暖かい闇

酒と食事と過去

ライプニッツ『モナドロジー』(岩波文庫、2019)第2回読書会の記録

【使用テクスト】ライプニッツモナドジー 他二篇』(谷川多佳子・岡部英男訳)岩波文庫、2019

 【副読本】ライプニッツ形而上学叙説・ライプニッツ=アルノー往復書簡』(橋本由美子監訳、秋保亘・大矢宗太朗訳)平凡社、2013。その他、ライプニッツ著作集(人間知性新論、弁神論、前期・後期哲学)を適宜参照。

 【開催日】9/7

 【場所】新宿区の某喫茶店(前回とは違うところ)

 【人数】4人(tawashi-chan(オブザーバー)、リカルド氏、サトーさん)

 【所要時間】14時~16時半

 【到達箇所】46節~90節(『モナドジー』読了)

 【進め方】事前に全員が『モナドジー』を読んできたうえで、読書会の進行は節を内容がまとまってそうな3~4節ぐらいごとに分けた上で一通り読み、分からなかったところ、疑問に思ったところなどを確認するスタイル。レジュメは用意しなかった。

 

 以下、それなりに議論になった部分をまとめる。

 

 46節。ライプニッツは必然的真理(=永遠真理)と偶然的真理を区別する。前者は「三角形の内角の和は180度」などを指し、後者は「被造物の世界に行きわたった事象の系列」(36節)と言い換えられている。デカルトが数学的真理も神の恣意=意志によって変わりうると考えたのに対し、ライプニッツは必然的真理は「神の知性にのみ依存してその内的対象になっている」とした。数学的真理を例にとる(数学的真理以外の必然的真理の具体例が他にもあるのか思い浮かばないが、あれば教えて偉い人。)必然的真理は人間も認識するものであるから、必然的真理においては、人間の認識と神の認識は部分的に連続であるということを確認。

 

 47節。モナドが「神性の不断の閃光放射によって刻々そこから生まれてくる」との記述が議論を呼んだ。というのも、6節に「かくしてモナドは、生じるのも滅びるのも、一挙になされるほかない。」とあり、この記述が「不断の」「刻々と」という表現と相反するのではないかと思えたからだ。

 A、B、Cのモナドが生み出された後に、追加してDのモナドが順繰りに創造されるということがあるのか?

 「想像されたモナドはそれぞれに宇宙全体を表現し」(62節)かつ「モナドには、何かものが入ったり出たりできるような窓がない」(7節)のだから、モナドAに、後から創造されたモナドDの情報が書き込まれるということは考えにくい。他の箇所との整合性を考えると、やはり、全モナドは一挙に創造されると考えたほうが整合性がありそうだ。

 ではなぜ、「神性の不断の閃光放射によって刻々そこから生まれてくる」という表現が採用されたのだろうか?

 いろいろ意見が出たが、著作集の注が端的に答えてくれていると思うのでその個所を紹介する。「たしかにモナドは神により創造されたけれども、自分自身をみずから連結して一系列を諸状態のうちに実現し、妨げがなければ自発的自然的にこの系列を展開してゆく。閃光放射とは、神の創造といういわば非時間的なはたらきを、モナドの諸状態の自然的推移という時間的系列に投影したものに他ならない。」モナドは『形而上学序説』の8節にあるようにそのモナドに生起する過去現在未来すべてを含むし、なんなら「宇宙にに生じるすべてのことの痕跡までつねにある」わけで、そういった時間をギュッと濃縮した存在が非時間的な存在から流れ出る(流出する)様子を、「不断」「刻々」と表現したのではなかろうか、、、ということで議論が落ち着いた。

 残りここでは、その理解のもとに、デカルトスピノザとの違いを理解しておけばいいような気がする。実体は瞬間瞬間創造されるのではないから、デカルトの連続的創造説とも異なるし、各実体を神の創造物とする点で、すなわち創造者と被造物を截然と区別する点においてスピノザとも異なる。

 一方で『形而上学序説』の14節には「まずきわめてあきらかであるのは、被造実体が神に依存し、神のほうはこれら実体を保存し、さらに私たちが自分の思考を産み出すのに似て、一種の流出のように実体を絶えず産み出すことである。思考が私たちによって産出されるように、実体は神によって一種の流出を通して絶え間なく創造されているということである。」ともあり、けっきょくどうなんだという疑問は残る。

 

 49~52節。予定調和説の説明。各実体が作用を受けたり、及ぼしたりするように見えるのは、実際に物理的に作用を受けたり及ぼしたりしてるのはなく、神のとりなしで「調整」されているからだとかなんとか。また、能動と受動は表象の判明さの度合いによって相対的に決まる。判明な表象を持っているほうが能動、混乱した表象をもっているほうが受動である。能動/受動については定義的なものだと思うので、そうにゃんこか~って読んだ。

 

 53~55節。いわゆる最善世界説というやつ。「神のもつ観念のなかには無限に多くの可能的宇宙がある」のはなぜかについてライプニッツは「モナドジー」のなかで説明しないのでこれもそうにゃんこか~で読んだけど、神がこの世界を最善のものとして創造した理由はどこにあるのかは検討しないといけない。最善世界を神が創造した理由は、「適合のなか、もしくはこれらの世界が含んでいる完全性の度合い」にあるらしい。

 どういうことか?

 ライプニッツの「完全性」概念を振り返らないことにはこちらもわかりそうにない。41節には「完全性とは、事物の持つ限界や制限を除いて厳密な意味に捉えた積極的実在性の大きさに他ならない」とある。・・・わからない。とりあえずのところ読み取れるのは完全性をもつということは実在性が大きいということである。41節の注も読んだけどスコトゥスが出てきて根が深そうなので、ここでは、完全性の度合いが高いということは、実在性が大きいということであり、したがって完全性の高い世界が現実存在するに相応しい、くらいに理解しておきたい。

 

 56節。「鏡」という表現はいいですね。

 

 58節。ライプニッツは多様性を賛美する傾向があるように思う。だからなんだというはなしだが、個人的に気になるところではあるので記しておく。

 「そしてこれは、できるだけ多くの変化に富む多様性を、しかもできうる限りの優れた秩序とともに得る方法である。言い換えれば、できうる限りの完全性を得る方法である。」

 「理性に基づく自然と恩寵の原理」の10節にも「神の至高の完全性からして、神は宇宙をつくり出すにあたって可能なかぎり最善の計画を選んだということになる。そこには最大の秩序とともに最大の多様性がある計画だ。」とある。

 

 60節。モナドは全宇宙を映す鏡となっているわけだが、その細部においては混乱した表象を持つ。全宇宙について判明な表象をもつと「神のごとくになってしまう」。ここでも、人間と神の連続性は示される。

 

 61節。しかし、魂は神ではないので前宇宙のなかにおこるすべてのことについて判明な表象を持っておらず、「自分の襞を一挙にすっかり展開することはできない」。「その襞は無限に及んでいるからだ」。

 

 モナドは非物質であるのに、物質〔身体〕がなぜ出てくるのかという理路がいまだにわからない。

 

 78節、79節。心身二元論への予定調和説による回答。「魂は魂みずからの法則に従い、身体も身体みずからの法則に従う。それでも両者が一致するのは、あらゆる実体のあいだにある予定調和のためであり、それは実体がすべて、同じ一つの宇宙の表現だからである。」

 

 85節~。精神は神そのもの、自然の作者そのものの似姿だから、こうでなくては!みたいな倫理的な記述がちょっとでてくる。

 

 88節。自然災害が神の罰であるかのような表現が出てくる。「たとえばこの地球も、諸精神への統治がそれを要求するたびごとに、自然的な途を経て破壊されたり、修復されたりしなければならなくなる。それはある者たちを罰し、ほかの者たちを賞するためである。」一種の天譴論のような感じである。渋沢栄一かな?

 

【総評】

 「モナドジー」の後半部分でした。

 ある程度ライプニッツの用語法や思考方法に慣れてきたのか、逐一立ち止まることなく、読める箇所が増えてきたように思う。

 一方で、「完全性」概念や物質〔身体〕の発生、可能世界論の根拠、各概念や説の連関など、わからないままの課題もはっきりと見えてきた。

 「モナドジー」の道徳論については、精神と物質世界の予定調和から天譴論を導くなど、わりと素朴なところがあってあまり葛藤がないのかな…。表象の判明さの差こそあれ神と人間の連続性を説くライプニッツにとっては、人間の不完全さの問題はそこまで決定的なものではないのかもしれない。この世の悪の問題にどう答えるかについてはやはり『弁神論』だろうか。

 

 学部卒の素人(それも哲学専攻はひとりだけ)の集まりの読書会で、見当はずれな読みをしているところも多いだろうが、それはそれでご指摘いただければと思う。これを読む読書会参加者諸君も、追記事項や指摘事項あればいただきたく。