暖かい闇

酒と食事と過去

『マリア様がみてる』アニメ視聴メモ スール制度のもつ光と影の二面性

※最初に弁明しておくと、アニメは4期分ぜんぶ観たけど、私は小説のほうは一切読んでいないので、限られた情報で『マリみて』について書いています。

 

マリア様がみてる』のアニメ4期分を去年から今年にかけて通しで観た。私は2004年当時、一部リアルタイムで視聴していた。それが深夜アニメ初体験(ほんとを言うとガングレイヴ最終話の最後10分くらいを観たのが最初だったけど)だったのでけっこう思い入れがある。そのあと2期の春は放送当時何話か観て、大学生のときに1期を2,3回観た程度だったかな。今回通しで観てみるとかなり印象が変わって、そのところの私の受け取り方の変化を書き残しておこうと思う。

 観る前は、やっぱり『マリみて』と言えば、佐藤聖久保栞の悲恋エピソードでしょ!!という印象が強かったのだが、あらためて通しで観ると、佐藤聖久保栞ペアにみられるようなあからさまな恋愛描写はむしろ傍流というべきで、どうやら姉妹の友愛や親愛を丁寧に描くことのほうが本流と言ってよいだろう。だから百合作品ではないということにはならず、立派な百合作品だと思うのだが、それをして(つまり、あからさまな恋愛関係に発展することは稀ということをもって)『マリみて』を「ソフト百合」と呼称する向きもあるようだ。
マリみて』において恋愛関係はほのめかしに留められており、百合は作品外部の視聴者・読者の想像力延長上に設定されているのだと見る受容の仕方が「ソフト百合」の「ソフト」という呼称に込められた意図だと思うのだが、(この理解が的を射ているとして、)私は『マリみて』はそういう意味での「ソフト百合」作品ではない(と思う)。『マリみて』は百合の可能性が常に秘められており、作中で現実化していないだけという類の物語ではない、というのがこの記事の主張になる。視聴者・読者にとって百合がどうのこうのではなく、作中人物たちにとって百合関係を築くことがどのような意味合いをもつか、百合関係を築くことにどのような制約条件があるのか、の視点を持ちたい。

 本作では百合が無条件に前提されているわけではない。それだけでなく、『マリみて』の世界のなかで百合を成立させる条件そのものに踏み込み、その条件に拘束される人間関係を描いている。そこで生まれる悲喜劇が本作の魅力だ(と私は思った)。その意味で、『マリみて』はけっして百合作品の典型とは言い難いのではないだろうか…? 以下、1期の各エピソードを中心に拾いつつそのことを説明したいと思う。

マリみて』の作中人物たちはどのような学園で生活しているのだろうか。作中人物たちを陰に陽に規定するリリアン女学園という場とその機能について確認しておきたい。

さわやかな朝の挨拶が、澄みきった青空にこだまする。マリア様のお庭に集う乙女達が、今日も天使のような無垢な笑顔で、背の高い門をくぐり抜けていく。汚れを知らない心身を包むのは、深い色の制服。スカートのプリーツは乱さないように、白いセーラーカラーは翻さないように、ゆっくりと歩くのがここでのたしなみ。もちろん、遅刻ギリギリで走り去るなどといった、はしたない生徒など存在していようはずもない。
私立リリアン女学園
明治三十四年創立のこの学園は、もとは華族の令嬢のためにつくられたという、伝統あるカトリック系お嬢さま学校である。東京都下。武蔵野の面影を未だに残している緑の多いこの地区で、神に見守られ、幼稚舎から大学までの一環教育が受けられる乙女の園。時代は移り変わり、元号が明治から三回も改まった平成の今日でさえ、十八年通い続ければ温室育ちの純粋培養お嬢さまが箱入りで出荷される、という仕組みが未だ残っている貴重な学園である。

 上記は原作小説の序文だそうだ(原作読んでないからここだけインターネッツで言及されていたのを拾いました許してください)。
「出荷」という言葉にギョッとするかもしれない(アニメのオープニング前口上では省かれている)。しかし、「出荷」という表現は大袈裟すぎるとも言えない。彼女たちは良家の子女である以上、男たちの利益のための交換財である宿命を負う。2024年になったいまでも、程度の差はあれ、良家の子女(男女問わず)に対して「ふさわしい」結婚をするようにというプレッシャーが周囲からかけられる事情は変わらないだろう。祐巳が祥子のスールになるまでを描く『マリみて』最初のエピソード(アニメ1期1話~3話)では、どこに出しても恥ずかしくないお嬢様として育てられた祥子の姿が示される。
 祥子は小笠原グループ(なんかすごい企業らしい。財閥的な?)の一人娘である。1期2話のダンス練習場面で、蓉子(祥子のお姉さま)が祐巳に語る場面がある。

蓉子「祥子はね、正真正銘のお嬢様だから社交ダンスくらい踊れて当たり前なのよ。」
(中略)
蓉子「祥子は5歳のときからバレエを習っているし英会話やピアノ、茶道や華道、みんな一通りできるの。中学のときまでは毎日なにかしらの家庭教師が来ていたみたいよ。」
祐巳「へえ なんだか別の世界の話みたい。」
蓉子「でしょう? 息が詰まっちゃいそう。だから私がみんな止めさせたの。止めざるをえなくさせたってところかしら。スールにして山百合会の雑用に引っ張りまわしてしまったから。」
祐巳「ほぇ~」
蓉子「祥子はね、根が真面目だから期待されるとその通りやっちゃうのよ(以下略」

 祥子はまさしく完璧なお嬢様だ。そして婚約者柏木優の登場によって、彼女が交換財であることが暗に示される。過酷とも思える数多のお稽古ごとをこなしてきた彼女は、自分が財として扱われていること、その期待に応えなければならないことを理解してきた、もしくは受け入れてきたと言えるのではないだろうか。家の格に釣り合うように、交換財のなかでも最高級の価値をもつ商品である必要が彼女にはあった*1
 しかも、祥子は作中で「リリアン女学園のスター」と呼ばれ、多くの生徒から憧れの眼差しを向けられている。序文にあるような品位を身につけた祥子はリリアン女学園の模範例であり、祥子のような人物を素晴らしい人物とする価値のヒエラルキーが存在するのがリリアン女学園という場所である。そしてよきお嬢様であれという規範は、祥子と柏木優の関係から、よき妻であれ、よき母であれ、という規範を暗に含んでいるものとして提示されるのである。
 リリアン女学園は女性の交換財としての価値を高め、世に「出荷」する機関としての役割を担い、『マリみて』の世界の登場人物たちの背後に常に家父長制イエ制度による拘束力を働かせている。『マリみて』の世界ではそのことが前景化することは滅多にないが、それは当たり前すぎて前景化していないか、あるいは前景化してしまうと財としての自身を意識せざるをえないから前景化しないのである(と私は思うんですがどうですかね…、そう考えた方がいろんなことに説明つく気がする)。
 しかし同時に、彼女たちはただの財ではなく、感情をもった個々の生身の人間であるから、財としてのみ扱われることにただ甘んじていることはできない。揺れる思春期ならばなおさらのことだ。
 祥子は財としての役割を完璧にこなす側面を持つ一方で、彼女は姉の蓉子も疑問に思うほどの男嫌いであり、財と扱われていることへの拒否も示す。彼女の祖父と父が妾を何人も抱えていることが彼女の男嫌いの原因だとされているが、極端な男嫌いの原因はそれだけではない。
 シンデレラ劇の稽古の日に、山百合会のメンバーの囲むなか柏木優に迫られた祥子が彼の頬をたたいて立ち去る。祥子を追いかける祐巳。薔薇の温室で以下のような会話がなされる。

祥子「優さんはね、わたくしのことなんか好きじゃない。でもわたくしは一人娘だし、彼は小笠原グループを引っ張っていけるだけの力がある。親も二人の結婚を望んでいる。だから彼はわたくしと結婚するって言うの。でもわたくしは…」
祐巳「好きだったんですね、柏木さんのこと。 …好きな人に、好きでもないのに結婚するって言われたら…そんなの…つらいですよね。」
祥子「聞いてくれてありがとう。懺悔と一緒よ。誰にも言えないから辛かったの。もうだいじょうぶ。」
祐巳「でも祥子さま。ロザリオをください。」
祥子「わたくしに戦わせて。もう逃げたくないの。気が付いて?この温室にある植物の半分以上が薔薇なのよ。これが、ロサ・キネンシス。四季咲きなのよ。この花のこと、覚えておいてね。戻りましょうか。」
祐巳「はい。」

 祐巳の口から祥子の気持ちが明かされる。実は祥子は柏木優に好意を抱いていたのだが、その思いは打ち砕かれていた。周囲の印象とは異なり、祥子はその内面ではおとぎ話のお姫様に純粋に憧れるようなロマンチックな人物であり、自分の願望が叶わないことに人知れずショックを受けていた。自分の意志で誰かを選びその人を愛した末に結婚することができない家に祥子は生まれ、通常、その強制力から逃れることはできない(一般論として、程度の差はあれ、いまでもそういう家がたくさんあることは容易に想像できるだろう)。秘めた思いさえも現実の前に打ち砕かれてしまったからこそ、彼女は極度の男嫌いになったのである。
 シンデレラ劇のあと、祐巳のもとを祥子は訪れる。そこで祥子はダンスのとき柏木優の足を3回踏みつけてやったことを祐巳に告白し、彼女たちは笑い合う。ファッキン家父長イエ制度へのささやかな抵抗のあと、祥子は祐巳をスール(妹)にしたいと申し入れ、祐巳はそれを受け入れる。
 ここからスールの機能を知ることができる。祥子は祐巳をスールにすることではじめて、自分の意志で誰かを選び、愛する機会を得る。スールという関係性は、学園を卒業して世に出るまでのほんの束の間、彼女たちに自身の意志にもとづいて誰かを愛する自由を与える。自由意志によってパートナーを選べる最後の機会がスールによって制度化されているのだ。リリアン女学園は、彼女たちを拘束する一方、彼女たちが感情を有する個々の生身の人間であることを認め、許容し、自由を与える顔も持っている。
ただし、これは断じて完全な自由ではない、制限付きの自由だ。スールは制度だ(制度になっている)。1期1話で祐巳がこんな解説をしている。

リリアン女学園の高等部にはスールというシステムがある。スールはフランス語で姉妹のこと。姉が妹を導くがごとく、先輩が後輩を指導することで、特別厳しい校則がなくとも清く正しい学園生活が受け継がれてきた。

 スール制度がなかったとしたら、女生徒たちに「清く」「正しい」学園生活を送らせるために必要となった「特別厳しい校則」とは、いったいどんな内容であったのだろうか? 制度は、それが制度である以上、制度であるが故の縛りがある。スールの関係は親愛、友愛、ときに恋愛的な関係の様相を見せるが、『マリみて』世界には、最後の恋愛についてのみ、マジになってはいけないという非常に強い圧力が存在する。だってそうだろう、卒業後はどこかの家に入って、後継ぎを生まなければならないのだから、マジの恋愛によって発生しうる逸脱が許されるだろうはずがない。
 スール制度は彼女たちの自由を可能にするものである一方、無秩序への逸脱を抑制する制度でもある。あくまでスール制度は卒業までのガス抜き、というわけだ。その当然の帰結として、ガチ恋愛をする者は学園を去る運命にある。『マリみて』世界を暗に規定するファッキン家父長イエ制度の拘束力は、それほどまでに強力だ。その傍証として、学園を去っていった1期6話のロサ・カニーナこと蟹名静と、1期10話11話の久保栞が挙げられる。
 1期6話ロサ・カニーナのエピソードはこの単話だけで一本記事を書くに値するだけの魅力があるが、それは別の機会に譲ろう*2。さて、慣例上次期ロサギガンティアになるのはロサギガンティアアンブゥトンである志摩子なのだが、それにもかかわらず蟹名静は次期ロサギガンティア選に立候補する。結果、志摩子が次期ロサギガンティアに当選するが、蟹名静の目的はロサギガンティアになることではなかった。当落の結果にかかわらず、選挙が終わったらマリア像の前で会いたいと蟹名静佐藤聖に伝えていた。以下は2人の対面の場面のやりとりだ。

蟹名静「私にとってなによりも大切なのは、いま、この瞬間、あなたの前にいること」
佐藤聖「選挙はたんなる前振りだったてわけ?」
蟹名静「運試し、だったのかもしれません。何も行動を起こさないままでいなくなりたくなかったから。私、イタリアに行くんです。」
(中略)
蟹名静「本当は中学を卒業した時点で留学するつもりでいました。でも2年も延ばしてしまいました。」
佐藤聖「どうして?」
蟹名静「あなたがいたから。」
(みつめあう二人)
蟹名静「私は一瞬でもいいからあなたの瞳にこうして私の姿を映したかった。」
佐藤聖「あなたは魅力的だ。ロサ・カニーナ。もう少し早く知り合えたら、友達になれたかもしれない。」
蟹名静「妹にはしてくださいませんの?」
佐藤聖「なりたかった?」*3
蟹名静(首を横に振って)「私は志摩子さんではありませんから。」*4
佐藤聖ロサ・カニーナ
蟹名静「静、と、呼んでくださいませんか。」
佐藤聖が口の形だけで「し・ず・か」と呼ぶ映像。佐藤聖蟹名静の唇に口づけをする。)

 蟹名静佐藤聖に抱いていたのは恋心だと思って間違いないだろう。佐藤聖もその心をじゅうぶんに汲み取って蟹名静に餞別としてキスを贈った。蟹名静は恋心は妹になることでは成就しないと理解している。理解しているのでなければ、立候補に積極的でなかった志摩子をわざと挑発して立候補を促すことなどしないだろう。佐藤聖志摩子の間にスール(姉妹)の関係がすでに成立しているにもかかわらず、その関係に割り込んで恋心を佐藤聖に伝えることは、スール制度への抵抗にほかならず、すなわちリリアン女学園の秩序全体への挑戦であり、危険な逃避行の可能性を孕む反逆行為となる。それをあえて実行するのであれば、自身は学園を去らなければならない。去ることが決まっていてこその一度きりの挑戦だったのだ。佐藤聖も去ることがわかってからのキスだったのだろう。
「秩序全体への反逆」と書いたが、これは誇張表現ではない。実際、蟹名静は学園の秩序に真っ向から挑んでおり、スール制度の欺瞞を暴いている。山百合会(生徒会)幹部は形式上選挙によって民主的に選任されるが、現幹部が個別に任命する各薔薇様の蕾たち(アンブゥトン)が次期幹部に就任することが慣例となっている。民主的とは名ばかりで、実質は個人による指名制だ。
 ここで注意したいのは、薔薇と蕾の関係と、スール(姉妹)の関係は本来無関係ということである。前者は生徒会の役職、後者は生徒個人同士の個人的な約束関係である。公的な生徒会の役職と、個人的なスールの関係が離れがたく癒着していて、誰もそのことに疑問を持っていない。選挙は生徒会幹部に信任を与えるためというより、スールは学園の秩序を守るための制度であることを全校生徒に定期的に再認識させ、内面化させるための儀式と考えるべきではないだろうか。個人関係であるスールを学園全体の制度として偽装させる機関が山百合会、そしてそれを全校生徒に確認させる儀式が山百合会幹部選挙だ。
 蟹名静は妹でもないのにロサギガンティアに立候補した。それはとりもなおさずスール制度への挑戦であり学園秩序の欺瞞の暴露だ。王様の耳はロバの耳。かくして蟹名静は学園を去った。ごく一部の人々にだけ蟹名静の反逆は記憶され、選挙が終われば学園はもとどおりいつものお嬢様学校に戻っていく。
 1期10話11話の久保栞のエピソードは多く語るだけ野暮なので、もしこのエピソードについて書くなら別の機会に主題的に取り上げるべきと思う。これはアニメを観てくれ!!!!!! と思うが、スール制度との関係性の部分だけ説明したい。佐藤聖久保栞は恋に落ちる。急速に親密になっていく間柄の2人を見て、蓉子はこんな忠告をする。

蓉子「もう少し、距離を置いたほうがいいんじゃない?」
佐藤聖「なんのこと?」
蓉子「あなたが妹にしたいなら、それでもいいわ。正式にロザリオを渡して、みんなにちゃんと紹介なさい。」

 蓉子は佐藤聖が傷つかないようにと意図してこのような忠告をしたのだが、スール制度の外で親密すぎる関係を築くことは学園の秩序を乱すことだと認識されているのも事実だろう。しかし、佐藤聖には忠告を聞き入れるつもりなどさらさらなく上の空だ。

佐藤聖(私は栞を妹にするつもりなどなかった。スールの儀式は象徴がなければ安心できない人たちがするものだと私は心の中でせせら笑っていた。)
佐藤聖(ただ一緒に居たい。それだけなのに…)
佐藤聖(栞、なぜ私たちは別々の個体に生まれてしまったのだろう。)

 久保栞以外は何も必要ない、は許されない。なぜなら卒業したその先にはどこかの家に嫁いでよき妻、よき母であることを求められるのだから。
 ちなみにここで補足だが、どこかの家に嫁いで「出荷」される以外に、リリアン女学園の女生徒にはもう一つの選択肢がある。それは修道院に入ってシスターになること。つまり男と結婚するのではなく神と婚姻する道だ。久保栞は高校を卒業したらシスターになる予定であり、2人は近い将来別れなければならない。そのことを知った佐藤聖久保栞を難じる。

佐藤聖「だったらどうしてシスターなんかに。あたしより神様を選ぶわけ?! あたしには栞しかいないのよ。あたしを見捨てるの??!!」

 この二者択一に陥ってはならない。スールの契約を交わして、かのように、安全に、恋愛ごっこを楽しむことがリリアン女学園の掟だ。
 しかし結局、佐藤聖久保栞は愛を諦めきれず駆け落ちを選択した。ところが、駆け落ちの日の夜、待ち合わせの駅に久保栞は現れなかった。彼女は学園を離れ一人で修道院に入ることを選んだのだった。スール制度からの逸脱の末、かくして久保栞は学園から去った。
 佐藤聖はどこにも行けず独り待ち合わせの駅に取り残されてしまった。いったいどこに彼女は帰るというのだろう。そこで彼女を引き戻したのは、皮肉にもスール制度だった。ベンチに座り絶望する佐藤聖を迎えに来たのは、佐藤聖のお姉さま(便宜上先代ロサギガンティアと呼ぶ)*5と蓉子だった。先代ロサギガンティアはかつて佐藤聖に伝えていた彼女をスール(妹)にした理由「顔が好きだから」だけで、スールに選んだのではないと告げる。では、顔以外の何が好きだというのか。それは先代ロサギガンティアの口からは告げられない。具体的な答えのないまま維持されるべきであるからだ。親愛とも友愛とも恋愛ともとれる関係を曖昧なまま保ち続けることがスール関係の要諦だ。ただ、だからといってその関係のすべてが偽りになるわけではない。相手への真心、思い遣りは真実だ。それを感じたのであろう、こうして佐藤聖はふたたび学園へと帰還する。
 つまるところ彼女たちの恋心は救われないのか、というとそうでもない。遠い時間を経て、『いばらの森』の著者がふたたびかつての想い人に再会できたように、『マリみて』では希望も提示される。しかしこれにも二面性がある。何十年か経たなければ、かつて愛し合った2人はふたたび出会えないのだろうか。『いばらの森』を書くことができたのは、子を育て終え、夫が死に、ようやく家庭の桎梏から解き放たれたからなのだろうか、などと想像してしまう。何十年経ってもファッキン家父長イエ制度に人を縛り続けるなんてコンチクショウ。
 ここでいままで見てきたことをまとめよう。まず前提として、リリアン女学園の女学生は良家の子女として、卒業後良家に嫁いでよき妻、よき母にならなければならないというファッキン家父長イエ制度のプレッシャーに晒されている。そんななか、スール制度リリアン女学園の女生徒たちに自らの意志でパートナーを選択し、お互いに関係を育む自由を与える。スール制度はファッキン家父長イエ制度から彼女たちを一時的に庇護し*6、彼女たちがのびのびと主体的に生きることができる空間を創出する。

 しかし一方で、スール制度は彼女たちがファッキン家父長イエ制度から逸脱して、本当にその外の世界に出て行ってしまうことをけっして許容しない。そのような負の側面も併せ持っている。蟹名静佐藤聖久保栞の事例で確認したように、マジ恋愛はかならず阻止され、マジ恋愛の成就を試みる者は学園から追放されるか、諦めてスール制度に再服従することを余儀なくされる。

 このようにスール制度は常に光と影の二面性を持っていて、『マリみて』の悲喜劇を紡いでいる。

 ただし、このスール制度が彼女たちに多くの恵みを与えていることも疑いない。他者への思い遣りの心を育み、真心を分かち合うことの喜びもスール関係は与えてくれる。そこで遣り取りされる感情が、具体的にどのような感情なのか、それをはっきりと確定させることは避けられる*7。けっしてマジな恋愛に発展はしないように絶妙なバランスを保ちながら、彼女たちはマージナルな場所に留まり続ける。それがスールの曖昧で、それゆえに内容豊かで、それゆえに、どこか哀しい関係性を生み出しいてる。彼女たちは本当に肝心なところをお互いに黙して伝える。相手に伝わっているかどうか確証を持ちきれない思いの伝達は祈りに似ていて、彼女たちはときに衝突しながら、それとなく伝わっているらしいという微かなシグナルをとても大切に受け取る。
「本作は百合が無条件に前提されているわけではない」と冒頭で述べたのは、上記のような理由による。つまり、彼女たちは百合っぽい関係性を築く自由は与えられているが、百合関係(同性の恋愛関係)をいざ成就させようとすると、『マリみて』世界が前提とするファッキン家父長イエ制度がそれを阻止しにかかる構造になっているからだ。というわけで、本作は、これも私がこの記事冒頭で述べたように「百合を成立させる条件そのものに踏み込み、その条件に拘束される人間関係を描いている」、いささか込み入った世界観を有している。

 いままで私は、『マリみて』は百合の代表作品だという印象を持っていた。その印象に間違いはないと思うが、すくなくとも百合の典型に属する作品ではない。アニメしか見ていなくて、しかもこの記事では1期しか扱っていないが、『マリみて』は登場人物たちにとって百合を成立させることがいったい何と対峙することなのかを提示し、そして百合の成就を勝ち取ることがいかに絶望的に困難であるかを提示する、チャレンジングな作品だったのではないだろうか。すくなくとも、(読者や視聴者との)お約束事としての友達以上恋愛未満巨大感情発露や恋愛に至るまでのじれったいやきもきやりとり(とそれらに付随する「萌え」*8)を狙ったものではなさそうだ。リリアン女学園はお約束事としての百合の楽園ではない。これで『マリみて』が「ソフト百合」ではない(と私が思う)ことの回答になるだろうか。

 私が最初にアニメを観た2004年から20年経過し、世の中は大きく変わった。だからこのような読解になったのだと思う。なぜかというに、これは私の個人的な所感だが、『マリみて』を観ながら、ふつうに恋愛しようや!してええやん!なんであかんのや!と素朴に思ったので。

 

 

さいごに

 今回はアニメを扱っているにもかかわらず映像表現について触れていないし、本来なら掘り下げられるべき個別のストーリーにも立ち入ることができていない。スール制度の影を見せる一方で同じ話の中で光の側面を対比させる構成であるとか、各エピソードの配置の順番の見事さとか、各キャラクターやスールの特徴と物語上の役割の噛み合い方だとか、いろいろまだまだ語りたいことがたくさんある作品だ。20年前気づかずアホだったけど、たいへんな大傑作でした。それがわかっているぶん、たいへん大雑把な記事になってしまったと自覚している。数々の取りこぼしがあるが、どうにかまたそれぞれについて書く機会があればと願う。

*1:柏木優は小笠原家に婿入りするのだから、正確には財として交換されるのは柏木優のほうなのだが、祥子も家の利益のための道具であるという点で交換財と捉えてもいいだろう。また、小笠原家は婿を迎える立場であるから、婿にも劣らない教養と品位を身につけなければならないというプレッシャーが強く働いたであろうことは想像できる。なお、柏木優の露悪的な嫌味な振る舞いの数々は自分自身が男たちの利益のための財として扱われていることへの、祥子とは対照的な反応として理解できるのだがそれはまた別の話。

*2:少しだけ触れると、蟹名静の内心とうらはらな言動が切ないが、敢えて語らないことによって相手に思いを伝える逆説は『マリみて』の真骨頂だ。伝達の可否が確証できない伝達は、もはや祈りと区別がつかない。マリア様だけが彼女たちの思いのすべてを知っている。

*3:妹になりたいんじゃないってわかってて訊くなよ!!!

*4:志摩子ポジションが望みじゃないだろ!!!

*5:声が高山みなみなのがとにかく最高。高山みなみの女性役はとても素晴らしいのです。

*6:スール制度が築く安全圏は案外強力だ。蓉子と祥子の場合のように、スールも薔薇様との関係となれば、雑用に付き合わせるからという理由をつけて家の人が強いてきたお稽古ごとをぜんぶ辞めさせてしまうことができる。

*7:彼女たちの軽口、冗談の一部が、自分たちの抱く感情の正体を一つに決定してしまわないための手段として働いている場面が作中に多く見られるように思う。

*8:死語?