暖かい闇

酒と食事と過去

2020年4月あたりの新型コロナ感染症をうけての雑感

 2020年4月の飲食雑記は自粛生活にともなう自炊のおかげで盛沢山なのだが、ちょっと迂回する。

 以下、おそらくまとまりのない雑感をつらつら述べていくだけだと思うが、現今のコロナの状況を受けて、私自身もすくなからぬ影響を受けていると思うので、自分の記録として書き残しておく。料理や酒のことでも、過去のことでもなく、いま現在のことを書くのはこのブログの当初のポリシーにはないことだけど、そこは堪忍です。

 

闇にむかって独り歩む人を引き留めるすべなどないこと

明日は遠き国へ赴くべしと聞かん人に、心閑になすべからんわざをば、人、言ひかけてんや。俄かの大事をも営み、切になげく事もある人は、他の事を聞き入れず、人の愁へ・喜びをも問わず。問はずとて、などやと恨むる人もなし。されば、年もやうやうたけ、病にもまつはれ、況や世をも遁れたらん人、又 是におなじかるべし。人間の儀式、いづれの事か去り難からぬ。世俗の黙しがたきに随ひて、これを必ずとせば、願ひも多く、身も苦しく、心の暇もなく、一生は雑事の小節にさへられて、むなしく暮れなん。日暮れ塗遠し。吾が生既に蹉駝たり。諸縁を放下すべき時なり。信をも守らじ。礼儀をも思はじ。この心をも得ざらん人は、物狂ひとも言へ、うつつなし情なしとも思へ。毀るとも苦しまじ。誉むとも聞き入れじ。(徒然草第百十二段より)

 

 

 いま、アダム・スミス道徳感情論』の読書会を仕事半分、遊び半分でやっている。2020年5月4日で第2回目で、第一部の第一篇まで進んだ。今回レジュメ担当は私が務め、いちおう第二部までのレジュメは切っていたので二部まではそれなりに丁寧に読み進めている(それにしてもずっと疑問だったのがレジュメは切るもの、というこのコロケーションはいつ生まれたのか?)。アダム・スミスは感情の原因となるとある対象、とある状況に対して、適切な感情の強度があることを教える。まだまだ読み込みが必要で断言はしたくないのだが、他者との立場交換にもとづく共感を繰り返していくと、観察者と当事者との相互の調整機能が働いて「公平な観察者」の視点を獲得でき、その立場から観察すると、特定の状況に対して抱かれる感情が適切であるか否かを判断できるという(間違っていたらご指摘ください)。と、この読みが正しいとして、読み進めながらたびたび想起されたのが上に引用した『徒然草』の百二十段である(私の青春時代の恩師がたびたび言及した箇所で、思い入れがある)。

 ある特定の状況に投げ込まれて、他者から見て明らかに過剰な感情を抱く人にたいして、「その感情、適切じゃないよ」という判断をするとして、その判断を相手に伝え、「心閑になすべからんわざを」言いかけることは適切なのだろうか。アダム・スミスに従えば、過剰な感情を抱く人について「激情抑制的徳」が足りていないと判断ができるかもしれない。でも、だから?と個人的には思う。(もうお分かりのようにこの文章は私のお気持ちを述べているだけで、哲学的議論を放棄しております。)闇にむかって真っすぐ進む人を止めるすべなどどこにもない。当人も止まる気なんぞない。それでいい。それでいい。

 今年の1月に飲食業界に転職してから間もなく起こったこのコロナ事情にあって、同業の飲食業界の人々にたいし、安易に「こうあるべき」という言葉を投げかけることへの抵抗がある。いかんともしがたい状況、いかんともしがたい感情、それにもとづく誤った判断、誤った行動。これらを誰が責められようか。

 アニメ『プラネテス』の主人公星野八郎太が田名部に放つ、「全部俺のもんだ!孤独も!苦痛も!不安も!後悔も…もったいなくってなぁ…テメエなんかにやれるかよ!」という例のセリフが改めて胸に沁みます*1

 

責任のある立場の人、当事者から遠く離れている人はやはり冷静になるべきであること

 もちろん正確な情報収集、冷静な判断はいつだって必要なわけだし、私たちは自分の生き残りをかけた諸々の戦略を実行していくだけでなく、声が届く範囲の人たちに判断材料となる情報を共有し、すこしでも他者がよい方向へ向かうよう働きかけを続けるということは当然やっていくわけです。

 いっぽう、一部には、緊急事態(あるいは戦時)という特殊な状況に浮足立って、正義感やリーダーシップを発揮する絶好の機会と言わんばかりに鼻息が荒くなっている人たちがい、一か月くらい前まではそういう言動に実際に触れたものだ。いや、あなたたちは、右往左往するまえに冷静になってくださいよ。「ロックダウンは確実に起こる。しかも○○日後に起こる。ソースは知り合いの経営者。」など。ロックダウンという言葉が独り歩きしていた時期のことである。ロックダウンが具体的にどういう事態を指し、どれほど個人や企業は行動を制限され、行政は法に基づいて実際にどこまでのことが実行可能なのか、なんてことは思いもよらず、雰囲気でヤバいことが起こるぞ、起こるぞと言い募っているだけであって、そのようにふるまうことは実際になんの有効性も持たないばかりか、有害なことさえありうる。せめて現行法や条例のなにが適用されるのか調べるくらいはしたいものだった。あなたたちの抱えている従業員を守るために、あるいは守るつもりがないとしても、経営者あるいは管理職として正確な情報にもとづく妥当な判断は必要なのじゃないの?と傍から見ていて思った。

 あるいは、別の浮足立っている例で言うと、さしてコロナでその人自身は給与面で大きな影響を受けない人が、自粛で時間が余ったからまったく個人的な動機でやりたいことをやっているだけなのに、さもコロナのいまの時期だからこそこの行為はなされる”べき”と言い募るなどがあった。平時でも緊急事態でも、やりたいことがやれるならやればいいし、殊更に自分の行為に社会的あるいは歴史的必然性があるような言い方に違和感がある。商売としてやるなら人を巻き込まなければいけないのでレトリックとして自分の行為を社会的・歴史的に意義があるとアピールすることはある程度妥当だとは思うけど、個人の趣味は個人のなかでまず大事にしてあげれば十分なのではなかろうか。(自分と、国家や社会や歴史とを屈託なく同一化できる人はある意味羨ましいとも思える。)

 

 文化という言葉がマジックワードになっているように感じたこと

 今回、演劇界やその他もろもろ(飲食含む)の界隈で、「文化」「だから」「守られるべき」という言説をちらほらきいた。この理屈についてちゃんと説明できる人はあまりおおくないのではないだろうか、と感じた次第。「なにが文化でなにが文化でないのか、文化に優劣はあるのか、文化に価値はあるのか、あるとしてそれは国によって守られるべき理由となるのか」などの問いがまったく整理されていないように感じた。おそらく、自分の分野についての危機感(おもに経済的危機感)がさきにあって、守らなくちゃいけないという気持ちが生まれ、そのあとに「文化」が便利そうなので召喚されているだけなんじゃないかな。主張するのはいいけど、よく練られていないので議論として弱かったり炎上の種になったりしている。その原因のひとつはまさに文化概念の曖昧さにあり、人によってその語にもたせている意味の幅が違い、お互いに食い違いが生じている。不幸なことだ。次に、そのぐずぐずな土台のうえに立って「守られるべき」という主張がいともかんたんになされたことも問題だった。なぜ国や行政によって守られなければならないのか、他分野より優先される理由はなにか、文化そのものに価値があるのかなどという問いを引き連れてくるからだ。

 と、つらつらと述べたが、今回上記で挙げた問いに答える用意はいまの私にはない。学生時代にちゃんと取り組まなかったギアツの『文化の解釈学』を読もうと思ったくらい(これが邦訳を手に入れようとするとはちゃめちゃな値段するんだよな…原著のkindle版は950円らしい)。がんばろう。人生はながいのでちょっとずつ読めばいい。

 ともあれ、「守りたい」「守られなければならない」という直感から、「文化だから守られなければならない」までは案外遠い道程のように思いました。以上です。

 今回得た教訓は、未曾有の危機をむかえると、みんな自分の利害(のみ)をうっかり口にしてしまうから気をつけましょうということ。危機だからこそ、自分の発言がじゅうぶん説得的であるかどうかチェックする心の余裕をもとう。

 

 

 

 

 

 

*1:星野八郎太役の田中一成が亡くなったときはショックでした。ハイキューの烏養繋心役というハマり役を獲得し、これからの役幅の拡がりを心底楽しみにしていた矢先だった。