暖かい闇

酒と食事と過去

『THE FIRST SLAM DUNK』視聴感想。エゴイズムの在り方について。

 まさか2022年の年末にこのような大傑作に出会えるとは思ってもみなかった。おそらく私はこの先ことあるごとにこの映画を思い返し、そのときどきの糧とするだろう。

 

最初に弁明

  • この記事は、私の個人的な感想の備忘として残すものです。
  • 未視聴の方にとって重大なネタバレを含むのでご注意ください。
  • というか観ている前提で書くと思う。
  • 未視聴でこのブログを目にした私の友人諸氏はぜひ劇場に足を運んでほしいと切に願う。
  • 2回観たが、記憶力が悪いのでところどころ記憶違いから劇中の出来事について事実誤認があるかもしれない。もしあれば3回目観たときに直します。

 

 本作の主人公は湘北高校宮城リョータ、舞台はインターハイ2回戦、原作漫画で描かれる最終戦となる山王工業戦である。冒頭、リョータが過ごした少年期の沖縄のシーンから始まり、その後40分の試合と、彼の試合までの人生が交互に重なり合って描かれる構造となっている。大きな筋書きとしては、少年期に兄を失ったリョータがその痛みを抱えながらそれでも前に一歩進んでいく決意を得るまでを、過去と試合を重ね合わせながら描いていくという内容だ。

 本作を全体的に論じるのは私の能力を大きく越えるので(それほど傑作だったと思う)、一番衝撃的だったシーンから説き起こして、それがどのような意味を持っている(と私が受け取った)かについて記述していきたい。

 本作で最も衝撃的だったのは、映画終盤のとあるシーンだ。これは過去の回想というたぐいのものではなく、高校生になったリョータが自身の過去のとある場面に迷い込むシーンとなる。自分の過去を現在の視点から見つめ直すシーンとも言える。

 少年期に亡くなった父と、その写真の前で喪服でうな垂れる母。そこに立ち会う兄ソータ、リョータ、妹のアンナ。

 これは実際の過去の場面の反復である。実際の過去は映画冒頭に描かれ、そこでは、陽の当たる縁側の外から妹の手をつないだまま動けないリョータと、父の遺影を前に室内の暗がりでうな垂れる母、同じく室内にいて母に歩み寄り、肩に手を置いて自分がこの家のキャプテンになると宣言する兄の姿が描かれる。8歳のリョータは母と兄の後ろ姿をただ眺めることしかできず、兄のソータもそのすぐあとに亡くなることから、あのとき踏み出せなかった自分に対して彼は悔悟の念を抱き続ける。

 高校生となって、湘北のユニフォームを着たリョータは、そのときの場面にふたたび立ち会う。これはあくまでも彼の過去に起こったことではなく、心象風景としての過去である。同じく父の遺影のまえで暗がりのなかうな垂れる母と、母を後ろから眺める兄ソータがいるが、今度はリョータは室内へと歩みを進める。そして、リョータは母の頭にそっと手を置くのだった。

 私はこのシーンに心底ギョッとした。なんて残酷で怖ろしいシーンなのだろう、と。

 彼は実際の過去のソータがそうしたように母の肩を抱くのではなく、母の頭に手を置いたのだ。リョータは高校生となり、当時12歳だったソータと同じくらいの身長ではありながら、明らかに筋肉質な身体になっている。いつの間にか、少年期に憧れ、その人に成り代わり役割を果たそうとした兄よりもよほど立派に成長したリョータの姿が絵として示され、その点は極めて印象的なのだが、それにしても身長は同じくらいなのである。同じような背格好なのだから、同じように肩を抱いてもおかしくないように思われるが、ここでは頭にそっと手を置くのである。これが映画の終盤で登場すると観客には特別な意味が発生しないだろうか? すくなくとも私にはそのように思われた。『THE FIRST SLAM DUNK』において宮城リョータのその手のひらの下に視聴者がずっと見てきたものは、劇中でそれまでも、そして劇の終わりまでもバスケットボールだからだ。つまり、私には、リョータがそっと母親の頭に手をあてるシーンは、母親の頭というひとつの球をバスケットボールとして扱った瞬間として読めたのだ。あのまま母親の首がもげて、地面を跳ね始め……ることはさすがにないだろうが、それを連想してしまうほどには怖ろしいシーンだった。

 ところで、リョータはずっと兄の出来損ないの影にすぎなかった。兄が残した役割を果たすことができなかった。少年期、海岸の秘密基地からの帰り道に、ソータは自分を家族のキャプテン、リョータを副キャプテンに任命する*1。副キャプテンに任命された以上、父に代わって家族を守る決意を持った兄の跡を継ぐのはリョータのはずであった。だがそれは果たされない。兄の死後のバスケの試合でリョータは死んだソータと引き比べられたうえ、いい結果を残せなかった。その後、リョータはソータの部屋でソータの服を着て、ソータの仮面をつけ、ソータのバスケ雑誌を読みながら紙面の選手に自分を重ねて夢想する。リョータにとって憧れの兄の姿は、やはりバスケをしている姿だった(この時点で母カオルとリョータのソータ像にすでに違いがあることがわかるだろう)。そうしている部屋に母カオルが入ってきて、兄の遺品を片付け始め、家も引っ越してしまおうと告げる。遺品を片付けようとする母をリョータが制止したことで母カオルは感情的になり、兄の服を脱がせようとリョータと揉み合いになる。リョータはその部屋で兄の仮面をつけて兄になることを夢想したのだが、リョータは自分が思う兄の姿に成り代わることを当の母親に拒絶されてしまうのだ。そこから先は喧嘩をしたりバイク事故を起こしたりと、母を悲しませることばかりしてしまう。ちなみに、彩子と夜の林で会話するシーンで、水溜まりの水面に映る月の影(月が満月であることに注意)は兄の写し身としてのリョータの姿の変奏だったように思う。

 それゆえ、兄に成り代わることはリョータの一つの悲願であったとも解される。あのとき踏み出せなかったリョータが母に歩み寄ることは、リョータがついに兄に成り代わることができた場面とも受け取ることが可能だっただろう。

 しかし、リョータは兄に成り代わることができたのだろうか?それは半分正しく、そして全面的に間違っている。

 母に歩み寄るリョータから切り返しのカットでソータの顔が正面から映される。ソータは左目から涙を流しており、右目からは流していない。これは劇場で観た人はわかると思うが、顔の右半分には家族を守りたいという決意が宿っており、左半分は近しい人が亡くなったことを年相応に悲しむ気持ちに満ちている。その表情をしたソータは画面中央に位置しており、その人物がリョータと母カオルを眺めている。彼に欠けていたはずの死を悲しむ気持ちと、家族を守りたいという意思は、すでにソータの左右の顔で示されている。リョータはすでにそれらを持っている。その二面をリョータが獲得した(から兄を通り過ぎることができた)とも言える。ソータが画面中央に配置しなおされているということ、そして歩みを止めて見ているだけの人物であることから、このソータはあの日のリョータの写し身であるとわかる。そのソータを乗り越えてあの日の母に触れることができたのだから、リョータが兄に成り代わることができたと言うことも半分は正しい。

 ところが、そうすると、母に歩み寄る高校生のリョータはいったい誰なのだろうか?という疑問が湧く。

 その答えが、母の頭に手を置くという所作に凝縮されているように私は思う。兄ソータの横を通り過ぎて追い越し、母の頭をバスケットボールにしてしまったリョータはここで世界の組み変えを行っていたのだ。そう、バスケに心身のすべてを犠牲として捧げてしまった怪物が彼の正体である。リョータが辿り着いた答えは、バスケで高みを目指すために、バスケを中心に一番大切な兄も母をもその一部として配置し直すということであったのだ*2。そうして彼は生まれ直したのだ。リョータのみがその後を描かれるのは(当然主人公だからというのもあるけど)、彼が心身のすべてをバスケに捧げたからこそだ*3。あの場面は、他ならぬ宮城リョータの願望として、バスケに心身のすべてを捧げたことがわかる象徴的な場面だったのだと思う*4。それゆえ、リョータはたしかに現実に母カオルと和解したが、それは兄ソータに成り代わることで達成されたとだけ述べるのは正しくない。兄の役割も持ちつつも、まったく別の人物に、あるいは宮城リョータ宮城リョータという人物になったからだ。

 ちなみに、リョータにそうさせたのは仲間と敵の存在があったからだ*5。ゴリの願いはバスケそれ自体ではなく、真剣にバスケでテッペンを目指す仲間を得ることで、それはすでに山王工業戦の時点で叶っていた。桜木は人生の栄光すべてをあの試合に捧げた。自分の願いを何に捧げるのか。その点で、沢北はリョータに先駆けてバスケに心身のすべてを捧げ切ってしまったもう一人の怪物である。彼に勝つためには、リョータ自身も心身のすべてをバスケに捧げ切ってしまわなければいけない。その困難を抱えるシーンに過去の幻影を見るシーンが繋がれる。

 ところでこの沢北にも怖ろしいシーンがある。敗北した山王工業の選手が控室まで戻る廊下で彼が膝を折って泣くシーンである。彼は試合前、神社で祈願する。高校でできることはすべてやった、もし今の自分に足りないものがあるのならそれをください、と。結果、彼は神から敗北を賜ることになるのだが、彼の泣き声は笑っている声にも聞こえる。負けて悔しいという気持ちに嘘はないだろうが、同時に、負けて悔しいという気持ちすらもバスケに奉仕する部分として受け入れ、必要なものだったと喜ぶように。これは、母親をもバスケを中心とした世界の一部に配置し直す宮城リョータと相似形、似た者同士である。

 リョータや沢北といった、自分の願望のためにすべてを利用し、敗北すら利用する(リョータについてはその未来を予感させる)キャラクター類型は、しばしばアニメや漫画で描かれる一類型だと思うが、通例悪役として出現するように思われる*6。近年のアニメでもっとも純粋かつ強烈にこの類型を体現しているのは、アニメメイドインアビスの黎明卿ボンドルドではなかったか。誰が犠牲になろうが、あるいは自分自身を生贄として差し出そうが、アビスの深部へと潜っていくのをやめられない人間の欲望。ありていに言えば業。メイドインアビス最大の敵キャラとの対決は、自身の欲望を貫かずにはいられない、人間のエゴイズムとの対決であった。そしてそれは目に見える残酷描写として絵に表れる。あるいはまた、キャラクター類型から離れても、エゴイズムの発露それ自体が後ろめたいものとして描かれることは多い。つい最近の例を採ると、アニメぼっち・ざ・ろっくでぼっちちゃんが望まないと知りながら、喜多ちゃんが文化祭でバンドをやりたいがために申請書を提出する行為は、彼女に罪悪感を抱かせるものであったし、ぼっちちゃんに罪の告白と謝罪もしていた。文化祭でバンドをやりたいという自分の欲を貫くことは、どこか後ろめたい、卑しいものとして描かれる。主人公ぼっちちゃんにしても、承認欲求の塊であるにもかかわらず、その表出は怪獣が街を破壊するような恐ろしいこととして描かれる。他者を支配しかねない自身の欲望は、どこか後ろめたいものとして描かれてる。私も性質としてはぼっちちゃんに近いので、我を通すことはどこか卑しい人間のすることだと思う傾向にある。ふつうの人間がエゴイズムを貫こうとすれば、そこには少なからぬ後ろめたさが伴うし、完全に貫ける者は通例大悪役になれる素質を持っている。

『THE FIRST SLAM DUNK』にも私はエゴイズムの香りを感じ取って戦慄したのだと思う。しかし、どうにもそこに悪や後ろめたさを感じない。怖ろしさはある。ここが『THE FIRST SLAM DUNK』最大の肝だと私は感じているのだがどうだろうか? 本作が人間のエゴイズムに対してひとつの在り方を提示していることが、本作を紛うことなき傑作にしている淵源であるように私には思われるがどうだろうか?

 本作映画の公式副読本として『THE FIRST SLAM DUNK re:SOURCE』という書籍が販売されている。井上雄彦はインタビューで「映画作りに後悔はまったくない」と述べ、「では、今回の挑戦でプラスになったと感じていることはあるのだろうか。」という問いに対しては「きれいごとは言わず、自己中心的な喜びで言うと」「絵がうまくなった」と回答している。また、かつて漫画を描くときに「直感だけを武器に、心身を差し出して描く」ことをしてきたと述べている*7。作者に作品を還元する作品理解は個人的にはまったく好きではないので本来やりたくないが、本書を読んで、宮城リョータの姿に井上雄彦の姿が重なって思えた。

 絵を描いて、物語を紡いで、その修練の果てにさらに絵を描いて、物語を紡ぐ営為がある。絵に対する徹底した執念*8が画面の端々にまで浸透している。画面上に終始、一朝一夕ではどうにもならない祈りに似た修練の、途方もない積み重ねを私は感じた。だから感動した。だが、修行者のなれはて、メイドインアビスでいうところの黎明卿ボンドルドの姿もそこに見えるのだ。しかし、なぜそれでいて私は邪悪をそこに感じ取らなかった、あるいは感じ取れなかったのだろうか。あるいは感じ取っている人もいるのだろうか。

 エゴイズムを貫くことに対して井上雄彦が出す答えがそこにあり、それゆえにこの映画は傑作なのだと思う。いままで私が読んだり観たりしてきたものとは別方面からの回答を与えられた気がした。私もこのあたりを明確に言語化できていない。年が明けたら3回目を観に行きたいと思う。

 

 他にも印象に残ったシーンとか、気づいた仕掛けとかいっぱいあるんだけど、それはまた余裕があればということで。

*1:ソータもバスケしか知らない少年なので、父の代わりに家族を支えることをバスケになぞらえてしか噛み砕けなかったのだろう。そのことがある意味その後の弟リョータの重荷になってしまう。少年の精一杯の背伸びと少年であるゆえの当然の限界を同時に感じる哀しいシーンだ。

*2:彼が歩を進めた先が陽向から暗がりへの移動であったことがより一層この場面の不気味さ、怖ろしさを増幅している。

*3:海外で挑戦するリョータの姿が描かれるラストシーンは兄が消えた海を渡ることができた場面と捉えると感動的である。

*4:本作は音響も非常に印象的で大胆だが、人生とバスケが重なり合う、もしくは互いに溶け合ってしまうことが音でも象徴的に表現されている。2回目の視聴で気付いたが、ド、ド、ド、ド、と繰り返される音は、心臓の鼓動やバスケットボールが床を跳ねる音として本作に通底して響く音である。リョータが少年期から抱えてきた「ずっと心臓バクバク」は彼がずっとバスケをしてきたことの証左でもあるのだ。本作を通して、バスケは彼の心臓となった(あるいは彼はバスケに自らの心臓を捧げた)。ドリブルにこそ身長の低いリョータが活路を見出したこととも平仄が合う。また、冒頭1on1後の兄ソータがリョータの頭を胸に抱きしめるシーンと、リョータが母カオルの頭に手を置いたあと、自身の胸に母の頭を抱きしめるシーンとは同型反復の呼応関係にあるが、どちらも心臓の音が相手に聴こえるであろう接触である。そして後者において母カオルの頭部がバスケットボールなら、リョータはそのバスケットボールに心臓を差し出している。心臓の拍動がバスケに写し取られ流れ込んでいく瞬間である。

*5:ここらへんは作劇の巧みさがヤバい

*6:漫画『ちはやふる』の悪役じゃないはずの各種人物とか、アニメ『ガン×ソード』の各種登場人物とか…。我を貫くと味方であろうが主人公であろうが、時に完全な悪役となりうる。

*7:ここではアニメ制作過程には言語化が必要で、直感だけではない武器が必要になったことについて述べる箇所なので少しずれた引用になっているかもしれない。

*8:最初「邪念のない執念」という言葉が思い浮かんだけど言葉としてさすがにおかしいので止めた。