暖かい闇

酒と食事と過去

エックハルトの火花のイメージと神の子の誕生についてのメモ書き

 ちょっと事情があってエックハルトの火花について調べていた。

 先だっての記事で、エックハルトの火花のイメージについてちょっとわかったことがあるから書くと言った。わかったこととはこうだ。火花のイメージは動的なパチッとはじける閃光(静電気や火の粉のイメージ)ではなく、むしろ静的な、純化された火の灯火なのではないか。サイニーやJStageで調べても、エックハルトの火花の「イメージ」に特化した論文は見たかぎりなく、わりと発見なのではないかと思ったのも束の間、ふいにTwitterで「scintilla(火花のラテン語)」「火花」で検索してみると、山内志朗先生(@yamauchishiro
の以下のツイートがヒットした。

 

https://twitter.com/yamauchishiro/status/837204730212302849?s=20

 

scintilla animae を「精神の火花」と訳してきたが、誤りであることが分かった。scintillaとは、「火の上部」のことで、「炎」と対応する。「彗星」のことをscintillae volantes「飛ぶscintilla」と表現している。

午後2:23 · 2016年8月26日

 

https://twitter.com/yamauchishiro/status/963289084335595520?s=20

 

雑誌『多様体』創刊号(月曜社)が、来週から書店の店頭に並びます。私も「受肉と重化Ⅰ 肉の形而上学」を連載しています。「である限りの 」という重化をめぐる問題を論じていく予定です。今回は、火花とも訳される scintilla (小さな火)の話です。400頁で\2500、しかも中身は充実しています。

午後2:49 · 2018年2月13日

 

  で、図書館に行って『多様体』をコピーして読んでみると、私の調べたことはなんだったのん…っていうような文章が載っていて、ぎゃふん!と言ったのでした。学部の卒論くらいのネタにはなるんじゃないの?と思って喜んでいたが、ぬか喜びだったってわけ。ぜひ図書館でコピーするなり自分で買うなりして山内論文読んでみてください。

 じゃあ火花(羅 scintilla、独 fünklein)ってなんなの?

 山内論文はおいといて、とりあえず私の調べてたことから書く。

 エックハルトが1260年頃-1328年頃で、13世紀末から14世紀にかけて活躍しているから、当時の神学者の火花の用法を調べてみようと思って、ちょうど一世代くらいまえのボナベントゥラとトマス・アクィナスの著作から火花を探してみた。

 

①ボナベントゥラ『魂の神への歴程』

 神への上昇の六つの段階に伴って、魂の能力に六つの段階があり、それを通して我々は下から最も高いところに上っていき、外的諸物から最も内なるものに、時間的なものから永遠的なるものに上っていくのである。魂の能力の六つの段階とは、感覚・想像力・理性・知性・覚知(intelligentia)及び精神の頂(apex mentis)ないし良知の火花(synderesis scintilla)である。*1

 

トマス・アクィナス『真理論』

火花はより純粋で火全体の上に浮かぶ火のその部分であるように、良知は良心の判断において最高のものとして見出される。そして、良知が良心の火花と呼ばれるはこの比喩によってである。しかし、良知と良心との間の関係が、あらゆるほかの関連においても、火花と火との関係と同じであるという必要はない。ところで、質量的な火においてさえ、火は異質の要素がそれに加わるゆえに何らかの変容を、すなわち、火花はその純粋性のゆえに受け取ることのないような、変化を受け取るのである。*2

 

 ここからわかるのは、どうやらscintillaというのは火の純粋な部分というような意味ということだ。ボナベントゥラにおいてはscintillaは精神の頂と等置されており、トマスにおいては良知が火花、良心が火(igunis)に対応している。どちらも、魂の諸能力の高位の部分をscintillaという語に充てていることがわかるだろう。

 おそらく元ネタはペトルス・ロンバルトゥス『命題論集』だろう。ヒエロニムスによるエゼキエル書注解の紹介で以下のようなことを述べているらしい。(孫引きになってしまってすみません…)

 

右に獅子の顔,左に牛の顔,後ろに鷲の顔を持つ四体の奇怪な生き物がいるとされる箇所で,ヒエロニムスはプラトンによる魂の三分説に触れた後に次のように言う。

 

かれらはこれら三つを超えて、これら外側にある第四の部分を措定する。ギリシア人らはそれらをσυντήλησιs と呼んでおり、その良心の火花(scintilla conscientiae)はカインの胸の内にもあって、楽園か
ら追放された後も消えることはないものである。


わたしたちはこの第四の部分によって罪を意識する(sentimus)のであり,この部分はもし他の三つが誤ればそれを正すもの──鷲──である、という内容がこれに続く。*3

 

 トマスおいては対応する異論に「エゼキエル書の注釈に言われている通り」とあり、ボナベントゥラにおいても訳者の長倉がロンバルドゥスの『命題集』から取っているんじゃないの?と指摘している。ボナベントゥラも『命題集注解』を書いているし当然の指摘だ。

 さて、ロンバルドゥス『命題集』においても火花はパチッと弾けてすぐ消えるようなイメージではない。火のうちの最も純粋な部分としての、scintillaなのだ。

 山内はカンタンプレのトマスによるscintillaの説明を紹介し、scintillaについて以下のように述べている。

 

scintillaがどれに対応するのか、火花と解することは難しいと思われる。火の部分(modicum)であり、円形で、火から発出し、大きな炎へと増大し、空気を貫くときには音を出す、などと考えると、内炎、つまり、灯心から生じて、炎の中心で小さく明るく燃えているところと考えらえれる。内部にある部分であるとすると、エックハルト以降の神秘主義が愛好し、「魂のscintilla」と同義である「魂の根底」と重なる表象で考えられることになる。*4

 

 エックハルトの「魂の火花」と「魂の根底」の関係がずっと疑問だったのだが、これで謎があるていど解消した。scintillaが動的なイメージ(=火花)だとしたらそこには当然働きが生じるはずで、魂の根底において火花がどのように動くのか?が気になっていた。しかし、エックハルトの説明はほとんどない。それもそのはずで、根底と火花のイメージは重ねあわされていたのだ。被造物から離れ、魂の奥の奥に深く潜っていったとき、その根底で煌々と燃える内なる炎、たしかな、消えることのない、純粋な炎、これがscintilla/fünkleinのイメージだ。したがってscintilla/fünkleinは動的なイメージではなく、むしろ静的なものということになる。*5

 さて、そうすると当然読みの組み替えが要求される。そうして読んでいくといろいろ読みながら合点がいくのだが、同時に新たな疑問も生じてくる。「神の子の誕生」をどう理解するか、だ。魂の根底に至ったとき、そこに神の子が誕生する。生むからには生む前と生んだ後がある。神のうちにおいて「父が子を生む」と言われる場合はそれは永遠の相において「初めに(in principio)」生むのである。これを時間的存在者と同列に考えてはいけない。しかし、人間は被造物であり、時間的存在者だ。そのうちで神の子が生まれるとはどのようなことなのか。ここに、さきほど排除したはずの動的なイメージが再導入される。

 アプローチの仕方は現時点で2つ考えている。と、ここからは構想で、メモ程度に。

 

①認識論的アプローチ

 魂の根底にはずっと神の子がいるのだが、ふだん人間はそれを認識していないだけ。神の子は「造られざる、造られえざる」ものとしてあらかじめ人間の魂の根底におり、人間がそれを認識する前後をして「生む」という表現を使っているのではないか。

 

②時間論的アプローチ

 こっちのほうが有力なのだが、魂の根底においては永遠性と瞬間性の一致があるという仮説。エックハルトの文章を素直に読んだらそう読むしかないような気がする。魂の根底に至ったとき、何度でも何度でも、神の子はそこに誕生する。永遠の相においての誕生が、時間的存在者においても繰り返す、という考え。こっちはエックハルト創造論、時間論を追ってみる必要があり、骨が折れる。まずは田島照久の一連の研究を読んでみる必要がありそう。

 

 というわけで中途半端なような感じだが、ここから先は仕事している身にとっては深入りなので、今後考えなければいけないことを記しておいて今日はここでさようなら。時間が確保できてかつ興味が続けばまたブログにエックハルトのこと書くかも。

*1:ボナベントゥラ『魂の歴程』第一章長倉久子訳注
http://www.ic.nanzan-u.ac.jp/JINBUN/Christ/NJTS/007-Nagakura.pdf

*2:トマス・アクィナス『中世思想原典集成第Ⅱ期2トマス・アクィナス真理論下』山本耕平訳、平凡社、2018 年、第 17 問題 2 項異論反駁 3

*3:藤本温「自然法について -アクィナスとストア派」『中世思想研究』53 巻、pp.147-161、2011 年

*4:多様体』第一号、山内志朗「〈肉〉の形而上学 受肉と重化Ⅰ」p.318

*5:ただ気になることが…。中山善樹訳のラテン語著作集の巻末索引で「火花」を探してみたんだが無いんだよな…。ちょっと信じられないので見間違えかもしれない。もし本当にないのだとしたら、scintilla→fünkleinへの翻訳があったということになる。あるいは翻訳していないのだとしたら、「火花」はfünklein単体で考えなければいけないことになる。山内論文は説得的だが、ラテン語と現地語の差を小さく見積もれないのではないか。そもそもラテン語と現地語では語る対象が異なってくる。民衆に語るか、知識人に語るか。必然、内容にも変容があるだろう。