暖かい闇

酒と食事と過去

家庭料理と民藝 ー土井善晴と柳宗悦ー

はじめに 

 料理研究家土井善晴糸井重里との対談「家庭料理のおおきな世界」で、「家庭料理は、民藝や」と語る*1。家庭料理が民藝であるとはどのようなことなのだろうか。本稿では、柳宗悦の民藝論を参照しつつ、土井善晴の「家庭料理は、民藝や」という言葉のもつ含意を考えたい。

 とはいえ、土井は家庭料理がどうして民藝なのかについて多くを語ってはいない*2。近年の土井の主著といえる『一汁一菜でよいという提案』(2016年10月出版)にも明示的に民藝を語る箇所はない。私の知る限り、2017年の1月1日から1月11日に連載されたweb対談連載「家庭料理のおおきな世界」で少しと、NHKで2018年3月28日に放送された「きょうの料理60周年記念 土井善晴 家庭料理と民藝をめぐる旅」で主題的に扱われた程度だ。付記するなら、後者のテレビ番組は旅行記という性格が強く、民藝品と家庭料理の生活の中での距離の近さが示されるだけで、家庭料理がそのまま民藝であることの説明はわずかだ。論じるには材料が少ない*3

 ではどのように論をすすめるべきか。

 ここで一つの仮定を導入したい。土井は「きょうの料理60周年記念 土井善晴 家庭料理と民藝をめぐる旅」で、京都の河井寛次郎記念館で河井の詩集『いのちの窓』から「美を追わない仕事 仕事の後から追って来る美」の言葉を紹介しており、当然民藝運動を率いた人たちの著作も読んでいると想定していいだろう。したがって、本稿では土井善晴が民藝思想の諸著作にも当然明るく、その影響下にあると前提する。そのうえで、以下のように論述を進めたいと思う。

 まず、民藝運動の代表者である柳宗悦による民藝の性質の解説を用い、一般論として、家庭料理と民藝がどれほどの共通項をもつかについて考察する。いわば、土井善晴が語らなかったけれども言いたかったはずであろうという前提のもとに、家庭料理と民藝の共通点を私が解説するかたちをとる*4。ここでは家庭料理と民藝の相違点も明らかになるだろう。

 次に、土井の考える家庭料理と民藝が、思想面の深い水準でも響きあっていることを示す。土井の著作『一汁一菜でよいという提案』のとある記述が、柳宗悦後期の宗教思想ともいえる論述と通じ合っていることをここで明らかにしたい。明示的に民藝について語っているわけではない箇所ではあるが、これも民藝思想に土井が深い影響をうけているはずだという前提のもとに論述を進める。

 最後に、土井が「家庭料理のおおきな世界」で語る民藝の内容に触れ、家庭料理だからこそ実現できる民藝の世界があることを示す。これは少々発展的な内容になる。

 「はじめに」のおわりに、土井が家庭料理のよさに気づくきっかけとなったのが民藝であったと語る箇所を引用しておきたい。現在の土井がいかに民藝に大きな影響を受けているか示すためである。

 土井善晴はスイスやフランスで料理を学んだあと、日本に戻ってきて大阪の吉兆に勤める。そして30歳のころ父親に手伝ってほしいと言われ家庭料理の世界に入っていくことになる。父・勝に呼び戻された当時、以下のような感覚を抱いたという。

 

当時は「なんでわたしが家庭料理?」
みたいな感覚だったんですよ。

 

当時のわたしは家庭料理を上から見てて
「家庭料理のなかに自分を
満足させる仕事があるのか?」
くらいに思っていたんです。
だから父から話があったときにも
「そうじゃないやろ」くらいに思ってまして。*5

 

 吉兆で働き、プロの料理人としての強い自覚があった土井は家庭料理の世界の価値に気づいていなかった。ところが土井は民藝と出会う。「家庭料理のおおきな世界」に気付くきっかけになったのが民藝だったのだという。

 

京都の河井寛次郎記念館などを訪れて、
その居心地のよさと、
生活のなかで美しいものが生まれることの
すばらしさを知って。
そのときハッと思ったんですね、
「家庭料理は、民藝や」って。

 

そう。これでいけると思いました。
それが家庭料理をおもしろいと思った
最初の瞬間です。

 

それで食材に関することとかを学びなおして、
それまでの自分の考えがどれほど狭く、
家庭料理にどれほどおおきな世界があったかを
わたしは理解しはじめるわけです。
そのあと、時間をかけて
家庭料理について学んでいきました。*6

 

 

家庭料理と民藝の共通項ー「民藝の性質」から

 柳宗悦は「民藝の性質」において民藝の美の特質を7つ挙げている*7。それぞれについて、家庭料理との共通点を確認していきたい。

 

1.実用性

 実用性というのは生活の中で使われるということである。「美が用途と結合しているということです。いわば生活に即して生まれてくることです。」*8家庭料理も、言わずもがな、生活の内から生まれるものである。実際に食べられ、その人の栄養になり、健康の礎となり、使われるという点で「実用」という語は妥当であろう。

 

2.多量に作られること、廉価であること

 高価な品を使わず、日常で手に入るものを使い作られるという点で、廉価は家庭料理にも共通する。

 一方、多量に作られることは家庭料理ではない。家族に必要なぶんしか作られないからだ。しかし、多量に作ることがいかに美を生み出すかという観点からすると、家庭料理にも同様の現象は起こりうる。

「民藝とは何か」で柳は「多産は技巧の罪を忘れしめ、廉価は意識の弊を招かない」*9と言う。多量に作るということは、同じ形、同じ模様、同じ色の繰り返しである。この繰り返しの中から美は生まれる。

 

人はこの反復の単調を呪うでしょうが、摂理はこのことに報いとして技量への完成を与えます。この完成は技巧すら忘却せしめるのです。人々は何を作り何を描くかすら忘れて手を動かしています。そこにはもはや技術への躊躇いがなく、意識への患いがないのです。この繰り返しこそは、すべての凡人をして、熟達の域まで高めしめる力なのです。*10

 

 家庭料理においても毎日の繰り返しの中で、たとえば包丁裁きなどは洗練されていく。料理屋のような寸分狂いない緊張感のある技術ではないだろうが、調理し食べるぶんに過不足のない熟練には到達できる。無駄がない、かと言って華美ではない、技術への過剰なこだわりもない、意識への患いがない技術は家庭料理でもその反復の中で身につく。たしかに繰り返しの中で所作は洗練されるのである。

 

3.平常性

 柳は近世の美は「何か変ったものを求める結果、ついには極端な異常なものに日を見出そうとしました」*11と述べる。これに対して、南泉の説く「平常心是道なり」を引いて「常態の美」こそ美の最後の標準と言う。家庭料理も毎日ご馳走というわけにはいかないので、大半の食事は異常なもの極端なものはなく、作る方も食べる方もごく平常心であろう。

 

4.健康性

 柳にとって不健康な姿とは「用途を離れた飾り物や神経の端でできた繊弱なもの」*12である。健康な民藝品は労働に耐える頑丈性をもっていなければいけない。

 家庭料理は道具ではないのでこの健康性に該当するかは微妙である。ただ、「用途を離れた飾り物」を作る必要はないし、「神経の端でできた繊弱なもの」を作る意味が家庭料理にはないという点で共通するだろう。

 

5.単純性

 これは文字通り質素で簡単なものであることを指す。家庭料理ももちろんこれに当てはまるだろう。

 

6.協力性

 これは家庭料理と明確に異なる点である。民藝品は多くの人の協力によって作られるが、家庭料理は父か母か、あるいは祖母か祖父か…による個人作業あるいは大家族でも3人程度の作であろう。柳の力点は、協力的であるゆえに無銘であること、それゆえに意識に患いが入らないことに向いているが、家庭料理でそこまで言えるかは判断を保留したい。ただ、家庭で消費される料理だからこそ、ことさらに社会に対して料理上手であることや独創性を求められるものではないので、家庭料理の料理人の大半を「無銘の料理人」と呼ぶことは可能であると思う。

 

7.国民性

 

民藝は直ちにその国民性を反映するのですから、ここに国民性が最も鮮かに示されてくるのです。

 

  柳のこの言明をそのまま受け取ってよいのかは難しい。ただ、この国民性が地方に依存していると述べており、国民性の中の多様性を認めている。

 家庭料理のなかに国民性が表れているかどうかはここでも判断を保留するが、国民の生活に密着しているものとして一定の世相を映すものとは言えそうである。

 

  以上、民藝の美の特質を列挙し家庭料理との比較を行ってきた。民藝の美が家庭料理のなかでも生まれるだけの共通項があると言えるだろう。協力性という点での相違点はあるものの、両者はじゅうぶんに類似点をもつ言える。

 

無有好醜の願ー『一汁一菜でよいという提案』から

  上記で示されたように、柳の民藝論に照らせば、「家庭料理は、民藝や」という言明が根拠なしに唱えられたものではないことがわかる。事実のレベルで、家庭料理は民藝と近しさをもつ。この節ではそこから一歩進んで、家庭料理はどうあっても「よい」かについての土井の見解を見、それが柳の美学と響き合うことを示す。いわば土井による、家庭料理で民藝の理想を実現するプロジェクトをここで検討したい。

 土井は家庭料理は美味しくなくてもよいと言う。料理研究家が料理を美味しくなくてもよいと述べるのである。これは尋常ならざることと言わざるをえない。『一汁一菜でよいという提案』からその箇所を確認したい。

 

一汁一菜のような身体が求めるお料理は、作り手の都合でおいしくならないことがあります。おいしい・おいしくないも、そのとき次第でよいのです。そう思って下さい。必要以上に味を気にして、喜んだり、悲しんだりしなくてもいい。どうでもよいというのではありませんが、どちらもありますから自分自身でその変化を感じていればよいのです。*13

 

家にある材料は、いつも新鮮なものばかりではありません。当たり前ですが、うまく煮えない芋もあるし、残り物のおかずが傷みかけていることもあるでしょう。「冷蔵庫の野菜入れの底で忘れていた芋だよ、ごめんね」「これ傷みかけてる、もう食べないで」。ただ、おいしいか?まずいか?というだけではないのです。*14

 

家庭料理が、いつもご馳走である必要も、いつもおいしい必要もないのです。(中略)上手でも下手でも、とにかくできることを一生懸命することがいちばんです。 *15

 

 これらの箇所は民藝について直接触れてはいないが、柳の説く「不二の美」論と同型の構造をもっている。土井も柳の「不二の美」をここで想定していたのではないだろうか。

 柳は晩年、独自の宗教美学を華開かせる*16。「仏教美学の悲願」の序で「私は美に関する私の思想の総決算を試みたのである」*17とあるように、民藝運動の総決算とともに民藝の美を基礎づける理論的著作を展開する。その一連の著作の中で、美のあるべき姿、究竟美を論じるのが「美の法門」「無有好醜の願」であり、そこで言われる究竟美が「不二の美」である。「不二の美」とはなにか。順番に追っていきたい。

 『大無量寿経』の68ある誓願のうち、4番目に相当する「無有好醜の願」を柳はとりあげ、ここに「美の一宗が建てられてよい」と述べる。

 

設我得仏

国中人天

形色不同

有好醜者

不取正覚*18

 

意味は「もし私が仏になる時、私の国の人たちの形や色が同じでなく、好き者と醜き者があるなら、私は仏にはなりませぬ」というのである。このことは更に次のことを意味する。「仏の国においては美と醜との二がないのである」と。*19

 

 この誓願が出発点となる。美と醜とは2つの対立するものである。「断えざる闘争がその間に行われ、絶えざる矛盾がそのなかに起ってくる。」*20この2つが争っている限りは、仏の国は到来しない。なぜなら、仏の国は無上のもの、無垢なものであり、この本分に二相はないからである。仏の国にある真の美は、人間の造作による分別を超えて「一」または「不二」である。「それ故美にも醜にも属しないものであるし、また醜を棄てることで選ばれる美でもないのである。いわば醜に向かい合わぬ不二の美、美それ自らとでもいうべきものである。」*21美醜の対立を超えて、美も醜も包み込む「全一なる統一」*22としての美があるというのだ。

 振り返って、土井善晴の言をみよう。彼は料理の美味しい(美)、不味い(醜)を超えて、現にあるものをありのまま受け取ることを提唱している。柳の言葉を使えば、美醜の分かたれから自由になり、「あるがままの本然の性に帰ることである。天授の質に活きることである。法が爾らしむる所にいればよいのである。」*23

 土井の提唱は、料理の道で柳の言う美の法門を建立しようとする道なのである。

 

味の美醜を超えた先に

 家庭料理で美の法門の建立、と大袈裟ことを言ったが、では実際に美味しい(美)不味い(醜)を超えて我々が受け取る世界とはいったいなんなのだろうか。土井の提案はたんなる理想論にとどまらない。生活にたしかに密着している。

 対談「家庭料理のおおきな世界」で「家庭料理は、民藝や」と述べたあと、続けて土井は民藝の良さの具体例として以下のように語り始める。

 

料理のなかには、
「煮くずれてるほうがおいしいもの」
ってあるでしょう?

 

芋なんかでも、わざと潰して盛るとか、
乱れて切るとか。
家庭料理に正面から向き合ってみると、
そういう良さがあることに気づくんです。
寸法を揃えることが目指すのは
「均一性の美しさ」。
でも、均一のないところのほうが
たのしいですよね。
ひとつの野菜でも
「これはコリコリとおいしい」とか
「やわらかくておいしい」とか。
大きさが変わればそれだけの幅があって。*24

 

きょうの料理60周年記念 土井善晴 家庭料理と民藝をめぐる旅」冒頭でも同じようなことを土井善晴は述べている。

 

みんな、ぜんぶ自然物いうのはいつも違う。
小さな食材の中に大自然がある。
それと、いつも人とのふれあいいうのが料理ですわ。*25

 

 自然物に均一性がないこと、バラツキがあることは目をこらせば、感覚を研ぎ澄ませればわかってくるはずのことである。これは料理される対象だけの話ではない。料理する側も、仕事の疲れやそのときの体調によってコンディションは様々に異なる。そのブレよって、美味しい、不味いのブレも生じるが、それでいいのである。「どちらもありますから自分自身でその変化を感じていればよい」*26のだ。自分自身も、料理される対象も、出来上がった料理も、それをそのままに受け入れる。美味い不味い(美醜)の対立から自由になって、ただその変化を感じ取ること。こうして美醜を超えたとき、私たちが出会うのは世界の多様性である。毎日の繰り返し、変哲のないと思える日常の中に驚くべき自然の多様性を認識すること、それを肯定することが土井の提唱なのではないだろうか。

 家庭料理を通して世界の多様性に気づき受け入れるとき、私たちは味の美醜を超えた、世界のうまみの経験を闢くだろう。

 

おわりに

  以上、土井善晴柳宗悦を並べて、家庭料理と民藝について論じてきた。これは簡単な素描であり、細かく論じるべき点は無数にあるだろう。ところで、これを書き終わってから検索して発見したのだが、日本民藝協会が発刊している雑誌『民藝』の7月号に土井善晴の「食と民藝」という小論が載っているらしい。書く前に、当然そちらを参照すべきだった。ちかいうちにまた日本民藝館に行って購入しようと思う。本論との異同については、また報告させていただきたい。

 

参考文献

 

 

*1:家庭料理が民藝であるという言明を文字通り受け取るべきかどうかは、民藝の対象範囲の問題にかかわる。たとえば音楽は民藝に含むだろうか。彼の美学にはときに音楽が含まれる(主題的には論じられない)が、それが民藝および民藝品に相当するかは疑問である。この論考ではその問題には立ち入らず、家庭料理と民藝の類似性を示すだけにとどまるだろう。

*2:土井善晴の著作及び出演したテレビ番組は多数あるため、私が知らないだけでまとまった分量語っているところもあるかもしれない。あったら教えて偉い人。

*3:個人的には、土井先生にはいつかどこかの著作で民藝についてたっぷり書いてほしいと望んでいます。

*4:それなりに不遜な行為であることは自覚している

*5:https://www.1101.com/doiyoshiharu/2017-01-06.html 2019/8/13閲覧

*6:同前

*7:民藝と美と以下挙げられる7つの特質がそれぞれどのような関係にあるかはさらなる考慮が必要である。これらの諸特質をもつことは美の必要条件であるのか、等。

*8:『民藝とは何か』p.127

*9:『民藝とは何か』p.73

*10:『民藝とは何か』p.73

*11:『民藝とは何か』p.128

*12:『民藝とは何か』p.129

*13:『一汁一菜でよいという提案』p.20

*14:『一汁一菜でよいという提案』p.88

*15:『一汁一菜でよいという提案』p.89

*16:実はこの言い方は変だ。なぜなら柳はそもそも宗教哲学者としてその経歴を始めているからだ。彼の初期の宗教思想と後期の宗教思想、そして民藝の関係については、いつか時間があれば紹介したい。

*17:『美の法門』p.9

*18:『美の法門』p.88

*19:『美の法門』pp.89-89

*20:『美の法門』p.91

*21:『美の法門』p.95

*22:『美の法門』p.126

*23:『美の法門』p.95

*24:「家庭料理のおおきな世界」

*25:きょうの料理60周年記念 土井善晴 家庭料理と民藝をめぐる旅」2018年3月28日放送

*26:『一汁一菜でよいという提案』p.20