暖かい闇

酒と食事と過去

2021年も3分の1が終わったってマジ?そして31歳になったってマジ?

 タイトルのとおり、そういう気持ちです。

 

 1年の3分の1経ったのに、思ったよりはるかにできていることが少ない。

 でも4月に部屋の模様替えをして大掃除もした。新しい家具類も導入した。ニトリの大きい本棚を2つ買って、寝室や脱衣所や廊下やダイニングところどころに積んであったり散乱していた本を本棚に押し込んだ。おかげでいままで制限されていた、「寝室で大の字になって寝る」というささやかな幸福を取り戻した。ダイニングテーブルも購入した。いままでこたつテーブルで床に座ってあれこれやっていたけど、食事をするところは椅子とテーブルにした。狭いダイニングだが、キッチンから食事への上下の導線が並行になったことで、自炊の意識が芽生え、掃除も楽になった。食べる部屋と仕事をする部屋をそれによって分けられたことも大きい。食事のたびにいちいちスペースを確保したり、紙や本が積んである机で食事をすることもなくなった。寝室の書生机を仕事部屋の中央に配置し、左わきにはこたつテーブルを置いてその上にプリンターや処理中の書類や資料を置いた。そして座椅子を導入して、背もたれに体重を預けて長時間作業できる環境を整えた。これらによって精神衛生は劇的に改善されるだろう。

 血圧は薬のおかげか、平均すると130/90をギリギリ下回るていどで推移している。ここから先は適度に運動し、食事量を減らし、痩せることによってしか改善しないだろうと思う。これからの課題ですね…。肝臓の値が悪いので、近いうちに消化器内科でも検診を受けようと思う。

 

 先々月、31歳になった。30歳までは20歳のうちだろと謎に自分に言い訳していたが、もうどうあがいても30代だ。思い返せば20代は無為にすごした。できるようになったことも数少ない。けれども、あるにはある。激しやすい性格をあるていど(不十分だが)コントロールできるようになったこと。嗜虐的な性向を発露しないでも人付き合いをあるていど(不十分だが)できるようになったこと。前職で事務仕事の苦手をあるていど(不十分だが)克服したこと。文章の読解力も、それを伝える能力も、すこしではあるがたしかに向上している。ほかにもいろいろあると思うが、ぱっと思いつくのではこんなところだろうか。多くは失敗と挫折から学び取ったものだ。いまの状況を変えたいと願い、実行に移す、その日々の努力が私を前進させた。

 私には、もう劇的に人生を変化させる出来事はほとんど起こらないだろうと思う。すくなくともいい方向には。あとは歳をとるばかりなので、劇的に変わるとしたら、身近な人の病気や老いや死だろうが、それらは私の精神に深い皺を刻んでいくのみだ。身体も心も、消すことのできない過去の深い悲しみを背負って重くなっていくのみの人生となった。そんな私がこれからどこまで遠くいけるだろうかとこの一年はよく考えた。

 大学生活を含め、20代は自分の横を見て、自分の無能力や愚かさに絶望することが多かったが、それは誤りだった。溌剌たるエネルギーを存分に発揮して、思考は鮮やかに、弁舌爽やか、書く文章も切れ味鋭い人はたくさんいた。そういう人たちのことをセンスがある人と呼ぶ人は呼ぶのだろうが、かつてセンスのあった者たちは、残酷だが*1、風聞のかぎりかつての精彩を欠いている。生まれ持ったもの、青年期までに与えられたもの、その如何によって、人と人にはのちの努力では越えられない差をつけられる。だが、一部の例外を除いて、たいていの場合、天与の輝きは20代で使い尽くされる。ほとんどの人は、それほどまでに凡庸なのだ。むしろ、大学で知っている人たちのなかでは、非難に耐えながら自分の人生を打破せんとこつこつ努力をした人、あるいは、センスの競い合いのゲームから降りて自分の道をいちはやく見つけこつこと努力をした人たちのほうが、いまでは遠くまで行けている例が多いように思う。努力は刻印だ。魂の深い部分を彫琢する。劣等感や挫折や後悔や絶望は重しだが、逃げなかったこと、立ち向かったことが、地金の輝きとなって、時を経て現れる。そういう価値の示し方もある。友人たちから学んだことだ。こんなことは当たり前の事実だが、私は私の愚かさゆえ、このことに気づくのが遅かった。だから、そんな私がこれからどこまで遠くまで行けるのだろうかと考える次第である。私に必要なのは、余計な感情に囚われず手を動かすことだけだった。愚かでも無能力でも一歩でも進めばいい。時間は味方してくれるはずだ。不可逆性を恐れる必要はない。

 

 以下はアウグスティヌス『告白』第13巻9章の私の好きな一節からの引用。訳は中央公論社山田晶訳。聖霊論に触れる箇所で、心の重さは愛であり、賜物によって上昇するのだとする。

 

 私の重さは私の愛です。私は愛によってどこにでも、愛がはこぶところにはこばれてゆきます。あなたの賜物によって火をつけられ、上にはこばれてゆきます。燃えあがり昇ってゆくのです。私たちの昇るのは心の上昇です。昇りながら階(きざはし)の歌をうたいます。あなたの火によって、あなたの善き火によって燃えあがり、昇ってゆきます。イエルサレムの平和をめざして高く昇ってゆくのです。じっさい私は、「主の家におもむかん」と呼びかける人々の声を聞くとき、よろこびを感じます。

 

 私の心は依然として重いままだが、その重さが上昇の可能性を持つなら、それは、私が頑張れることによってだけではなく、天与の賜物に引き上げられる運動との協働によって可能になるのではなかろうか?*2……などということを久しぶりに読んで思った。

 

 

*1:これは私怨込みの言ですが、自分にセンスがあると思っている人は、自分のセンスを言い訳に使ってしまうことがあるよね。この1年はそういう例を実際にいくつも見たよ。経験がなくても素晴らしいアウトプットができる人はいるが、過去の経験を活かせない人はそれはそれで問題があると言えるんじゃないかな。センスによるショートカットだのみですべての局面が突破できるわけではないから。積み重ねが活きてこない領域って歳食えば食うほど少なくなっていくと私は思うが、どうなんでしょう…。

*2:ここから先の議論は恩寵論の積み重ねがあるので勉強が必要だ。