暖かい闇

酒と食事と過去

希死念慮と体調不良のサンバ。それと仕事の近況について。

 希死念慮と体調不良を行ったり来たりするステップを踏んでいる。生と死の間ではなく、死と死の間でサンバを踊る数か月だった。来年は一仕事片付いたら大学病院で検査を受けることにする。11月くらいからまともに仕事ができない日が多いので社長、スタッフ、その他皆々様方にはたいへん申し訳ないと思っている。希死念慮は通年の病だが、体調にもダイレクトに変調をきたす頻度も増えている。10日間ほどほど布団からほとんど起きられない生活をしていた時期もあり、たいへんに厳しい。今日はいけるかな、と思っても図書館で一番下の段の本を取り出して立ち上がると、眩暈を起こして床にどさっと倒れこむ、などの様々な限界事例が起き、やはりたいへんに厳しいものがある。

 親しい友人諸氏には自分の羞恥心から明かしていなかったが、最低限やらなければならない仕事を複数抱えていながら、かつ、自分のことを自分でできない状態に陥っていたため、これはもうどうにもならないとついに観念し、田舎の母親に助け求め、身の回りの世話をしてもらうために東京に来てもらうなどしていた。12月初旬のことである。入院している大阪の祖母の調子が芳しくなく、母が田舎と大阪を行き来する生活をしている中、それをわかった上で呼ばざるをえなかった自分が情けなく、一方、自分が死んでしまわないためには仕方がないだろうという諦めという名の図々しさも持っていた。私はクズである。

 というわけで仕事の進捗はあまりよろしくない。やろうと思ったことの2割程度くらいしかできていないしやっていない。私の不甲斐なさもあり、社長判断で私が面倒を見ている店舗の方針に変更があり、結果、やろうと思っていたことは道半ばで停止することとなった。納得はしている。この一年の成果から判断するに、社長の判断は極めて合理的であり、これからは新しい道筋に沿っていかに事業のリスクを取り除き、いかに軌道に乗せるのかに専心することが自分の仕事だと理解している。

 ただし、悔しい気持ちはある。おそらく、私にしか見えていない未来の姿があった。もしかしたら、あと半年、一年堪えれば見えてくるものもあったかもしれない。いや、必ずあったしすでに一部は起こっていた。思い描いたことのすべてを実現できていなくとも、その兆しはいくつも見出すことができたし、いくつもの果実を実際に摘み取った。しかし、そこまで待てないという判断だったのだろう。先ほども書いたが、経営上は合理的な判断だ。しかしながら、私は、社長に、店長に、スタッフひとりひとりに、言語を尽くして説明できていたろうか。私の気持ちばかり先行して、しばしば他者に強く当たり、マネジメントの失敗を何度も繰り返しもしたが、もっとはやく自分の愚に気付く契機はなかったのだろうか。現在、伝えきれなかった悔しさと、できなかったことができるようになったことと合わせて棄却されてしまう危惧を感じている。後者の危惧にかんしては、マネジメントの手法を変えてもその手法のもととなった理念に間違いはなかったこと、その方針までブレてはいけないことを今後も譲らず主張していくつもりだ。いちおうメモしておくと、それはプロダクト製作における下記のいくつかの原則である。

  • 顧客の体験価値の向上をプロダクトの目的とすること
  • 提供する顧客の体験価値の内容をシンプルかつ明瞭に言語化できていること
  • 製作過程および対応するリリース後の結果を事後検証のために記録すること
  • 過程と結果を量的質的両面で計測し評価と修正を行える体制を整えること

 詳細は別の媒体でまとめて発表するようにとの社長からのお達しがあったため、具体的な内容については記載を控えるが上記は会社の方針として固定されるよう働きかけを続けるつもりだ。今日社長と話したときに言葉の端々から上記原則ごとまとめて棄却される惧れを感じたが、それは別の媒体に赤裸々に記述させてもらうこととする。私は、辛酸を嘗めた、苦々しい、失敗の記憶と記録として記述し、公開するつもりである。事実は事実として書く。嘘をついても仕方がないので。

 以下は蛇足だが、自分のヘマと不甲斐なさを棚に上げて敢えて吐き出すことにする。前回の新商品のレビュー会では、私が努力して作り上げてきた方針が、私の影響力が体調不良等で弱まったとたんにまるごと吹き飛び、激しいバックラッシュを起こしていた。ヴィジョナリー主導、かつテクノロジー主導の隘路に嵌っているように見えたのだ。この見立ては間違っていないと確信している。そうならないように頑張っていたつもりなのだが、かつての良くない体制(マネジメントもクソもない、混沌)に逆戻りする傾向である。私が頑張っても定着しなかったのだから私のせい、あるいはもともと定着するさせることに無理があった、という意見はあろうが(実際に言われた)、本音では、道半ばで砕いたのは私ではないという忸怩たる気持ちがあることもわかってほしい。

 ヴィジョナリー主導とはトップの一握りの人が未来を描き、それに向かって突き進んでいく企業方針だ*1。私はまったくこれを信用していない。なぜなら、①人間の才能は枯渇することがしばしばあるから(学ぶ習慣がなければ30歳くらいをすぎると目に見えてしぼんでいくのが世の常)。②ビジネスの環境は刻一刻変化するゆえ、個人の才覚による方針は容易に環境に合致しなくなる不確実性を抱え込むから。持続可能性がない。センスに恃むものはセンスに足元を掬われる。年齢を重ねるならばハビトゥスを形成せよ。習慣は第二の自然であることを理解できないものは自らの才覚にいずれ泣くことになる。

 次にテクノロジー主導は企業のテクノロジーを中心にプロダクトを作り上げていく企業方針だ。私はこれも信用していない。マーケットとのフィットを等閑視しがちになるからだ*2。開発者は、上司と業界関係者に向けて技術を披露することに執心するようになるのが必定である。事実、今回の商品レビュー会はそうなっていたと私は判断している。商品は持っている技術と知識から考案するしかないのだが、技術と知識は顧客の体験価値に奉仕するべきであって、技術と知識に奉仕するのではない。なまじっか経験と経歴があると陥りやすいビルドトラップである。

 そういうわけで、顧客の体験価値向上を中心に据えたプロダクト主導開発が、我が社でもあるべき姿であると私は信じているのだが、他のみんな(社長とか店長とかそのほかスタッフとか)はどう思っているんでしょうね。また、プロダクト主導開発は評価方式の決定とそれに沿った情報収集、および事後の評価も併せて必須であると考えるが、これにはたいへんな手間がかかる。この点もネガティブに思われているように思う。私自身いまの会社の業態で、次に活かせてしかも結果につながる検証方法を模索している最中にあって悩んでいるため、社内での説得力が欠けているのが現状だ。

 体調不良もあるし希死念慮もあってしんどいし、がんばっても意味ないんじゃないかと思うこともしばしばあってしんどいけど、来年は仕事がんばるよ。

 私は根暗で、悲観的で、自己評価が著しく低く、他人への猜疑心が強いので、杞憂にすぎないことを膨大に考えてしまうし発言してしまうけど、そのぶん考えるべきことも考えているので、そこに絞ってみんなと話せるように努力します。

 来年は仕事をがんばる年にします。

 まあだめだったら死ぬよ。あはは。

*1:メリッサ・ペリ、吉羽龍太郎訳『プロダクトマネジメント』参考

*2:同上