課題を解決し、合唱部に戻る決意をさせている。原作との違いは、映画のほうがずっとよっぽど聡実は不安定、ということだ。永遠に失われてしまうことが決まっている美声がいっそ失われてしまうなら、ヤクザの道に進んでもかまわない。彼は将来、狂児を追いかけてヤクザの道に進んでしまうのではないだろうか、とハラハラさせられる。
 このことは②聡実の手による「紅」の歌詞の和訳にも認められる。
 ②聡実の手による「紅」の歌詞の和訳の登場と、ラストシーンまでの流れを整理しよう。狂児と2回目にカラオケに行ったシーンのあと、聡実を自宅近くまで送る車中で、「紅」には「カズコ」の思い出が詰まっとんねん、と話す。そのあと映画を観る部のシーンで聡実は「狂児も「カズコ」の瞳に乾杯したんかな」と「カズコ」を想う狂児の気持ちに思いをはせる。それがなんなのかわからないまま、合唱部でソロパートの代理に和田を立てられるなどして、より一層合唱部から距離を置くようになった聡実は、再び狂児とカラオケに行く決心をする(本作映画2度目のタイトル回収、聡実の側からの「カラオケ行こ!」)。何度も狂児とカラオケに行くシーンが続き、ある日、聡実はカラオケボックス「紅」の歌詞を和訳する*16。大事な人が自分のもとから去ってしまって、その人の幻影を追い求めてしまう、そして心が紅に染まる、そんな歌であることを聡実は知る。「えらいこっちゃで~」と狂児。狂児が愛した「カズコ」がもういなくなってしまって、だからこの歌に狂児が拘っているのだろうと聡実は思い込んでいたが、実は「カズコ」は狂児の母親の名前で、女除けに「カズコの思い出がつまっている」などとデマカセを言っていたのだと種明かしされる。そしてヤクザカラオケ大会で紅を歌う聡実、ラストシーンで歌詞和訳を背景に、いなくなってしまった狂児を訪ねて街を彷徨う聡実に繋がっていく。
 歌詞和訳は以下のような推移で最終的に主人公の一人称語りへと変身する。
① 狂児 → カズコ
② 聡実 → カズコ
③ 聡実 → ∅
④ 聡実 → 狂児
 狂児には過去にカズコという想い人がいた、と聡実は思っている(①)。聡実は狂児の気持ちを知るために、歌詞和訳を通して狂児からカズコへの想いを知ろうとする(②)。だがカズコなどという人物は想い人ではなく虚偽であった(③)。聡実は歌詞のとおり狂児を追いかけてカラオケ大会に出場し「紅」絶唱*17、ラストシーンで狂児のマボロシを求めて街を彷徨う(④)。
 お分かりのように、カモフラージュしているようで、これじゃもうほとんどその感情が恋慕であることを暴露しているようなものなのだが*18、重要なのは、この(疑似)一人称語りは現在の聡実の心情をそのまま語っているものでしかありえないということだ。
 原作の一人称語りは、何度も繰り返しになるが、3年後の高校3年生になった聡実からの振り返りの語りだ。しかも卒業文集である。想定される読者は高校の同級生だ。それゆえに、敢えて語っていないこともあるだろう。ヤクザとの急接近などというにわかには信じがたいまことしやかな話としてそれは語られる(同級生の女子による「あれほんまかなあ」というセリフがある)。卒業文集という媒体であることから、仮に聡実が狂児に対して恋心(かそれに近しい感情)を抱いていたとしても、それが語られることはないだろう。卒業文集であるがゆえに多くの語り落としが原作にはあると考えるべきだ*19。この語り手を100%信頼するわけにはいかない。
 しかし他方で、映画においては、和訳をしたのも、歌詞和訳が語られるのも、その夏(~秋)の同じ時間の枠内である。だからそれが心情を表すとするなら映画内で流れる時間のその今の感情であることになる。また、これは状況から判断して(歌詞の内容と行動が一致していることから判断して)、歌詞和訳の語りは聡実から狂児に宛てられた手紙(ラブレター)だ。以上により、「紅」の歌詞和訳は現在の聡実の、狂児に対する感情を告白する一人称語りであり、原作の一人称語りとは大きく性質の異なるものになっていると言える。原作では覆い隠していた部分を、映画では全面的に暴露してしまっている。
 そのことにより、聡実の身分の不安定さが強調される。歌詞のとおり、その後彼は狂児を追い求めて行ってしまうのではないだろうか。映画では、映画を観る部の部員が卒業文集の真実性に疑義を呈する女子高生の役割を担っていて、狂児との体験を「幻やったんちゃう?」と要約しようとするので、聡実が現実に連れ戻される希望は残されている*20、と思いきや、すぐに裏切られる、しかもエピローグでも裏切られる。おい。ここで完全に縁が切れていたら、すなわち、映画を観る部の部員の言うように、ひと夏のマボロシで終わっていたら、少年が異世界に迷い込み、成長して帰ってくる成長譚で終われたはずなのに、そうはならない。やはり聡実の将来についての不穏さがそのまま放置されてこの映画は終わる*21

 

映画の独自性がどんな意味を持つのか?
 以上確認したように、原作がその語りにより覆い隠していたこと、語らず読者の想像に委ねていたことが、映画では暴露される。ヤクザのお兄さんが、中学生を籠絡し、反社の道に引きずり込む、という物語である。しかもその中学生を実在の思春期の俳優が演じるのだから、映画のほうがずいぶん危なっかしいことになっている。
 原作は漫画だし、BL作品というジャンルの文脈に乗せれば、ヤクザと中学生の関係もよくある「設定」として流せるかもしれない。しかし、実写映画にするとそういうわけにもいかない。そこでもって、本作映画はそこをマイルドにしたりすることなく、むしろ原作の語りの距離感によって覆いがかけられていた部分を取っ払い、さらなる先鋭化を施し、その危うさ提示してみせる。
 ところで、映画の聡実は部活の中だけで自分の問題を解決できなかったのだろうか? おそらくできないことはなかったと思われる。最終的に合唱部から逃げることになっても、挑戦することになっても、そのとき綺麗なソプラノボイスが失われていても、自分のポジションが他人に奪われていても、どの帰結であれ、彼は先に進めだだろう。なぜなら、彼の周囲の人物はみんないい人だからだ。モモちゃん先生は多少鈍感だが、先生として間違った采配をしているわけではない。彼の味方になってくれる副部長もいるし、母親も父親も彼の意見を尊重し、見守ってくれている。映画を観る部のあいつも聡実に逃げ場を用意してくれている。和田だって、ちゃんと話せばわかったはずだ。よい友人、よい指導者、よい両親に囲まれている。
 ここから私は2つのことを思う。
 ひとつには、周りの大人は他にできることはなかったのだろうか?ということだ。聡実にもう少し踏み込む人がいたら、何か変わったのではないか。本作映画は大人の観客に向けて、大人として我々が襟を正さなければならないことがあるだろう、というメッセージを発信している(というように私は受け取った)。
 もうひとつは、青少年の持つ危うさの普遍性である。これは思春期に限らず広く青少年期の若者に共通すると思われるが、あとから振り返って、どうしたってどうやったって取り返せないものがある。今回の映画ではそれはソプラノの声だし、その喪失と並行して聡実が狂児にどうしようもなく傾倒してしまった経緯全体である。このような青少年のいかんともしがたい危うさは、多くの人にとって自他ともに見聞き経験したことのある普遍的なことではないだろうか。聡実がヤクザに接近することをいったい誰がどのようにどの時点で止めることができただろうか。できたかもしれないが、漏れ落ちることがある。映画の聡実の周囲にいる人物の中に、明白に悪手を打っている人間がいるとはやはり私には思えない。それにもかかわらず、ときにふとした拍子で若者が転落していってしまうという現象は、そのすべてを防ぐことは到底できず、いつの時代にも起こりうる普遍的な現象であるように思える。

 映画のとある場面で、狂児は聡実の声を「天使」と評した。

 (じゃないほうの)アドラーは『天使とわれら』(稲垣良典訳、講談社学術文庫)で、パスカルの「人間は天使でもないし、けだものでもない。不幸なことに天使のように振舞おうとする者はけだもののように行動してしまう。」という言葉を紹介し、加えて人間は、自分が天使と似ても似つかぬ存在であることを理解しなければならないと強調する。人間は天使と違い物体性を有するがゆえに、知性は知覚や記憶や想像に惑わされ、意志は情念に揺さぶられ、さらに時間的に有限の死すべき個体である。そうであるにもかかわらず、人間が肉を持つゆえに科せられる様々な制限がさも存在しないかのように錯誤する誤謬を、彼は「天使主義的虚偽」と呼んだ(4部9章)*22

 聡実は声変わりという避けられぬ身体変化が避けられぬことを当然知っている、そのくらいに聡い少年である。人間は天使になることはできない、それならいっそ、成長とともに永遠に失われてしまうこの声を道連れに、地獄まで狂児と一緒に行こうじゃないか*23。聡実本人にとってはそうすることが必然としか思えないような思い込みが働いていたこととだろう。不可逆な身体変化とともに今までの自分をも否定し、まるごと棄却してしまわなければならない*24と思い込んでしまうのは、人間が天使でないことを許容できないことに由来し、その点で、この思い込みは天使主義の一つのバリエーションである。この誤謬にもとづく彼の行動をモーティマー・アドラーの「天使主義的虚偽」になぞらえて言えば、聡実の危うい狂児への傾倒は「天使主義的心中」である。永遠に失われてしまうのであれば、それ以外のすべてもいっしょにかなぐり捨ててもかまわない、いやむしろ、本人にとってはそうしてしまわなければならないと考える他なかったこと。自分の美声を殺してでも、死んだ*25狂児に成り代わって「紅」を歌うのだという決断は、彼の「天使主義的心中」であった。

 喪失することが不可避である自分の可能性と離別し、どのようにしても実現することがなかった自分を殺すこと。その苦々しさを引き摺って進むのが大人であり、その苦々しさを引き摺り続けることが青春の正体である。たいていの場合、人はそれでも生きていく。なぜなら、そもそも人間は天使ではないのだから。だが、それを受け入れられないとしたらどうか。青少年の魂の器はあまりに心もとない。大人は今現在の自分を過去の自身の数々の選択の結果であると知るし、選択が許されなかった過去ついても、運命を受け入れ、自身の意志によるさらなる選択によって過去を塗り替えていく術を学ぶ。しかしはたして、年を取った(当方現在33歳)者どもは、かつて自分がどのようにして青少年期の危機を切り抜けたのだったか、覚えているだろうか?*26 不可能以外の方法ではありえなかった、消えていったもう一人の自分に思いを馳せることができるだろうか? 聡実の「天使主義的心中」を、ただたんに虚偽にもとづいて極端に走る愚かな行為だ、とだけ指摘して片づけてしまうことは、簡単なことではない。本作映画では聡実の将来を不穏なまま開いておくことで、青春期の誤謬が避けがたく、そこから発する行為の愚かさもときにいかんともしがたいものであることをまざまざと提示してみせた。すくなくとも私にはそのように思えた。

 その点で、映画が原作への強い批評になっていると思ったので記しておく。お約束の部分がお約束では済まされないと再提示したこと、そしてそれが若者にとっての普遍的な主題を扱うものであること。このことは本作映画の素晴らしさの一部を担っていると私は思う。

 最後に、あらためて、そもそも悪い方向に進まないようになんとかできなかったのか。やはり大人は考え行動し続けなければならない*27。さらに、転落した若者がいるとして、その若者を救うには、こちらからアウトリーチしていなかないとどうにもならないし、アウトリーチしてもどうしようもないことも多いが、やはりそれでもやらなければならないことがある。最後の最後に、教訓話みたいになってしまったが、大事なことだと思うので。

 

 

以上。

 

*1:聡実も将来ヤクザの道に進んでしまうのではないかという類推

*2:というかこのレベルの翻案がサラリと作られたものであってたまるか

*3:いろんな仕掛けがいっぱいある。ほんとは忘れないように余さず書いておきたい。

*4:全編に亘る一人称語りのモードが採用されなかったことを指す。映画を観た方には明らかだろうが、映画ラストに一部一人称語りが採用されている。しかしこれも純粋な一人称語りというわけではなく、別のモードを設定したうえでの間接的な一人称語りの導入となっている。後述。

*5:原作の時間スパンは梅雨から8月11日の合唱祭まで、映画はおそらく9月上旬から10月中旬までなので「ひと夏」とするには少し時期がズレるかもしれない…、けど便宜上ひと夏でいかせてくれ。

*6:原作で、ソロパートを指名されたとき聡実の表情は気恥ずかしそうにしながらも嬉しく感じていることが読み取れる。そのあと、和田がもしものときの代理に指名され、しかも「声がでんようになったりしたときのための」と先生が言葉を繋ぐと、その次のコマで聡実はスピーチバルーンで「………」と無言になり、うつむきがちになる。細かいが、ここでの3コマ、先生の目から光彩が消え、2コマ目では口元が隠れ、3コマ目では眼鏡のフレームで眉毛と上瞼が隠されている。和田の代理指名の説明をする先生がどんな表情でそれを言っているのか直視することもできない聡実の落胆の心情が伝わってくる。

*7:聡実が狂児とはじめてカラオケに行く場面、原作p.25で、「紅」を歌った狂児に率直な意見を求められ「終始裏声が気持ち悪い」と述べる聡実がここで繋がる。変声期前ならば裏声でなくとも歌えるであろう歌を、裏声で歌う大人(でヤクザ)に対する複雑な気持ちがあったことだろう。そしてここは漫画を漫然と読むだけだと読み落としてしまうだろう箇所(なぜなら漫画は音を出さないので)で、映像化によって鮮明になるところだろうと思う。

*8:コンクールの会場で和田になぜ負けたんでしょうかと問われた聡実は自分のせいじゃないかなと答えるが、この発言は映画序盤の時点で聡実が自分に変声期が始まりつつあることに気づいていたことを匂わせている。

*9:この先生を芳根京子が演じるってとこがよかった。芳根京子というと明るく前向きな人物を演じていることが多い印象があるが、芳根京子がスピンオフで学生や新米教員時代を演じたら、きっと持ち前の明るさと楽天主義で逆境を乗り越えていく主人公だったと思う。芳根京子だから、明るい人間が悪意なく生み出してしまう無神経さのリアリティが出ていたと思う。

*10:ただこの先生が教師として失格だとは私には到底思えなくて、基本姿勢として生徒の自主性を重んじ、管理して自分の思い描く方向に生徒を指導するようなことはしない。さらに、管理者の立場としても、もしものときのために和田を補欠に立てるという適切な対処を行っている。至極まっとうに仕事する教師に思える。

*11:だから同合唱部の女子たちからはやれやれ子供だな、という目線を向けられる。それも和田にはわけがわからなくてさらに苛立っちゃう。

*12:映画を観る部のビデオデッキがなぜか巻き戻せなくなっているのは、聡実の変化の不可逆性と並行関係にある。

*13:ここで、じゃあ副部長はどうなの?と思うだろう。おそらく、副部長は同い年でありながら先輩であると言える。聡実、副部長、和田トライアングル/それを眺める狂児のシーン(その後に聡実によるお守り投げつけシーン)では、「生理現象」の「生理」の意味について聡実と副部長で認識の齟齬が発生していたことから察せられるように、本作映画では男性の声変わりに女性の生理が第二次性徴期の不可逆な身体変化として対置されており、その意味で副部長は聡実の先輩である。だが、彼女はなにかにつけ聡実の擁護者となるが、聡実の理解者にはならなかったようだ。月並みな説明になるが、学校の男子と女子の隔たりによるものだろう。

*14:原作の語りは高校3年生時点から振り返って語られるため、落ち着いた筆致になる。

*15:ヤクザに巻き込まれる異常事態を看過している、のは高校3年生時点の聡実であって、彼の表情はしばしば汗と涙でぐちゃぐちゃになり絵は彼の置かれた事態の異常さを如実に表現する。高校3年生の時点の聡実が敢えて語り落としていることがある。

*16:ここは狂児と遊んでばかりいるわけにはいかない英語の勉強を兼ねた行為で、中学生の日常を描いていていいシーンだと思う。

*17:「紅」絶唱シーンの回想が、過去のシーンのそのままの反復ではなかったことに注意。狂児が聡実に傘を差し掛ける場面は回想のときのみ、聡実の顔に光が差している。狂児にミナミ銀座で助けられ、財布を拾い上げ渡されるシーンも、回想シーンのみ聡実目線で撮られている。狂児は、聡実のなかでいつのまにか「ぴかぴかや」に変化していた。

*18:この点、原作よりBL強めになっている。

*19:原作の一人称語りが敢えて語り落としているところ、うっかり暴露しているところ、で指摘できるところはいくつもあるのだが長くなるのでリアルの友人には会ったとき話します。

*20:しかも、聡実の不可逆な変化が巻き戻せないビデオデッキと並行関係にあるなら、VHSが巻き戻せたならば聡実ももとのふつうの中学生の日常に戻れるとぬか喜びしてしまうじゃないか。でもこれは、次の世代の聡実ではない誰かの不可逆な変化が何度も何度も訪れることの暗示なのかもしれない。

*21:これは続編の『ファミレス行こ。』上巻のラストまでを含んだ聡実を思わせる。

*22:「天使主義的虚偽」はアドラーデカルトに端を発する近代哲学を批判する文脈で使われる用語なので、今回の感想の文脈と完全に一致するわけではない。ここでは「人が肉を持つゆえに科せられる様々な制限を認めず、制限に由来する帰結を忌避する態度」くらいに受け取ってほしい。

*23:喧しゅうゆうてやってまいります、その道中の陽気なこと〜。これは「地獄八景亡者のカラオケ」。

*24:人間は天使ではないので実際にはそんなことはないのだが…と大人は大人で思い込んでいるのではないか。その大人の思い込みはときとして人間をけだものに堕してしてしまわないだろうか。

*25:死んでない

*26:どのようにして自分が青少年の危機を乗り越えたか忘却した人物が芳根京子演じるモモちゃん先生である。

*27:ガチガチに管理すれば解決することでもない。社会も大人もリスクを許容したうえで子供と接するしかない。

『マリア様がみてる』アニメ視聴メモ スール制度のもつ光と影の二面性

※最初に弁明しておくと、アニメは4期分ぜんぶ観たけど、私は小説のほうは一切読んでいないので、限られた情報で『マリみて』について書いています。

 

マリア様がみてる』のアニメ4期分を去年から今年にかけて通しで観た。私は2004年当時、一部リアルタイムで視聴していた。それが深夜アニメ初体験(ほんとを言うとガングレイヴ最終話の最後10分くらいを観たのが最初だったけど)だったのでけっこう思い入れがある。そのあと2期の春は放送当時何話か観て、大学生のときに1期を2,3回観た程度だったかな。今回通しで観てみるとかなり印象が変わって、そのところの私の受け取り方の変化を書き残しておこうと思う。

 観る前は、やっぱり『マリみて』と言えば、佐藤聖久保栞の悲恋エピソードでしょ!!という印象が強かったのだが、あらためて通しで観ると、佐藤聖久保栞ペアにみられるようなあからさまな恋愛描写はむしろ傍流というべきで、どうやら姉妹の友愛や親愛を丁寧に描くことのほうが本流と言ってよいだろう。だから百合作品ではないということにはならず、立派な百合作品だと思うのだが、それをして(つまり、あからさまな恋愛関係に発展することは稀ということをもって)『マリみて』を「ソフト百合」と呼称する向きもあるようだ。
マリみて』において恋愛関係はほのめかしに留められており、百合は作品外部の視聴者・読者の想像力延長上に設定されているのだと見る受容の仕方が「ソフト百合」の「ソフト」という呼称に込められた意図だと思うのだが、(この理解が的を射ているとして、)私は『マリみて』はそういう意味での「ソフト百合」作品ではない(と思う)。『マリみて』は百合の可能性が常に秘められており、作中で現実化していないだけという類の物語ではない、というのがこの記事の主張になる。視聴者・読者にとって百合がどうのこうのではなく、作中人物たちにとって百合関係を築くことがどのような意味合いをもつか、百合関係を築くことにどのような制約条件があるのか、の視点を持ちたい。

 本作では百合が無条件に前提されているわけではない。それだけでなく、『マリみて』の世界のなかで百合を成立させる条件そのものに踏み込み、その条件に拘束される人間関係を描いている。そこで生まれる悲喜劇が本作の魅力だ(と私は思った)。その意味で、『マリみて』はけっして百合作品の典型とは言い難いのではないだろうか…? 以下、1期の各エピソードを中心に拾いつつそのことを説明したいと思う。

マリみて』の作中人物たちはどのような学園で生活しているのだろうか。作中人物たちを陰に陽に規定するリリアン女学園という場とその機能について確認しておきたい。

さわやかな朝の挨拶が、澄みきった青空にこだまする。マリア様のお庭に集う乙女達が、今日も天使のような無垢な笑顔で、背の高い門をくぐり抜けていく。汚れを知らない心身を包むのは、深い色の制服。スカートのプリーツは乱さないように、白いセーラーカラーは翻さないように、ゆっくりと歩くのがここでのたしなみ。もちろん、遅刻ギリギリで走り去るなどといった、はしたない生徒など存在していようはずもない。
私立リリアン女学園
明治三十四年創立のこの学園は、もとは華族の令嬢のためにつくられたという、伝統あるカトリック系お嬢さま学校である。東京都下。武蔵野の面影を未だに残している緑の多いこの地区で、神に見守られ、幼稚舎から大学までの一環教育が受けられる乙女の園。時代は移り変わり、元号が明治から三回も改まった平成の今日でさえ、十八年通い続ければ温室育ちの純粋培養お嬢さまが箱入りで出荷される、という仕組みが未だ残っている貴重な学園である。

 上記は原作小説の序文だそうだ(原作読んでないからここだけインターネッツで言及されていたのを拾いました許してください)。
「出荷」という言葉にギョッとするかもしれない(アニメのオープニング前口上では省かれている)。しかし、「出荷」という表現は大袈裟すぎるとも言えない。彼女たちは良家の子女である以上、男たちの利益のための交換財である宿命を負う。2024年になったいまでも、程度の差はあれ、良家の子女(男女問わず)に対して「ふさわしい」結婚をするようにというプレッシャーが周囲からかけられる事情は変わらないだろう。祐巳が祥子のスールになるまでを描く『マリみて』最初のエピソード(アニメ1期1話~3話)では、どこに出しても恥ずかしくないお嬢様として育てられた祥子の姿が示される。
 祥子は小笠原グループ(なんかすごい企業らしい。財閥的な?)の一人娘である。1期2話のダンス練習場面で、蓉子(祥子のお姉さま)が祐巳に語る場面がある。

蓉子「祥子はね、正真正銘のお嬢様だから社交ダンスくらい踊れて当たり前なのよ。」
(中略)
蓉子「祥子は5歳のときからバレエを習っているし英会話やピアノ、茶道や華道、みんな一通りできるの。中学のときまでは毎日なにかしらの家庭教師が来ていたみたいよ。」
祐巳「へえ なんだか別の世界の話みたい。」
蓉子「でしょう? 息が詰まっちゃいそう。だから私がみんな止めさせたの。止めざるをえなくさせたってところかしら。スールにして山百合会の雑用に引っ張りまわしてしまったから。」
祐巳「ほぇ~」
蓉子「祥子はね、根が真面目だから期待されるとその通りやっちゃうのよ(以下略」

 祥子はまさしく完璧なお嬢様だ。そして婚約者柏木優の登場によって、彼女が交換財であることが暗に示される。過酷とも思える数多のお稽古ごとをこなしてきた彼女は、自分が財として扱われていること、その期待に応えなければならないことを理解してきた、もしくは受け入れてきたと言えるのではないだろうか。家の格に釣り合うように、交換財のなかでも最高級の価値をもつ商品である必要が彼女にはあった*1
 しかも、祥子は作中で「リリアン女学園のスター」と呼ばれ、多くの生徒から憧れの眼差しを向けられている。序文にあるような品位を身につけた祥子はリリアン女学園の模範例であり、祥子のような人物を素晴らしい人物とする価値のヒエラルキーが存在するのがリリアン女学園という場所である。そしてよきお嬢様であれという規範は、祥子と柏木優の関係から、よき妻であれ、よき母であれ、という規範を暗に含んでいるものとして提示されるのである。
 リリアン女学園は女性の交換財としての価値を高め、世に「出荷」する機関としての役割を担い、『マリみて』の世界の登場人物たちの背後に常に家父長制イエ制度による拘束力を働かせている。『マリみて』の世界ではそのことが前景化することは滅多にないが、それは当たり前すぎて前景化していないか、あるいは前景化してしまうと財としての自身を意識せざるをえないから前景化しないのである(と私は思うんですがどうですかね…、そう考えた方がいろんなことに説明つく気がする)。
 しかし同時に、彼女たちはただの財ではなく、感情をもった個々の生身の人間であるから、財としてのみ扱われることにただ甘んじていることはできない。揺れる思春期ならばなおさらのことだ。
 祥子は財としての役割を完璧にこなす側面を持つ一方で、彼女は姉の蓉子も疑問に思うほどの男嫌いであり、財と扱われていることへの拒否も示す。彼女の祖父と父が妾を何人も抱えていることが彼女の男嫌いの原因だとされているが、極端な男嫌いの原因はそれだけではない。
 シンデレラ劇の稽古の日に、山百合会のメンバーの囲むなか柏木優に迫られた祥子が彼の頬をたたいて立ち去る。祥子を追いかける祐巳。薔薇の温室で以下のような会話がなされる。

祥子「優さんはね、わたくしのことなんか好きじゃない。でもわたくしは一人娘だし、彼は小笠原グループを引っ張っていけるだけの力がある。親も二人の結婚を望んでいる。だから彼はわたくしと結婚するって言うの。でもわたくしは…」
祐巳「好きだったんですね、柏木さんのこと。 …好きな人に、好きでもないのに結婚するって言われたら…そんなの…つらいですよね。」
祥子「聞いてくれてありがとう。懺悔と一緒よ。誰にも言えないから辛かったの。もうだいじょうぶ。」
祐巳「でも祥子さま。ロザリオをください。」
祥子「わたくしに戦わせて。もう逃げたくないの。気が付いて?この温室にある植物の半分以上が薔薇なのよ。これが、ロサ・キネンシス。四季咲きなのよ。この花のこと、覚えておいてね。戻りましょうか。」
祐巳「はい。」

 祐巳の口から祥子の気持ちが明かされる。実は祥子は柏木優に好意を抱いていたのだが、その思いは打ち砕かれていた。周囲の印象とは異なり、祥子はその内面ではおとぎ話のお姫様に純粋に憧れるようなロマンチックな人物であり、自分の願望が叶わないことに人知れずショックを受けていた。自分の意志で誰かを選びその人を愛した末に結婚することができない家に祥子は生まれ、通常、その強制力から逃れることはできない(一般論として、程度の差はあれ、いまでもそういう家がたくさんあることは容易に想像できるだろう)。秘めた思いさえも現実の前に打ち砕かれてしまったからこそ、彼女は極度の男嫌いになったのである。
 シンデレラ劇のあと、祐巳のもとを祥子は訪れる。そこで祥子はダンスのとき柏木優の足を3回踏みつけてやったことを祐巳に告白し、彼女たちは笑い合う。ファッキン家父長イエ制度へのささやかな抵抗のあと、祥子は祐巳をスール(妹)にしたいと申し入れ、祐巳はそれを受け入れる。
 ここからスールの機能を知ることができる。祥子は祐巳をスールにすることではじめて、自分の意志で誰かを選び、愛する機会を得る。スールという関係性は、学園を卒業して世に出るまでのほんの束の間、彼女たちに自身の意志にもとづいて誰かを愛する自由を与える。自由意志によってパートナーを選べる最後の機会がスールによって制度化されているのだ。リリアン女学園は、彼女たちを拘束する一方、彼女たちが感情を有する個々の生身の人間であることを認め、許容し、自由を与える顔も持っている。
ただし、これは断じて完全な自由ではない、制限付きの自由だ。スールは制度だ(制度になっている)。1期1話で祐巳がこんな解説をしている。

リリアン女学園の高等部にはスールというシステムがある。スールはフランス語で姉妹のこと。姉が妹を導くがごとく、先輩が後輩を指導することで、特別厳しい校則がなくとも清く正しい学園生活が受け継がれてきた。

 スール制度がなかったとしたら、女生徒たちに「清く」「正しい」学園生活を送らせるために必要となった「特別厳しい校則」とは、いったいどんな内容であったのだろうか? 制度は、それが制度である以上、制度であるが故の縛りがある。スールの関係は親愛、友愛、ときに恋愛的な関係の様相を見せるが、『マリみて』世界には、最後の恋愛についてのみ、マジになってはいけないという非常に強い圧力が存在する。だってそうだろう、卒業後はどこかの家に入って、後継ぎを生まなければならないのだから、マジの恋愛によって発生しうる逸脱が許されるだろうはずがない。
 スール制度は彼女たちの自由を可能にするものである一方、無秩序への逸脱を抑制する制度でもある。あくまでスール制度は卒業までのガス抜き、というわけだ。その当然の帰結として、ガチ恋愛をする者は学園を去る運命にある。『マリみて』世界を暗に規定するファッキン家父長イエ制度の拘束力は、それほどまでに強力だ。その傍証として、学園を去っていった1期6話のロサ・カニーナこと蟹名静と、1期10話11話の久保栞が挙げられる。
 1期6話ロサ・カニーナのエピソードはこの単話だけで一本記事を書くに値するだけの魅力があるが、それは別の機会に譲ろう*2。さて、慣例上次期ロサギガンティアになるのはロサギガンティアアンブゥトンである志摩子なのだが、それにもかかわらず蟹名静は次期ロサギガンティア選に立候補する。結果、志摩子が次期ロサギガンティアに当選するが、蟹名静の目的はロサギガンティアになることではなかった。当落の結果にかかわらず、選挙が終わったらマリア像の前で会いたいと蟹名静佐藤聖に伝えていた。以下は2人の対面の場面のやりとりだ。

蟹名静「私にとってなによりも大切なのは、いま、この瞬間、あなたの前にいること」
佐藤聖「選挙はたんなる前振りだったてわけ?」
蟹名静「運試し、だったのかもしれません。何も行動を起こさないままでいなくなりたくなかったから。私、イタリアに行くんです。」
(中略)
蟹名静「本当は中学を卒業した時点で留学するつもりでいました。でも2年も延ばしてしまいました。」
佐藤聖「どうして?」
蟹名静「あなたがいたから。」
(みつめあう二人)
蟹名静「私は一瞬でもいいからあなたの瞳にこうして私の姿を映したかった。」
佐藤聖「あなたは魅力的だ。ロサ・カニーナ。もう少し早く知り合えたら、友達になれたかもしれない。」
蟹名静「妹にはしてくださいませんの?」
佐藤聖「なりたかった?」*3
蟹名静(首を横に振って)「私は志摩子さんではありませんから。」*4
佐藤聖ロサ・カニーナ
蟹名静「静、と、呼んでくださいませんか。」
佐藤聖が口の形だけで「し・ず・か」と呼ぶ映像。佐藤聖蟹名静の唇に口づけをする。)

 蟹名静佐藤聖に抱いていたのは恋心だと思って間違いないだろう。佐藤聖もその心をじゅうぶんに汲み取って蟹名静に餞別としてキスを贈った。蟹名静は恋心は妹になることでは成就しないと理解している。理解しているのでなければ、立候補に積極的でなかった志摩子をわざと挑発して立候補を促すことなどしないだろう。佐藤聖志摩子の間にスール(姉妹)の関係がすでに成立しているにもかかわらず、その関係に割り込んで恋心を佐藤聖に伝えることは、スール制度への抵抗にほかならず、すなわちリリアン女学園の秩序全体への挑戦であり、危険な逃避行の可能性を孕む反逆行為となる。それをあえて実行するのであれば、自身は学園を去らなければならない。去ることが決まっていてこその一度きりの挑戦だったのだ。佐藤聖も去ることがわかってからのキスだったのだろう。
「秩序全体への反逆」と書いたが、これは誇張表現ではない。実際、蟹名静は学園の秩序に真っ向から挑んでおり、スール制度の欺瞞を暴いている。山百合会(生徒会)幹部は形式上選挙によって民主的に選任されるが、現幹部が個別に任命する各薔薇様の蕾たち(アンブゥトン)が次期幹部に就任することが慣例となっている。民主的とは名ばかりで、実質は個人による指名制だ。
 ここで注意したいのは、薔薇と蕾の関係と、スール(姉妹)の関係は本来無関係ということである。前者は生徒会の役職、後者は生徒個人同士の個人的な約束関係である。公的な生徒会の役職と、個人的なスールの関係が離れがたく癒着していて、誰もそのことに疑問を持っていない。選挙は生徒会幹部に信任を与えるためというより、スールは学園の秩序を守るための制度であることを全校生徒に定期的に再認識させ、内面化させるための儀式と考えるべきではないだろうか。個人関係であるスールを学園全体の制度として偽装させる機関が山百合会、そしてそれを全校生徒に確認させる儀式が山百合会幹部選挙だ。
 蟹名静は妹でもないのにロサギガンティアに立候補した。それはとりもなおさずスール制度への挑戦であり学園秩序の欺瞞の暴露だ。王様の耳はロバの耳。かくして蟹名静は学園を去った。ごく一部の人々にだけ蟹名静の反逆は記憶され、選挙が終われば学園はもとどおりいつものお嬢様学校に戻っていく。
 1期10話11話の久保栞のエピソードは多く語るだけ野暮なので、もしこのエピソードについて書くなら別の機会に主題的に取り上げるべきと思う。これはアニメを観てくれ!!!!!! と思うが、スール制度との関係性の部分だけ説明したい。佐藤聖久保栞は恋に落ちる。急速に親密になっていく間柄の2人を見て、蓉子はこんな忠告をする。

蓉子「もう少し、距離を置いたほうがいいんじゃない?」
佐藤聖「なんのこと?」
蓉子「あなたが妹にしたいなら、それでもいいわ。正式にロザリオを渡して、みんなにちゃんと紹介なさい。」

 蓉子は佐藤聖が傷つかないようにと意図してこのような忠告をしたのだが、スール制度の外で親密すぎる関係を築くことは学園の秩序を乱すことだと認識されているのも事実だろう。しかし、佐藤聖には忠告を聞き入れるつもりなどさらさらなく上の空だ。

佐藤聖(私は栞を妹にするつもりなどなかった。スールの儀式は象徴がなければ安心できない人たちがするものだと私は心の中でせせら笑っていた。)
佐藤聖(ただ一緒に居たい。それだけなのに…)
佐藤聖(栞、なぜ私たちは別々の個体に生まれてしまったのだろう。)

 久保栞以外は何も必要ない、は許されない。なぜなら卒業したその先にはどこかの家に嫁いでよき妻、よき母であることを求められるのだから。
 ちなみにここで補足だが、どこかの家に嫁いで「出荷」される以外に、リリアン女学園の女生徒にはもう一つの選択肢がある。それは修道院に入ってシスターになること。つまり男と結婚するのではなく神と婚姻する道だ。久保栞は高校を卒業したらシスターになる予定であり、2人は近い将来別れなければならない。そのことを知った佐藤聖久保栞を難じる。

佐藤聖「だったらどうしてシスターなんかに。あたしより神様を選ぶわけ?! あたしには栞しかいないのよ。あたしを見捨てるの??!!」

 この二者択一に陥ってはならない。スールの契約を交わして、かのように、安全に、恋愛ごっこを楽しむことがリリアン女学園の掟だ。
 しかし結局、佐藤聖久保栞は愛を諦めきれず駆け落ちを選択した。ところが、駆け落ちの日の夜、待ち合わせの駅に久保栞は現れなかった。彼女は学園を離れ一人で修道院に入ることを選んだのだった。スール制度からの逸脱の末、かくして久保栞は学園から去った。
 佐藤聖はどこにも行けず独り待ち合わせの駅に取り残されてしまった。いったいどこに彼女は帰るというのだろう。そこで彼女を引き戻したのは、皮肉にもスール制度だった。ベンチに座り絶望する佐藤聖を迎えに来たのは、佐藤聖のお姉さま(便宜上先代ロサギガンティアと呼ぶ)*5と蓉子だった。先代ロサギガンティアはかつて佐藤聖に伝えていた彼女をスール(妹)にした理由「顔が好きだから」だけで、スールに選んだのではないと告げる。では、顔以外の何が好きだというのか。それは先代ロサギガンティアの口からは告げられない。具体的な答えのないまま維持されるべきであるからだ。親愛とも友愛とも恋愛ともとれる関係を曖昧なまま保ち続けることがスール関係の要諦だ。ただ、だからといってその関係のすべてが偽りになるわけではない。相手への真心、思い遣りは真実だ。それを感じたのであろう、こうして佐藤聖はふたたび学園へと帰還する。
 つまるところ彼女たちの恋心は救われないのか、というとそうでもない。遠い時間を経て、『いばらの森』の著者がふたたびかつての想い人に再会できたように、『マリみて』では希望も提示される。しかしこれにも二面性がある。何十年か経たなければ、かつて愛し合った2人はふたたび出会えないのだろうか。『いばらの森』を書くことができたのは、子を育て終え、夫が死に、ようやく家庭の桎梏から解き放たれたからなのだろうか、などと想像してしまう。何十年経ってもファッキン家父長イエ制度に人を縛り続けるなんてコンチクショウ。
 ここでいままで見てきたことをまとめよう。まず前提として、リリアン女学園の女学生は良家の子女として、卒業後良家に嫁いでよき妻、よき母にならなければならないというファッキン家父長イエ制度のプレッシャーに晒されている。そんななか、スール制度リリアン女学園の女生徒たちに自らの意志でパートナーを選択し、お互いに関係を育む自由を与える。スール制度はファッキン家父長イエ制度から彼女たちを一時的に庇護し*6、彼女たちがのびのびと主体的に生きることができる空間を創出する。

 しかし一方で、スール制度は彼女たちがファッキン家父長イエ制度から逸脱して、本当にその外の世界に出て行ってしまうことをけっして許容しない。そのような負の側面も併せ持っている。蟹名静佐藤聖久保栞の事例で確認したように、マジ恋愛はかならず阻止され、マジ恋愛の成就を試みる者は学園から追放されるか、諦めてスール制度に再服従することを余儀なくされる。

 このようにスール制度は常に光と影の二面性を持っていて、『マリみて』の悲喜劇を紡いでいる。

 ただし、このスール制度が彼女たちに多くの恵みを与えていることも疑いない。他者への思い遣りの心を育み、真心を分かち合うことの喜びもスール関係は与えてくれる。そこで遣り取りされる感情が、具体的にどのような感情なのか、それをはっきりと確定させることは避けられる*7。けっしてマジな恋愛に発展はしないように絶妙なバランスを保ちながら、彼女たちはマージナルな場所に留まり続ける。それがスールの曖昧で、それゆえに内容豊かで、それゆえに、どこか哀しい関係性を生み出しいてる。彼女たちは本当に肝心なところをお互いに黙して伝える。相手に伝わっているかどうか確証を持ちきれない思いの伝達は祈りに似ていて、彼女たちはときに衝突しながら、それとなく伝わっているらしいという微かなシグナルをとても大切に受け取る。
「本作は百合が無条件に前提されているわけではない」と冒頭で述べたのは、上記のような理由による。つまり、彼女たちは百合っぽい関係性を築く自由は与えられているが、百合関係(同性の恋愛関係)をいざ成就させようとすると、『マリみて』世界が前提とするファッキン家父長イエ制度がそれを阻止しにかかる構造になっているからだ。というわけで、本作は、これも私がこの記事冒頭で述べたように「百合を成立させる条件そのものに踏み込み、その条件に拘束される人間関係を描いている」、いささか込み入った世界観を有している。

 いままで私は、『マリみて』は百合の代表作品だという印象を持っていた。その印象に間違いはないと思うが、すくなくとも百合の典型に属する作品ではない。アニメしか見ていなくて、しかもこの記事では1期しか扱っていないが、『マリみて』は登場人物たちにとって百合を成立させることがいったい何と対峙することなのかを提示し、そして百合の成就を勝ち取ることがいかに絶望的に困難であるかを提示する、チャレンジングな作品だったのではないだろうか。すくなくとも、(読者や視聴者との)お約束事としての友達以上恋愛未満巨大感情発露や恋愛に至るまでのじれったいやきもきやりとり(とそれらに付随する「萌え」*8)を狙ったものではなさそうだ。リリアン女学園はお約束事としての百合の楽園ではない。これで『マリみて』が「ソフト百合」ではない(と私が思う)ことの回答になるだろうか。

 私が最初にアニメを観た2004年から20年経過し、世の中は大きく変わった。だからこのような読解になったのだと思う。なぜかというに、これは私の個人的な所感だが、『マリみて』を観ながら、ふつうに恋愛しようや!してええやん!なんであかんのや!と素朴に思ったので。

 

 

さいごに

 今回はアニメを扱っているにもかかわらず映像表現について触れていないし、本来なら掘り下げられるべき個別のストーリーにも立ち入ることができていない。スール制度の影を見せる一方で同じ話の中で光の側面を対比させる構成であるとか、各エピソードの配置の順番の見事さとか、各キャラクターやスールの特徴と物語上の役割の噛み合い方だとか、いろいろまだまだ語りたいことがたくさんある作品だ。20年前気づかずアホだったけど、たいへんな大傑作でした。それがわかっているぶん、たいへん大雑把な記事になってしまったと自覚している。数々の取りこぼしがあるが、どうにかまたそれぞれについて書く機会があればと願う。

*1:柏木優は小笠原家に婿入りするのだから、正確には財として交換されるのは柏木優のほうなのだが、祥子も家の利益のための道具であるという点で交換財と捉えてもいいだろう。また、小笠原家は婿を迎える立場であるから、婿にも劣らない教養と品位を身につけなければならないというプレッシャーが強く働いたであろうことは想像できる。なお、柏木優の露悪的な嫌味な振る舞いの数々は自分自身が男たちの利益のための財として扱われていることへの、祥子とは対照的な反応として理解できるのだがそれはまた別の話。

*2:少しだけ触れると、蟹名静の内心とうらはらな言動が切ないが、敢えて語らないことによって相手に思いを伝える逆説は『マリみて』の真骨頂だ。伝達の可否が確証できない伝達は、もはや祈りと区別がつかない。マリア様だけが彼女たちの思いのすべてを知っている。

*3:妹になりたいんじゃないってわかってて訊くなよ!!!

*4:志摩子ポジションが望みじゃないだろ!!!

*5:声が高山みなみなのがとにかく最高。高山みなみの女性役はとても素晴らしいのです。

*6:スール制度が築く安全圏は案外強力だ。蓉子と祥子の場合のように、スールも薔薇様との関係となれば、雑用に付き合わせるからという理由をつけて家の人が強いてきたお稽古ごとをぜんぶ辞めさせてしまうことができる。

*7:彼女たちの軽口、冗談の一部が、自分たちの抱く感情の正体を一つに決定してしまわないための手段として働いている場面が作中に多く見られるように思う。

*8:死語?

老舗蕎麦屋の海老問題と食べログ文学のはなし

 今年に入ってから鍋焼きうどんの食べ歩きをしている。これを書いている1月29日時点で記録は23軒。東京では蕎麦の光が強すぎてすっかり影に隠れてしまっているが、鍋焼きうどんも東京の蕎麦屋を堪能するための素晴らしい切り口のひとつだとわかってきた。ところで、今回の記事のテーマは鍋焼きうどんではなく海老だ。鍋焼きうどんの種にはたいてい海老天が入っているものなのだが、ときどき不思議な食感の海老にあたることがある。それも老舗で。みしっとしたブラックタイガーでもなく、保水海老のようなプリっと食感でもなく、火を通しても比較的柔らかく甘味をしっかり感じるタイプの海老。間違っているかもしれないが、国産だとするならば私の見立てではヨシエビかそれに類する仲間なのではなかろうか。そしておそらく三河湾産。食べ歩きの過程で様々なタイプ海老があることに気づく。老舗蕎麦屋の海老はどういう海老なのか、どのような海老だったのか? これが老舗蕎麦屋の海老問題だ。

 鍋焼きうどん発掘の過程で食べログを漁っていると、いままで意識的に避けていた食べログ文学を読むこととなった。その書き手である彼は、情報を総合するに父の経営する会社を大学卒業とともに引き継ぎ、63歳で後継者に会社を譲り、現在68歳前後だということがわかっている。冒頭歌詞引用、店や料理と関係ない自分の過去の体験や街の描写の挿入、簡単なフランス語やイタリア語の横文字挿入とその解説等、文彩豊かなブロガーであることがわかる。その彼が、某老舗蕎麦屋の天ぷら蕎麦について、かき揚げの海老が小さいことに落胆し、海老天についても老舗たるもの尾が丼からはみ出すほどの大きい車海老を使ってほしいものだと嘆いていた。ここまでくると老舗蕎麦屋の海老はどうあるべきなのか? という新たな海老問題が発生するのだが、事実として老舗蕎麦屋で海老の尾が丼からはみ出すほどの大きい海老をずっと使ってきたのかについて、はなはだ疑問に思った。

 というのも、養蓄の技術は明治からあったようだが、車海老の完全養殖が確立されたのが1960年代のようで、海老輸入の自由化も1960年代。多種多様な海老が安価に手に入るようになったのはそれ以降だと考えられる。某店の創業は1869年(明治2年)なので、古くは東京湾で採れた天然海老のみを使用していたことだろう。車海老ではない可能性もじゅうぶんある。たとえばヨシエビやクマエビなど。みんなお世話になっているぼうずコンニャク図鑑によると大阪では車海老より好んで使う天ぷら屋もあるらしい。とすると、天然車海老で20cm以上に育つものがあるとはいえ、そして東京湾でまともに海老が捕れていた時代がかつてあったとしても、我々が親しむ海外産のブラックタイガーやシータイガーよりも小ぶりの海老のほうが一般的だったのではないか。小ぶりの海老のほうが老舗の古形を伝えているという可能性はないだろうか。根拠としては少し弱いという自覚はあるものの、したがって、老舗蕎麦屋”だから”大きい海老であるべきという主張は少々気の早い主張だろうと思われる。老舗が老舗だから大きい海老をずっと出し続けてきたというのはおそらく事実と反するだろうから。それぞれの店がそれぞれの調理と提供の仕方をしており、変化してきた。歴史の層に思いをはせつつ、いろんな分岐があって今に続く店と料理があることを理解して、それぞれの良さを味わうのがよいのではないだろうか、というのが私の提案。古形を残しているから必ず良いというわけでもないから、結局は目の前の料理のその調理法に理があるか否か、総合的に判断すべきだ。

 老舗蕎麦屋の海老問題に戻ると、おそらく蕎麦屋の海老には1960年前後で大きな転換点があったのではないかというのが私の推測だ。車海老以外にもヨシエビなどの海老を含む海老が海老天の材料として使われていて、それが60年代以降に徐々に養殖や海外産に置き換えられていった。そして大型化していった。(そして保水海老がそのあとのどこかの年代で登場する…のかな?? ここから先はリサーチ必要だから覚えていて元気があったらいつか調べます。)

 さて、先ほどの食べログの書き手は件の天ぷら蕎麦が自分の天ぷら蕎麦の評価基準に合致しないことから、焦点をつゆに移し、この店の真価はつゆにありと評価してレビューを締めくくっていた。理解できない料理に出会ったときポジティブな面を探して評価する姿勢には好感がもてるものの、私見では、某店のかき揚げや天ぷらの真価は、卵を多めに含んだ天ぷらのその衣にある。衣がつゆを含んで独特の食感と風味を生み、見事な卵料理として完成している。したがって、私の見解ではそもそも海老はその料理の中央に据えられてはいない。海老の小ささは衣の良さを前面に打ち出せるし、細打ちの麺とも相性が良い。溶けた衣も甘さのあるつゆと合わさるとぐっと引き立つじゃないか。某店が古形を伝えているとして、それを継承し続けるだけの料理としての必然性と説得力が某店の天ぷら蕎麦にはあるというのが私の理解だ。だからあの形で残った。あれをもって完成形としたい。ダメだろうか。

 天ぷら蕎麦の中心は海老であるという予断が彼のの観察眼を曇らせた。彼はこの店を天ぷら蕎麦行脚の一環で訪れており*1、その目的に沿えば、天ぷら蕎麦を海老で評価したいというのも無理ない。レビューのなかで彼は某店が「かき揚げの衣の香りをお楽しみください」とメニューに一文挟んでいることを書き留めている。過不足ない説明だ。店からのメッセージを読み、それを記述しながらなお、それを文字通り受け取ることは難しいのだ。だからこそ、目の前の料理、そして今自分がそこにいる店と向き合うことは、かくも難しいことだとわからせられる。いま私は鍋焼きうどんの食べ歩きをしているが、鍋焼きうどんで複数の店を横串で貫くことは、必ずやそれぞれの店を全体的に捉えることを阻害する。いま自分がしていることはあくまで店の一部しか捉えられない営為であることを心に留めつつ、もうちょっと鍋焼きうどんの店を回ってみたい。(テーマ縛りの食べ歩きは楽しいので止めるつもりはない。)

 

 自身への教訓として備忘

・食べ歩きの経験の長さから自分の経験を一般化してしまい、歴史的観点をはじめとする他の観点を見失ってしまうこと

・そのように形成された予断から、目の前の料理と向き合うこと、店の案内を素直に受け取ることができなくなること

 これらはいまでも起きうるし、そしてこれからはもっと起きうる料理評価のアンチパターンと心得よ。経験が増えるがゆえの落とし穴はあるよな。気をつけよ。

 それとは別に、人生ゲームをあがってしまったおじさんが誰に怒られることもなく好き放題食べ歩いて感想を公にできるって羨ましいな!!!!!!

 富・名声・力!

 

以上。

*1:自身の天ぷら蕎麦探求を彼は15世紀16世紀のルネサンス文化人の知的探求に準えている。なんたる文彩!