暖かい闇

酒と食事と過去

映画『カラオケ行こ!』感想 一人称語りの映画への翻案技法と、少年の「天使主義的心中」について

弁明
・原作映画双方のネタバレ含みます。
・むちゃくちゃネタバレします。要注意です。
・続編漫画『ファミレス行こ。上』のネタバレも含みます。
・筆者は映画より前に和山やまの作品のうち『夢中さ、君に。』『カラオケ行こ!』『女の園の星』(1,2巻。3巻未読)をすでに読んでいてファンです。
・筆者は『夢中さ、君に。』のドラマも観ています。
・漫画は手元に置いて適宜読み直してながら書いているが、映画については記憶違いがあるかもしれない、というかところどころあると思います。
・この文字数書いて書ききれないことがいっぱいある…。

 

 映画を観る前日の夜に原作を再読した。面白かった。中学3年生合唱部部長の岡聡実が、歌が上手くならなければならない特殊な事情を抱えたヤクザの構成員・成田狂児に目を付けられ、カラオケに付き合わされ、歌を教えさせられる。変声期にさしかかり合唱部の活動に不安と焦燥を感じていたところ、聡実は狂児に翻弄されるというか手懐けられるというかしてしまい、ひと夏だけヤクザの世界に急接近してしまう、というコミックス一巻完結(続編『ファミレス行こ。上』発売中)の物語。ヤクザのお兄さん成田狂児と次第に懇意になるにつれ、カラオケで組員にこぞって歌評をさせられ、そのうえすごまれたり、薬物中毒者の危ない人に絡まれたりと、客観的に判断すると聡実は次第に危ない状況に巻き込まれていっているにもかかわらず(しかもまだ中学生だからね?)(原作で聡実は汗と涙をだらだら流す表情が多い)、他の和山先生の作品にも共通する訥々とした語りのモード、特に『カラオケ行こ!』にあっては、聡実による、自分を少し遠くから観察するような一人称語りによって、受け身な主人公が違和感なく成立している。実際に起きている出来事と語りのギャップに独特の可笑しみがあって、しかも、その一人称語りは実は高校の卒業文集の文面だったことが終盤に判明するというカラクリ付き。そして、卒業文集で物語られたストーリーはひと夏の幻影だったのだろうか、と思いきや、大学のため東京に向かう空港ロビーで狂児と再会するラストの提示&狂児からの発言「カラオケ行こ!」タイトル回収で、読者にその後の2人の関係性について想像の余地を残すという、ツボを押さえたBL漫画になっている。さらにさらに、巻末の狂児がヤクザの道に入るきっかけエピソードを読むと、読者は(すくなくとも私は)聡実の将来について不穏な類推*1を働かせてしまうというオマケがついている。コミックスを買ったときに読み飛ばしていたいろんなことに気づき、あらためて読むとむちゃくちゃ面白れぇーーーという感想を胸中に抱いて翌日劇場に向かったわけです。
 映画は、面白かった。原作に負けず劣らず面白かった。というかむしろ、部分によっては原作を超え出た面白さがあった。友人諸氏も観ており、とにかく脚本が、上手い、素晴らしい、と絶賛の声。私もそう思う。原作漫画から実写映像への翻案が上手い、と言ってしまえばそれまでだが、本作は、原作を深く読解し、そこに堅実で隙のない解釈を一つ一つ与えていく、地道な労力の積み重ねが結晶してできた作品であるように思う*2。思い返せば、映画オリジナル要素は結構多いし大きいし重たいのだが、そのいずれにも必然性があったように感じる。細かい部分については今回この記事が長くなっちゃったので割愛するとして*3、ここでは、原作漫画最大の特徴(と私が思う)「聡実による一人称語り」が映画で廃された*4という変更について感想を述べたいと思う。

 映画『カラオケ行こ!』では、なぜ聡実による一人称語りが採用されなかったのか? 聡実による一人称語りの替わりに、どのような仕掛けが施されているのか? そしてその変更は、原作の一人称語りのたんなる代替物なのだろうか? たんなる代替物に留まるのでないとしたら、原作との差分、つまり映画の独自性はどこにあったのか? そしてそれがどんな意味を持つのか? というところまで書きたい。

 

なぜ聡実による一人称語りが採用されなかったのか? 
 どうしても推測するしかない部分もあるが、その理由を考えたい。2点ある。
 まず、一般論として、漫画とか小説の一人称語りは、そのまま映画に輸入しないほうがいい。映像であるならば、やはり画で見せるのが正道だからだ。したがって、積極的に一人称語りを採用しなければならない理由がなかったのではないか。
 つぎに、原作の一人称語りは先ほど触れたように高校の卒業文集に書かれた、という建付けになっており、高校3年生時点から振り返っているという構造が映画における一人称語りの導入の阻害要因になったのではないだろうか。合唱コンクールの時期に変声期に差し掛かり、上手く歌えないのではないかという不安を抱える少年が、ひと夏、ヤクザのお兄さんに急接近してしまう、原作も映画もそういう物語だが*5、その少年のひと夏のまことしやかな体験談を、声変わりをとうに終えた高校3年生の青年が語り直す、というのが原作での一人称語りのモードだ。これが漫画であればある種の叙述トリックとして働く。四角枠で囲まれた一人称語りの聡実の声と、スピーチバルーンで発話される聡実の声は違う声だったのだ、ということが終盤で明かされ読者は驚くという寸法だ。ところが、これを映像で実現しようと思うと、一本の映画を撮影するために聡実役の俳優の声変わりが完全に完了するのを待つわけにはいかないし、あるいは、たかが3年の差で別の俳優を起用すれば、視聴者に不必要な混乱を生じさせるリスクを負うことになる。したがって、実写映像化に際し、そもそも主人公一人称語りが採用しにくい事情があったのではないかと推察される。

 

聡実による一人称語りの替わりに、どのような仕掛けが施されているのか?
 とはいえ、一人称語りを放棄すると主人公の心情を自分で語らせることができなくなるため、主人公の心情変化を伝える手段を別立てで用意する必要が生じる。本作映画では、主に以下の2つの仕掛けが一人称語りの替わりの役割を果たしていたように思う。①原作で多く描かれなかった合唱部の部活動パートの充実、②聡実の手による「紅」の歌詞の和訳、である。
 先に議論の前提として、一人称語りによる心情説明の一部を原作から確認したい。原作コミックス1/4くらいのところで、変声期に思い悩む聡実の心情と、そんなセンチメンタルな聡実の心にずかずかと踏み込んでくる狂児の様子を、聡実自身が語ってくれる箇所がある。以下の語りは、合唱部の木村先生にソロパートを任され、その直後すかさず、木村先生がもしものとき(聡実の声が出なくなったとき)のために和田を代理に指名したあとの場面である*6

ついに僕もアレを迎えてしまいました。/変声期というやつです。/最近になってとうとう声がかすれ、高音が出にくくなってきました。/成長期の1つにすぎませんが、僕にとっては大事件です。/必死にごまかしながら歌っても先生にはわかっていたようです。/自分の声に裏切られたような気分でした。/つらいです。/だからヤクザの面倒を見る心の余裕なんてないのです。/それでも狂児はやってきます。
『カラオケ行こ!』p.37,38

 ここで聡実は、声変わりが自分にとっての「大事件」であることを自ら読者に教える。

 この次のページからシーンが変わって、道端で学校行事のいちご狩りに向かう聡実を見つけた狂児が、半ば強引に、ヤクザが集まるカラオケルームに連れていく場面に転換する。そこで聡実は、歌の練習をするヤクザ連中に正直に歌の評言をするように強いられ、その結果、ヤクザの一人を怒らせてしまい怖い思いもする。しかしここで重要なのは、狂児が強引だったとはいえ、聡実自身が学校行事をサボって彼に付いていく選択をしたとも考えられることだ。このことから、自分の声の変化に対する戸惑いが先にあり、その心情を前提として、ヤクザの狂児に接近する導入となっていることは明らかだ*7。すなわち、いくぶん単純化してしまうと、ここで「声変わりに端を発する学校内の問題から逃げる → 狂児に接近していく」という図式が聡実に成立したのである。クライマックスで聡実は、合唱部から逃げた先で別の勝負に挑むことになるのだが、そこに向けての舞台装置がこうして準備されるわけだ。声変わりについての思い悩みが狂児に接近する導入になる点については読者側の読み込みが必要なものの(ただし、一人称語りは主人公による直接的な心情説明を可能にするものの、その語りを額面通り受け取ってよいかどうかは別問題である。ここでは、いちご狩りをサボった聡実側の選択については語られない。この語り手の信頼性については後述。)、聡実が抱える課題が一人称語りよってはっきりと言葉で提示されるため、物語を転がすための前提条件(声変わりに対する不安が行き場を探している)は容易に読者と共有される。
以上、原作における一人称語り心情説明と、それによって物語展開の前提が準備されていることを確認した。
 では、映画ではどうだろうか。映画では、合唱部パートを詳細に描くことで聡実の抱える心理的課題を観客に伝えている。彼を取り巻く人物との対比によって、状況を通して、彼の抱える屈託の輪郭がはっきり見えてくるようになっていると思われるのだ。
 映画ではどうやら、聡実の所属する合唱部は名門合唱部で、前年までコンクールで2年連続金賞を受賞する強豪のようだ。ところがその夏のコンクールでは銅賞に転落し、全国大会出場を逃す*8。原作の木村先生は映画で名前しか登場せず、産休育休で長い休みに入っていることが聡実と和田の会話で伝えられる。木村先生は映画では合唱部を2年連続金賞に導いた名指導者のようだ。その代わりに芳根京子演じるモモちゃん先生が合唱部の指導を担当している。
 大会後の放課後練習の場で、銅賞受賞について、芳根京子演じる顧問のモモちゃん先生と、2年生で聡実の後輩にあたる和田で意見が対立する。和田は金賞が獲れなかったことが悔しく、何がダメで、どこが改善点だったのか先生を問い詰める。先生はあっけらかんと、よくがんばったとみんなの努力を労う。3位入賞かて立派やで、技術も申し分ないし、声も出ていた、みんなはがんばったよと。それで納得しない和田に対して、強いて言うなら愛が足りなかった、歌は愛やで、と言い放つ。和田は納得せず、やがてその苛立ちは、狂児とのカラオケにうつつを抜かし(もちろん和田はそんな事情を知らないが)部活を抜け出したりまともに歌わなかったりする部長の聡実に強く向けられるようになる。
 モモちゃん先生にとってコンクールは来年も再来年もまた巡ってくる年中行事で、この学年でなんとしても勝たなければならいという気負いがない。明るく楽天的、は美点であるが、その明るさはかえって、3年しかない学生生活の生徒本人たちにとってのかけがえなさを等閑視する態度に繋がる*9。そしてその鈍感さにより、彼女は聡実本人にとっての声変わりの切実さにまで思いが至らない*10
 一方で和田は、過去2回、金賞に輝いた栄光の部で、聡実が部活動に不熱心な様子なのが許せないようだ。合唱部として、みんなで、努力して高みを目指したいと思っている。だがその熱心さによって、和田は、聡実が声変わりで悩んでいることに思いが及ばない。自分を含むみんなにとっての青春には熱心だが、個々人の身体に不可逆な変化がやってくるのだということも、その変化がもたらす帰結(聡実の場合はソプラノの声を一生失ってしまうこと)にも彼は気づいていないようなのだ*11
 先生も和田も過剰なところと不足しているところがあり、それらと聡実との対比によって、聡実の抱える課題がはっきりと浮かび上がる。声変わりによってソプラノ音域が上手く出せなくなってしまうのではないかという不安。たった一回の移行期間で、いままで出せていた音が一生失われてしまう不可逆性に対する恐怖*12。そして本人にとってのその切実さ。しかも、それは本人の努力ではいかんともしがたい性質のものなのだ。
 それをいまいちわかっていなくてもっと頑張らなきゃ、みんなも頑張るべきだ、と考えている子供な後輩。そして、不可逆な変化があってもそういうのは乗り越えられるしいつか思い出になるよくらいに考えているであろう大人な先生*13。和田のボルテージが上がって対立が鋭くなるほど、聡実は部活から離れていき悩みを深めていく。どうしたらいいかわからなくなって、部活から逃げ出し、狂児のもとに走ってしまうきっかけを作るには、じゅうぶん説得的な配置ではないだろうか。このようにして、映画においても「声変わりに端を発する学校内の問題から逃げる → 狂児に接近していく」という図式が構築される。
 以上のように、映画では合唱部パートの人物造形とその関係を丁寧に描くことによって、それら人物との対比対立を通して、思春期固有の身体の変化に由来する聡実の屈託の内実を、独白なしに鮮明に浮かび上がらせるのである。合唱部の人物描写の充実は、聡実の一人称語りによって説明されていた心情を別の手段で実現しているという意味で、一人称語りをいわば機能面において代替していると言えるだろう。
 次に、聡実の手による「紅」の歌詞の和訳が本作映画で果たした役割についてみていこう。映画ラストでは、聡実が読み上げる「紅」の和訳のナレーションを背景に、狂児が去った街の中を聡実が訪ね歩く。これはぜひとも実際に映画を観てほしいが、その彼の行動が見事に和訳の歌詞と一致し、彼の心情が「紅」の歌詞和訳に仮託されて表現されている。彼が語るのは「紅」の歌詞和訳であることから、これを彼自身の純粋直接な心情語りとすることができないものの、歌詞和訳に彼の心情が重ね合わされることで間接的に主人公の一人称語りを実現するという仕掛けになっているのである。さらに、歌詞和訳最後の大阪弁イントネーションで発音される「ぴかぴかや」の一言に、まるで原作の語りのどことないおかしみ(これは他の和山作品にも共通するテイスト)のニュアンスが代表されているようで、こんなに原作愛が凝縮された翻案ってありえるんだろうか、と舌を巻いた。
 「紅」の歌詞和訳は、機能面で一人称語りの代替になっているというよりは、歌詞和訳を使って主人公の心情を仮託させ、一人称語りに近しい(というかほぼ一人称語りと言っていい)語りを映画に招き入れる仕掛けだったと言える。

 

原作の一人称語りのたんなる代替物なのだろうか?たんなる代替物に留まるのでないとしたら、原作との差分、つまり映画の独自性はどこにあったのか?
 先に確認した一人称語りの代替となる①部活動パートの充実、②聡実の手による「紅」の歌詞の和訳、は原作の一人称語りのたんなる代替物なのだろうか? 代替手段の導入により、結果、当然ではあるが、原作と異なる映画の独自性が発揮されているように思う。①②それぞれについて、原作と映画の違いを検討したい。
 ①部活動パートの充実、その中でも和田の対立心とモモちゃん先生の無神経は、聡実にソプラノとして上手く歌わなければならないという強い規範意識を植え付ける。しかし、声変わりという本人の努力ではいかんともしがたい事態によって、その規範の履行に危機が訪れる。ソプラノとして上手く歌いたい、歌わなければならない、しかし、できないかもしれない、自分の意志や努力ではどうしようもない部分がある、というジレンマは原作でも示される心理的課題だが、これが人物同士の対立という形で顕在化しているため、原作よりもはっきりとわかりやすく提示されており、それだけでなく、顕在化しているがために実際に解決しなければならない課題として立ち現れる。これは原作とは大きく異なるところだと言える。
 原作において、和田は聡実と激しく対立する人物ではない。むしろ、聡実のことを慮っていさえする。原作pp.68-71で、外階段で一人練習する聡実のところに和田がやってきて、声を出すのがきつそうだからソリのパートを代わりましょうかと提案、最後の舞台は楽しく立ってほしい、苦しい顔で練習しないでも、無理をしないでほしい、と話しかける。それに対して「ええってもう」ときつめに返答するのは聡実のほうだ。このやりとりのあと、「和田の言うとおりでした。/練習すればするほど苦しいのです。」と、聡実の一人称語りが続く。原作の和田は、聡実の声の異変とそれによって苦しんでいる聡実に気付き、聡実にとってより良い方を考えた上で声をかける人物であり、映画の人物造形と大きく異なる。
 ここからわかるように、映画で和田が聡実と対立し物語を展開する力となっているのとは異なり、原作では他ならぬ聡実自身が自分の心理的課題をどんどん膨らませる張本人となる。原作における聡実は自身の感情についていくぶん自己完結的だ。自分自身の問題を自分自身の語りによって大きくさせていくこの展開は、表現として、聡実の一人称語りがなければ成立しない。一人称語りによる描写を省略する紙幅の経済面の効果や狙いもあるとは思うが、語りの力によってある種の正常化バイアスが働くため*14、主人公に受け身な性質が付与され、ヤクザとの奇妙な交流という異常事態がなぜか成立してしまう。
 さらに、ヤクザにかかわって中学生が危ない目に会うという異常事態よりも、声変わりの個人的問題のほうが本人にとって重大事になるというような逆転現象も発生する。これは、原作を読んだ人なら強く印象に残っているであろう、お守り投げつけシーンにおいて最も顕著に表れる。
 合唱祭が近いことからお互い個人で練習すること提案した聡実は、合唱祭が近づくにつれ不安が増していく。自分から会わないと提案をしたにもかかわらず、合唱祭の前日、ここに行ってはならぬと狂児から渡された手描きの地図を頼って、狂児を探しに街の治安の悪いエリアに来てしまう。そこで聡実は薬物中毒者の元組員に絡まれ、たまたま通りがかった狂児に助けられる。お守り投げつけシーンはそのあと、狂児が聡実を家の近くまで送る車中での出来事だ。
 その車中での聡実の一人称語りでは、一人語りによって彼の感情が増幅されていく。

このときなぜか僕はイライラしてどうしようもなかったのです。/なにをしてもうまくいかない苛立ちか、自分の未熟さや浅ましさに情けなくなったのか、ワケもわからず腹を立てていました。/涙も出そうになりました。/それこそ幼稚で甘えだと、更にイライラは募るばかりです。
『カラオケ行こ!』p.87

 彼の感情が増幅されていってると読者が解するのは、彼がそのように語るからだ。

 そのあと、狂児が「聡実くんも明日がんばってな/俺も頑張るから/言うて必死さは全然ちゃうねんけど/聡実くんはのほほ~んと歌いや」と語りかけると、聡実がブチギレ声を荒げて怒る。そしてお守りを投げつけて車を降り去っていく。歩いて帰る聡実の一人称語りは続く。

なぜあんなにも感情がこぼれてしまったのかわかりませんでした。/でもワケもわからず涙がでることってあるじゃないですか。/自分だけ可哀想な気分になって、悲嘆になってひねくれて/今思い返せばアホみたいです。
『カラオケ行こ!』p.90

 彼は自分の語りで増幅させた感情が大きいものであったことを認めつつ、これまた自分の語りでもって、読者に同意を求めながら鎮めていく。

 しかしちょっと待ってほしい。直前のシーンは聡実がヤクザにかかわったせいでとても怖い思いをするという場面だ。薬で頭のネジがはずれてしまった元組員に連れていかれようとするところ、狂児がバッグでこめかみを殴打し、殴打したところから血が噴き出し、人が倒れる。狂児に助けられた負い目があったとはいえ、冷静に考えれば、直前の出来事が怖かったとかなんだとかいうことについて泣いたり怒ったりしそうなものだ。しかしそれよりも、狂児を探しに危ないエリアまで行ったのにその狂児が自分の深刻な問題に対して「のほほ~ん」などと見当違いなことを言ったことに対し、聡実は感情を動かし激昂する。ヤクザにかかわったことで発生した異常事態は容易に看過され*15、それよりも聡実の個人的な問題がフォーカスされる逆転現象である。これは中学生らしいといえばらしいのでリアリティがないかといえばそうでもないが、たしかに語りの効果によって実現されていると言えるだろう。
 聡実は成田狂児に翻弄されていく受け身型主人公の人物造形となっていて、自分自身の語りによって、個人的な出来事に対しての感情を増幅させ、狂児への想いを強くしていく。原作では一人称語りが物語の推進力として機能するのだ。そして、高校3年生の時点から語り直されるひと夏の狂児との思い出は、一人語りをしている時点で、すでに本人の中でなんらかの決着がついているものとして読者に提示される。すなわち、彼の心理的課題の解決がどのように行われたのかは主題化されなくてもいい、ということになるし、それによってことさら読者が不自然に感じるとも思えない。むしろ読者には想像の余地が残って良いとさえ言えるかもしれない。
 それでは映画に戻ろう。すでに説明したように映画では一人称語りを推進力に使えないため、和田というカウンターを用意し、彼との対立により聡実の心理的課題を浮き彫りにし、物語を展開していく。だが、この対立は現実に人物の対立として顕在化しているために、聡実の心内で自己完結することができず、明示的解決が要求される。では、彼の問題はどのように解決されたのだろうか?
 聡実は合唱部から逃げて狂児に接近していき、ついに合唱部の練習をサボって、放課後、映画を観る部で過ごすようになる。そこに和田が乱入し、練習サボって何をしてるんですかと聡実に怒りをぶつける。そして流れから、映画を観る部の、巻き戻し機能が使えなくなってしまっている古いビデオデッキを壊してしまう。ここで和田と聡実の間の緊張は頂点に達する。聡実は果たして部活に戻れるのだろうか、と思っていると、聡実はビデオデッキが壊れたことに責任を感じていたのであろう、漫画では狂児を探しにやってくるヤクザ事務所がある治安の悪いエリア(映画ではミナミ銀座という名前)にある中古屋に、ビデオデッキを探しに来る。そこで薬物中毒者に絡まれ、狂児登場、バッグでこめかみを殴るという展開は原作漫画と一緒だ。
 そのあと2人はミナミ銀座を見渡せるビルの屋上に移動する。そこでお互いの決戦の日(合唱祭とヤクザのカラオケ大会の日)が一緒だということを知る。聡実が語りだす。もうこれで中学の合唱部で歌える機会も最後なのに、出られそうもない、上手く歌えない、もうソプラノが綺麗に出ないから、と心の内を狂児に吐露する。そこでの狂児の言葉が聡実にとって決定的となる。「アホやな、綺麗なもんしかあかんのやったら、この街はおしまいや」(という感じのセリフだったと思う)。聡実はこの言葉をかけられて嬉しそうににやける。ソプラノの声を綺麗に出して上手く歌わなければならないという彼を縛っていた規範が、ここで解除される。こうして彼はまた部活に戻っていく決心をする。
 彼の心理的課題は上手く歌わなければならないという規範に由来していたのだから、この狂児のセリフをきっかけに彼の課題は解決した、と言ってしまっていいのだが、これはいったいどのような解決だったのだろうか? 狂児の言う汚いものがないと成り立たない「この街」とは、屋上で見下ろした街である。そこはどこか? ヤクザの事務所があって、薬物中毒者が中学生に掴みかかり、ヤクザが集結してカラオケ大会を開くスナックがある街だ。聡実の心理的課題の解決は合唱部の外からもたらされるが、その出所には注意したい。彼は合唱部の内部で葛藤して自分の問題を解決したのではない。ヤクザのほうに軸足を置いて、合唱部の外に立って外から合唱部を眺めることで解決を図ったのだ。狂児は屋上のシーンで、ついに聡実を堕とすことに成功したとも考えられる(それを無意識に行っているあたり、魔性のヤクザ成田狂児なんだよな)。
 映画にもお守り投げつけシーンがあるのだが、聡実が激昂した対象が原作とは異なることに注意されたい。
 映画で聡実は狂児の言葉に勇気づけられ、合唱部に復帰する。納得がいかないのは和田だ。謝る聡実、納得いかない和田、仲裁する副部長の中川、三つ巴の口論が繰り広げられ、それを狂児が校門の外、黒塗りの車の中から眺めている。中川が狂児に気づき、聡実に行くよう促すと、いったん和田と中川は教室に帰り、聡実は校門の外の狂児のもとへと歩いていく。そこで狂児は「そらお年頃の男の子女の子やもんな、聡実くんも隅におけませんな~」(てなセリフだったと思う)と何の気なしにからかうと、聡実が激昂して罵詈雑言を言い立てる。「どうせあれやろ、くだらん想像してたんやろ、ちゃうわスケベなアホカス、狂児のドアホ!!」(てな感じだったはず)。原作での怒りの対象は、合唱部での不安を汲み取ってくれなかったことに対してだったが、映画での怒りの対象は、合唱部の女の子と恋愛関係にあることを邪推されたことに対してである。このシーンはヤクザの世界と学校の世界とで見事な対照をなしていて、聡実はヤクザの世界の視点を自分に導入することで合唱部と向き合う勇気をもらい学校の中にいるのに、狂児はその聡実を自分たちヤクザとは違うほのぼの青春学校ストーリーの一部として眺め、解釈する。そのことに対する聡実の怒りなのだ。同じ風景を見ている、あるいは聡実が見たいと思っている当人に、自分とは違うと拒否され、裏切られたことに激昂したのだろう。そしてお守りを投げつける。
 原作では、狂児と会わなくなって3年が経過した高校3年生卒業式時点から過去を省みて語られ、もうヤクザとの関係が断たれていることが示唆される(がラストにまた再開するんですが……)。一方映画では、ヤクザの世界に軸足を置いて別のものの見方を獲得することで心理的課題を解決し、合唱部に戻る決意をさせている。原作との違いは、映画のほうがずっとよっぽど聡実は不安定、ということだ。永遠に失われてしまうことが決まっている美声がいっそ失われてしまうなら、ヤクザの道に進んでもかまわない。彼は将来、狂児を追いかけてヤクザの道に進んでしまうのではないだろうか、とハラハラさせられる。
 このことは②聡実の手による「紅」の歌詞の和訳にも認められる。
 ②聡実の手による「紅」の歌詞の和訳の登場と、ラストシーンまでの流れを整理しよう。狂児と2回目にカラオケに行ったシーンのあと、聡実を自宅近くまで送る車中で、「紅」には「カズコ」の思い出が詰まっとんねん、と話す。そのあと映画を観る部のシーンで聡実は「狂児も「カズコ」の瞳に乾杯したんかな」と「カズコ」を想う狂児の気持ちに思いをはせる。それがなんなのかわからないまま、合唱部でソロパートの代理に和田を立てられるなどして、より一層合唱部から距離を置くようになった聡実は、再び狂児とカラオケに行く決心をする(本作映画2度目のタイトル回収、聡実の側からの「カラオケ行こ!」)。何度も狂児とカラオケに行くシーンが続き、ある日、聡実はカラオケボックス「紅」の歌詞を和訳する*16。大事な人が自分のもとから去ってしまって、その人の幻影を追い求めてしまう、そして心が紅に染まる、そんな歌であることを聡実は知る。「えらいこっちゃで~」と狂児。狂児が愛した「カズコ」がもういなくなってしまって、だからこの歌に狂児が拘っているのだろうと聡実は思い込んでいたが、実は「カズコ」は狂児の母親の名前で、女除けに「カズコの思い出がつまっている」などとデマカセを言っていたのだと種明かしされる。そしてヤクザカラオケ大会で紅を歌う聡実、ラストシーンで歌詞和訳を背景に、いなくなってしまった狂児を訪ねて街を彷徨う聡実に繋がっていく。
 歌詞和訳は以下のような推移で最終的に主人公の一人称語りへと変身する。
① 狂児 → カズコ
② 聡実 → カズコ
③ 聡実 → ∅
④ 聡実 → 狂児
 狂児には過去にカズコという想い人がいた、と聡実は思っている(①)。聡実は狂児の気持ちを知るために、歌詞和訳を通して狂児からカズコへの想いを知ろうとする(②)。だがカズコなどという人物は想い人ではなく虚偽であった(③)。聡実は歌詞のとおり狂児を追いかけてカラオケ大会に出場し「紅」絶唱*17、ラストシーンで狂児のマボロシを求めて街を彷徨う(④)。
 お分かりのように、カモフラージュしているようで、これじゃもうほとんどその感情が恋慕であることを暴露しているようなものなのだが*18、重要なのは、この(疑似)一人称語りは現在の聡実の心情をそのまま語っているものでしかありえないということだ。
 原作の一人称語りは、何度も繰り返しになるが、3年後の高校3年生になった聡実からの振り返りの語りだ。しかも卒業文集である。想定される読者は高校の同級生だ。それゆえに、敢えて語っていないこともあるだろう。ヤクザとの急接近などというにわかには信じがたいまことしやかな話としてそれは語られる(同級生の女子による「あれほんまかなあ」というセリフがある)。卒業文集という媒体であることから、仮に聡実が狂児に対して恋心(かそれに近しい感情)を抱いていたとしても、それが語られることはないだろう。卒業文集であるがゆえに多くの語り落としが原作にはあると考えるべきだ*19。この語り手を100%信頼するわけにはいかない。
 しかし他方で、映画においては、和訳をしたのも、歌詞和訳が語られるのも、その夏(~秋)の同じ時間の枠内である。だからそれが心情を表すとするなら映画内で流れる時間のその今の感情であることになる。また、これは状況から判断して(歌詞の内容と行動が一致していることから判断して)、歌詞和訳の語りは聡実から狂児に宛てられた手紙(ラブレター)だ。以上により、「紅」の歌詞和訳は現在の聡実の、狂児に対する感情を告白する一人称語りであり、原作の一人称語りとは大きく性質の異なるものになっていると言える。原作では覆い隠していた部分を、映画では全面的に暴露してしまっている。
 そのことにより、聡実の身分の不安定さが強調される。歌詞のとおり、その後彼は狂児を追い求めて行ってしまうのではないだろうか。映画では、映画を観る部の部員が卒業文集の真実性に疑義を呈する女子高生の役割を担っていて、狂児との体験を「幻やったんちゃう?」と要約しようとするので、聡実が現実に連れ戻される希望は残されている*20、と思いきや、すぐに裏切られる、しかもエピローグでも裏切られる。おい。ここで完全に縁が切れていたら、すなわち、映画を観る部の部員の言うように、ひと夏のマボロシで終わっていたら、少年が異世界に迷い込み、成長して帰ってくる成長譚で終われたはずなのに、そうはならない。やはり聡実の将来についての不穏さがそのまま放置されてこの映画は終わる*21

 

映画の独自性がどんな意味を持つのか?
 以上確認したように、原作がその語りにより覆い隠していたこと、語らず読者の想像に委ねていたことが、映画では暴露される。ヤクザのお兄さんが、中学生を籠絡し、反社の道に引きずり込む、という物語である。しかもその中学生を実在の思春期の俳優が演じるのだから、映画のほうがずいぶん危なっかしいことになっている。
 原作は漫画だし、BL作品というジャンルの文脈に乗せれば、ヤクザと中学生の関係もよくある「設定」として流せるかもしれない。しかし、実写映画にするとそういうわけにもいかない。そこでもって、本作映画はそこをマイルドにしたりすることなく、むしろ原作の語りの距離感によって覆いがかけられていた部分を取っ払い、さらなる先鋭化を施し、その危うさ提示してみせる。
 ところで、映画の聡実は部活の中だけで自分の問題を解決できなかったのだろうか? おそらくできないことはなかったと思われる。最終的に合唱部から逃げることになっても、挑戦することになっても、そのとき綺麗なソプラノボイスが失われていても、自分のポジションが他人に奪われていても、どの帰結であれ、彼は先に進めだだろう。なぜなら、彼の周囲の人物はみんないい人だからだ。モモちゃん先生は多少鈍感だが、先生として間違った采配をしているわけではない。彼の味方になってくれる副部長もいるし、母親も父親も彼の意見を尊重し、見守ってくれている。映画を観る部のあいつも聡実に逃げ場を用意してくれている。和田だって、ちゃんと話せばわかったはずだ。よい友人、よい指導者、よい両親に囲まれている。
 ここから私は2つのことを思う。
 ひとつには、周りの大人は他にできることはなかったのだろうか?ということだ。聡実にもう少し踏み込む人がいたら、何か変わったのではないか。本作映画は大人の観客に向けて、大人として我々が襟を正さなければならないことがあるだろう、というメッセージを発信している(というように私は受け取った)。
 もうひとつは、青少年の持つ危うさの普遍性である。これは思春期に限らず広く青少年期の若者に共通すると思われるが、あとから振り返って、どうしたってどうやったって取り返せないものがある。今回の映画ではそれはソプラノの声だし、その喪失と並行して聡実が狂児にどうしようもなく傾倒してしまった経緯全体である。このような青少年のいかんともしがたい危うさは、多くの人にとって自他ともに見聞き経験したことのある普遍的なことではないだろうか。聡実がヤクザに接近することをいったい誰がどのようにどの時点で止めることができただろうか。できたかもしれないが、漏れ落ちることがある。映画の聡実の周囲にいる人物の中に、明白に悪手を打っている人間がいるとはやはり私には思えない。それにもかかわらず、ときにふとした拍子で若者が転落していってしまうという現象は、そのすべてを防ぐことは到底できず、いつの時代にも起こりうる普遍的な現象であるように思える。

 映画のとある場面で、狂児は聡実の声を「天使」と評した。

 (じゃないほうの)アドラーは『天使とわれら』(稲垣良典訳、講談社学術文庫)で、パスカルの「人間は天使でもないし、けだものでもない。不幸なことに天使のように振舞おうとする者はけだもののように行動してしまう。」という言葉を紹介し、加えて人間は、自分が天使と似ても似つかぬ存在であることを理解しなければならないと強調する。人間は天使と違い物体性を有するがゆえに、知性は知覚や記憶や想像に惑わされ、意志は情念に揺さぶられ、さらに時間的に有限の死すべき個体である。そうであるにもかかわらず、人間が肉を持つゆえに科せられる様々な制限がさも存在しないかのように錯誤する誤謬を、彼は「天使主義的虚偽」と呼んだ(4部9章)*22

 聡実は声変わりという避けられぬ身体変化が避けられぬことを当然知っている、そのくらいに聡い少年である。人間は天使になることはできない、それならいっそ、成長とともに永遠に失われてしまうこの声を道連れに、地獄まで狂児と一緒に行こうじゃないか*23。聡実本人にとってはそうすることが必然としか思えないような思い込みが働いていたこととだろう。不可逆な身体変化とともに今までの自分をも否定し、まるごと棄却してしまわなければならない*24と思い込んでしまうのは、人間が天使でないことを許容できないことに由来し、その点で、この思い込みは天使主義の一つのバリエーションである。この誤謬にもとづく彼の行動をモーティマー・アドラーの「天使主義的虚偽」になぞらえて言えば、聡実の危うい狂児への傾倒は「天使主義的心中」である。永遠に失われてしまうのであれば、それ以外のすべてもいっしょにかなぐり捨ててもかまわない、いやむしろ、本人にとってはそうしてしまわなければならないと考える他なかったこと。自分の美声を殺してでも、死んだ*25狂児に成り代わって「紅」を歌うのだという決断は、彼の「天使主義的心中」であった。

 喪失することが不可避である自分の可能性と離別し、どのようにしても実現することがなかった自分を殺すこと。その苦々しさを引き摺って進むのが大人であり、その苦々しさを引き摺り続けることが青春の正体である。たいていの場合、人はそれでも生きていく。なぜなら、そもそも人間は天使ではないのだから。だが、それを受け入れられないとしたらどうか。青少年の魂の器はあまりに心もとない。大人は今現在の自分を過去の自身の数々の選択の結果であると知るし、選択が許されなかった過去ついても、運命を受け入れ、自身の意志によるさらなる選択によって過去を塗り替えていく術を学ぶ。しかしはたして、年を取った(当方現在33歳)者どもは、かつて自分がどのようにして青少年期の危機を切り抜けたのだったか、覚えているだろうか?*26 不可能以外の方法ではありえなかった、消えていったもう一人の自分に思いを馳せることができるだろうか? 聡実の「天使主義的心中」を、ただたんに虚偽にもとづいて極端に走る愚かな行為だ、とだけ指摘して片づけてしまうことは、簡単なことではない。本作映画では聡実の将来を不穏なまま開いておくことで、青春期の誤謬が避けがたく、そこから発する行為の愚かさもときにいかんともしがたいものであることをまざまざと提示してみせた。すくなくとも私にはそのように思えた。

 その点で、映画が原作への強い批評になっていると思ったので記しておく。お約束の部分がお約束では済まされないと再提示したこと、そしてそれが若者にとっての普遍的な主題を扱うものであること。このことは本作映画の素晴らしさの一部を担っていると私は思う。

 最後に、あらためて、そもそも悪い方向に進まないようになんとかできなかったのか。やはり大人は考え行動し続けなければならない*27。さらに、転落した若者がいるとして、その若者を救うには、こちらからアウトリーチしていなかないとどうにもならないし、アウトリーチしてもどうしようもないことも多いが、やはりそれでもやらなければならないことがある。最後の最後に、教訓話みたいになってしまったが、大事なことだと思うので。

 

 

以上。

 

*1:聡実も将来ヤクザの道に進んでしまうのではないかという類推

*2:というかこのレベルの翻案がサラリと作られたものであってたまるか

*3:いろんな仕掛けがいっぱいある。ほんとは忘れないように余さず書いておきたい。

*4:全編に亘る一人称語りのモードが採用されなかったことを指す。映画を観た方には明らかだろうが、映画ラストに一部一人称語りが採用されている。しかしこれも純粋な一人称語りというわけではなく、別のモードを設定したうえでの間接的な一人称語りの導入となっている。後述。

*5:原作の時間スパンは梅雨から8月11日の合唱祭まで、映画はおそらく9月上旬から10月中旬までなので「ひと夏」とするには少し時期がズレるかもしれない…、けど便宜上ひと夏でいかせてくれ。

*6:原作で、ソロパートを指名されたとき聡実の表情は気恥ずかしそうにしながらも嬉しく感じていることが読み取れる。そのあと、和田がもしものときの代理に指名され、しかも「声がでんようになったりしたときのための」と先生が言葉を繋ぐと、その次のコマで聡実はスピーチバルーンで「………」と無言になり、うつむきがちになる。細かいが、ここでの3コマ、先生の目から光彩が消え、2コマ目では口元が隠れ、3コマ目では眼鏡のフレームで眉毛と上瞼が隠されている。和田の代理指名の説明をする先生がどんな表情でそれを言っているのか直視することもできない聡実の落胆の心情が伝わってくる。

*7:聡実が狂児とはじめてカラオケに行く場面、原作p.25で、「紅」を歌った狂児に率直な意見を求められ「終始裏声が気持ち悪い」と述べる聡実がここで繋がる。変声期前ならば裏声でなくとも歌えるであろう歌を、裏声で歌う大人(でヤクザ)に対する複雑な気持ちがあったことだろう。そしてここは漫画を漫然と読むだけだと読み落としてしまうだろう箇所(なぜなら漫画は音を出さないので)で、映像化によって鮮明になるところだろうと思う。

*8:コンクールの会場で和田になぜ負けたんでしょうかと問われた聡実は自分のせいじゃないかなと答えるが、この発言は映画序盤の時点で聡実が自分に変声期が始まりつつあることに気づいていたことを匂わせている。

*9:この先生を芳根京子が演じるってとこがよかった。芳根京子というと明るく前向きな人物を演じていることが多い印象があるが、芳根京子がスピンオフで学生や新米教員時代を演じたら、きっと持ち前の明るさと楽天主義で逆境を乗り越えていく主人公だったと思う。芳根京子だから、明るい人間が悪意なく生み出してしまう無神経さのリアリティが出ていたと思う。

*10:ただこの先生が教師として失格だとは私には到底思えなくて、基本姿勢として生徒の自主性を重んじ、管理して自分の思い描く方向に生徒を指導するようなことはしない。さらに、管理者の立場としても、もしものときのために和田を補欠に立てるという適切な対処を行っている。至極まっとうに仕事する教師に思える。

*11:だから同合唱部の女子たちからはやれやれ子供だな、という目線を向けられる。それも和田にはわけがわからなくてさらに苛立っちゃう。

*12:映画を観る部のビデオデッキがなぜか巻き戻せなくなっているのは、聡実の変化の不可逆性と並行関係にある。

*13:ここで、じゃあ副部長はどうなの?と思うだろう。おそらく、副部長は同い年でありながら先輩であると言える。聡実、副部長、和田トライアングル/それを眺める狂児のシーン(その後に聡実によるお守り投げつけシーン)では、「生理現象」の「生理」の意味について聡実と副部長で認識の齟齬が発生していたことから察せられるように、本作映画では男性の声変わりに女性の生理が第二次性徴期の不可逆な身体変化として対置されており、その意味で副部長は聡実の先輩である。だが、彼女はなにかにつけ聡実の擁護者となるが、聡実の理解者にはならなかったようだ。月並みな説明になるが、学校の男子と女子の隔たりによるものだろう。

*14:原作の語りは高校3年生時点から振り返って語られるため、落ち着いた筆致になる。

*15:ヤクザに巻き込まれる異常事態を看過している、のは高校3年生時点の聡実であって、彼の表情はしばしば汗と涙でぐちゃぐちゃになり絵は彼の置かれた事態の異常さを如実に表現する。高校3年生の時点の聡実が敢えて語り落としていることがある。

*16:ここは狂児と遊んでばかりいるわけにはいかない英語の勉強を兼ねた行為で、中学生の日常を描いていていいシーンだと思う。

*17:「紅」絶唱シーンの回想が、過去のシーンのそのままの反復ではなかったことに注意。狂児が聡実に傘を差し掛ける場面は回想のときのみ、聡実の顔に光が差している。狂児にミナミ銀座で助けられ、財布を拾い上げ渡されるシーンも、回想シーンのみ聡実目線で撮られている。狂児は、聡実のなかでいつのまにか「ぴかぴかや」に変化していた。

*18:この点、原作よりBL強めになっている。

*19:原作の一人称語りが敢えて語り落としているところ、うっかり暴露しているところ、で指摘できるところはいくつもあるのだが長くなるのでリアルの友人には会ったとき話します。

*20:しかも、聡実の不可逆な変化が巻き戻せないビデオデッキと並行関係にあるなら、VHSが巻き戻せたならば聡実ももとのふつうの中学生の日常に戻れるとぬか喜びしてしまうじゃないか。でもこれは、次の世代の聡実ではない誰かの不可逆な変化が何度も何度も訪れることの暗示なのかもしれない。

*21:これは続編の『ファミレス行こ。』上巻のラストまでを含んだ聡実を思わせる。

*22:「天使主義的虚偽」はアドラーデカルトに端を発する近代哲学を批判する文脈で使われる用語なので、今回の感想の文脈と完全に一致するわけではない。ここでは「人が肉を持つゆえに科せられる様々な制限を認めず、制限に由来する帰結を忌避する態度」くらいに受け取ってほしい。

*23:喧しゅうゆうてやってまいります、その道中の陽気なこと〜。これは「地獄八景亡者のカラオケ」。

*24:人間は天使ではないので実際にはそんなことはないのだが…と大人は大人で思い込んでいるのではないか。その大人の思い込みはときとして人間をけだものに堕してしてしまわないだろうか。

*25:死んでない

*26:どのようにして自分が青少年の危機を乗り越えたか忘却した人物が芳根京子演じるモモちゃん先生である。

*27:ガチガチに管理すれば解決することでもない。社会も大人もリスクを許容したうえで子供と接するしかない。