暖かい闇

酒と食事と過去

「雑誌『料理通信』2019年8月号 刊行記念トークイベント 「いつからカレーは、こんなにブームになったのか?」」イベントを聴いての備忘録

7月27日に池袋ジュンク堂本店にタイトルの通りのイベントがあり、聴きに行ってきました。
いまやTwitterでも大人気のいまをときめく料理人、イナダシュンスケさんと、料理通信の曽根編集長との対談イベントでした。イナダさんのお話はたいへん面白く会場は何度も笑いに包まれ、また、曽根編集長の用意された質問も、そう、これがききたかった!というものばかりで、楽しい時間になりました。

イベントを聴きに行くに先立って、イナダさんが手掛けたエリックサウスマサラダイナーの夏のモダンインディアンコースを食べ、予習していきました。毎度のこと、お腹いっぱいポイントがコースに一つはあり、今回もまんまと策略にハマって腹がはちきれんほど食べてしまい、同行した2人も食後腹をさすっていました。(コースの詳細は以前記事でも書いたので省略します。)ジュンク堂書店でやるイベントに行くための予習が食事だなんて、なんだかわくわくしましたね。ジュンク堂書店のイベントは人文系のイベントにしか行ったことがなかったので通常は本を読むことが予習でしたから。

ともかく、この記事ではトークイベントを聴いて、気になったこと、引っかかったこと、課題に思ったことを書き留めておきたいと思います。備忘録として。イベントを要約したりはしないので悪しからず。


第一に、”インド”の範囲をどの程度の射程とすべきかについて。インドと一言に言っても、あまりに多様でその範囲を画定するのは容易ではありませんし(ほぼ不可能?)、その射程を定めるのもその目的によって様々でしょう。イナダさんも「インド料理に関しては言い切ったら負け」とおっしゃっていましたし、「これがインドや!」ということは困難です。
そういうわけで、この問いは大きすぎてとても答えられないので、ほぐしてほぐして少しでも扱いやすくしたいです。
イナダさんは「インド料理マニアはインド亜大陸にいつでも繋がるどこでもドアを持っている」というようなことをおっしゃっていましたが、「どこでもドア」という言葉が引っかかりました。私は聴きながら岡倉天心を思い出していました。彼はこう書きます。

「アジアは一つである。
ヒマラヤ山脈は、二つの偉大な文明ーー孔子共産主義をもつ中国文明と『ヴェーダ』の個人主義をもつインド文明を、ただきわだたせるためにのみ、分かっている。しかし、雪をいただくこの障壁でさえも、究極と普遍をもとめるあの愛の広がりを一瞬といえども遮ることはできない。」
『東洋の理想』
(『日本の名著39 岡倉天心』所収 p.106)

地理的にいかに離れていても瞬時にインド亜大陸につながってしまう扉は、岡倉天心が説いたようにヒマラヤ山脈を超えて繋がる愛なのではないか?いわば、地理的なインドに対して、精神的インドとでもいうべきものがインドに魅せられてしまった人々にはあって、身体は日本にいても心はインドに飛んでいってしまうのではないか。岡倉天心タゴールの交流が思い出されます。
便宜的に精神的インドと地理的インドを分けましたが、もちろんここからさらに疑問が湧いてきます。
精神的インドというものがあるとして、その設定は果たして妥当か?これは当然検討しなければなりません。
精神的インドを支えているものはなんなのか?岡倉天心に倣えば「愛」ですが、憧れなのか、何への憧れなのか?
インド料理にハマるキッカケをイナダさんはその神秘性にあるとおっしゃっていましたが、その神秘への憧れなのか?

一方で、精神的インドとかいう抽象化されたインドから実際の地理的インドに目を向けると、目もくらむ多様性が見えてきます。イベントでも隣の村に行くとまるでコミュニティが異なり、食も異なるという話がありましたが、これを”インド”とまとめるのはあまりに乱暴でしょう。

この、精神的インド(というものがあるとして)と、地理的インドの統一性と多様性の相克をどうやって調停するべきなのか?(そもそも調停すべきなのか?)
日本でインド料理に取り憑かれてしまった端くれとして、”インド”とは何か問題を考えるにあたって欠かせない観点だと思います。
私は日本のレストランでインド料理を食べます。インド各地の、宗教も文化も(階層も)違う料理を楽しみますが、これはどういう事態なのか?
つまみ食いしている後ろめたさ、現地の文脈を横断して異国情緒だけ味わってしまっているのではないかという後ろめたさが、楽しく食事してる間にふとよぎります。観光客が表面だけをなぞって行くだけのような。(これは他の各国料理や、日本でも地方料理に同じことが言えるでしょう。)

とにかく食べる、知識をつける、が当面大事ですけど、”インド料理”と括るとき、そして食べるとき、考え続ける問題です。



第二に、異なった属性を持つ人が、どのように一つの食事を共有できるようになるのか。
強いて他人に一緒のメシを食わせるという話ではありません。アレルギーとか宗教上の要因で食べれないものを食えというのは野蛮です。そうではなくて、そこで衝突を起こさないなら、好きな人となるべく同じものを美味しいねと言い合って食べたくないですか?いや、逆にアレルギーや宗教上の理由から食べられないものがある人とでも、私は食べたい。ちょっと毛色が違うかもしれないけれど、アルコールがだめな人と一緒に楽しく食事するのは私の大きな課題ですし、好きな人と一緒に食事して美味しいねって笑い合いたいという欲求、かなり強いです。

インド料理も深みにハマってくると、日本で生まれ育った者にとって、経験もさることながら知識も美味しいと感じる要素の大きな一つらしいのです。だから知識を伝えないと一緒に楽しく食事できない局面があるかもしれない。
でも、料理を食べるときに蘊蓄をやたら垂れるのは嫌われますし……。知識の補助線を引くときの方法というか戦略には自覚的にならないと失敗しそうです。

どうしたらいいのか?
イナダさんもおっしゃっていましたが、こういうときは、たんなる知識の羅列ではなく「物語」をいかに語れるかが鍵になるような気がします。場合によってはほぼ「詩」のような機能を果たす言葉の理解が味の感じ方に大きな影響を与えます。
実際私がカードライスを食べられるようになったのはイナダさんがどこかで書いていた、「お茶漬け」という言葉に納得したからです。そうか、食後のお茶漬けか、と思うと、いつの間にかヨーグルトご飯が食べれるようになっていました。
他にも、とある日本酒の燗酒の専門店ではあつあつにつけたお燗酒を炊きたてのご飯に例えて、ツマミとのマリアージュを説明して、これが見事ハマるのですが(そこは最初から圧倒的味覚の説得力を持つので説明無しでも美味しいと感じられるのですが、説明があることでより深く味わえた気分になるのです)これも一例でしょう。
これらは、誰もが持っている経験に引きつけて理解を促すパターンですね。
詩的機能で理解するパターンとしては、友人が経営するバーで飲んだ、ウィスキーを和出汁で割ったカクテルです。味だけで言えばギリギリ不味いのですが(失礼)ウィスキーの潮っぽさと和出汁の潮っぽさにおいて共通項があり、そこを起点にして味わうと何故か飲める(ちょっと美味しいかもと思う)。
ウィスキーの潮っぽさと和出汁の潮っぽさは科学的には同種のものではないかもしれませんが、言葉で結びつくと納得できてしまう、そんな不思議があります。

実際にそれが事実として正しいかはおいておいて、まずは説得力で勝負です。舌と頭で美味いと認識してもらうことから始めよう、そのために言葉を使おう、という戦略です。

たんなる方便ではないか、嘘じゃんという向き
もあるかもですが、味覚が最終的には主観的なもので一般化が難しい以上、こういうアヤも使いようだと思っています。相対的な知識の格差は、まず物語で埋めてあげる。そうすることでその食事の場が少しでもハッピーになるなら良さそうなものですが……。



このあたりが、トークイベントを聴いて私がぼんやり思っていたことです。今回は備忘録として書いたため、とりとめのない散文になってしまいました……。ご容赦ください。