暖かい闇

酒と食事と過去

飲食雑記:2024年6月

 6月は自炊を頑張った月だった。

 

自炊 韓国料理

 レシピ本を5, 6冊買い込んで韓国料理をメインに作っていた。

 自炊生活と韓国料理はかなり相性がいいかもしれない。なぜかと言うに、作り置きのレシピがかなりの程度あるから。そういった作り置きを常に冷蔵庫に複数用意しておけば、あとは毎回の食事のたびに汁物さえ拵えるとあっという間に一汁三菜が出来上がる。まあ一汁三菜と言っても作り置きだけでは主菜が欠落するかもしれないが、韓国料理の場合、汁物を主菜の立ち位置に引き上げる(韓国料理屋のランチとかにあるスープを中心とした定食を想起してほしい)みたいなこともできるわけで、わりあい柔軟な献立の立ち回りが可能だ。しかも、ナムルを代表に、調理も味付けもシンプルなものが多く、調理の難易度もそこまで高くない。季節の食材を都度取り入れればバリエーションもじゅうぶんある。一般に韓国料理はニンニクと唐辛子がたくさん使われていて、なおかつ味の濃いものが多い、という印象があると思うが、そういった料理が重要な部分を成していることは誤りではないものの、全体の布置の中ではやはり一部にすぎないというところが実態に近いというものだろう。それに、だいたいのレシピはレシピ本にニンニクを入れる指示があったとしても、ニンニクを省いたとて美味しいものが作れる(私はほとんどそうしている)。それゆえ、淡白な味の料理を選んで作っていれば、食べ疲れしない構成にすることも容易だし、それでもブレずにちゃんと韓国料理だ。

 私の実感としては、地味な、食材単品で作る料理(ナムルは食材ごとに別々に調理するのが基本。複数の野菜を混ぜて調理しない。色を混ぜないというのが重要。)が並んで、味付けもシンプルで、こういうのでいいんだよ、こういうので、という気持ちになる料理が作れると感じる。

 個人的に調理のハードルが下がると感じられるのは、出汁を要求されなくてもいい場面が多いからだ。和食と一番大きな差異だと思うのはそこだろうか。ことあるごとに出汁を要求されると、日常的には顆粒出汁とかパック出汁に頼らざるをえず、そういうものの味があまり好きじゃないので続かなくなってしまう。そのかわりに韓国料理ではゴマ油(またはエゴマ油)をよく使う。それによってコクを出すことが多い。ゴマ油は飽きないのかと問われると、飽きる人もいると思う。私はいまのところ大丈夫。料理の基底にごま油を据えるか出汁を据えるかみたいな整理はいささか単純化しすぎだが、和食との発想法の違いに出汁への考え方の違いがかなりあると思う。たしかに韓国料理でも汁物はまた別で出汁を必要とするのだが、韓国料理の汁物の場合は入れる具材からそのまま出汁を取るというのがおそらく正調で、別途専用に出汁を取らないバリエーションで作っても許容できる場合が多い(たぶんこの理解は現代の韓国料理からは少し外れる(んだろうけどこのことの説明はちょっとめんどうなので省く(韓国料理の汁物カテゴリーはむちゃくちゃ奥が深くて旨味の抽出・添加の仕方も様々(と思いきや出汁要素が全く入らない外れ値みたいな汁物もあるので油断ならない(念の為誤解のないよう言い添えておくと魚醤やアミの塩辛を加えてお手軽に旨味をブーストする方法はある(煮干しとダシダの話は今していません))))))。

 一方でたとえば中華料理と大きく違うのは、中華料理の一番の典型を炒める調理法だと仮定したうえでの話だが、韓国料理はほぼほぼ強火で調理することはしないし、中華料理に較べると炒める際に使う炒め油の量も少ないというところだろう(ただし中華料理はあまりにも多様なので、これはあくまで炒めものを典型と考えたときの話です。大事なことのなので。ここで中国料理と言わずに中華料理と言っているのも、あくまで日本の環境で他のアジア料理カテゴリーとの差異について考えたいため。)。高温に熱した油を媒介に短時間で食材に火を通す、という技法は、韓国料理では全く典型ではない。というかほとんどやらないんじゃないかな。おそらくこの違いが生まれた理由には熱を生み出す資源の問題があったのではないかと想像しているが、これはまだ想像の域を出ていない。

 ちゅうわけで、1か月作り続けてようやく韓国料理の輪郭が見えてきたなと感じる。あとは汁物と鍋物(汁物と鍋物の違いってけっこう難しい。タンとクッとチゲの違いとかまだいまいちピンときてない。)のレパートリーを増やせば一応一通り履修完了って感じかな。キムチづくりはやらなくていいのかって???? それはやりません。店のを買います。そういうのはプロに任せようぜ。

 

ラーメン

 私の最も愛するラーメン店が、来年の3月か4月には閉店してしまうらしい。とても悲しい。もっと通っておけばよかった。四半期に一回くらいしか行っていなかった。失うとわかってからしげしげと足を運ぶ薄情な人間が私です。

 6月は週末限定の創作つけ麺を2種類とこれも期間限定の冷やしラーメンを1種類食べた。本当はさ、レギュラーの醤油ラーメンがとにかく美味しくて、それをこそ食べるべきなんだけどさ、自分は薄情なので限定メニューを選んで食べに行ってしまうのさ。

 さて、ここの冷やしラーメンを超える冷やしラーメンにはこの先出会うことはない気がしている。今年が最後なのだな。構成はあっさりとした曇りのないつゆと、麺だけ。それに別添えで茗荷と大葉と生姜の薬味、あとがけの油。麺と出汁を思う存分味わえる。そもそもシンプルなので、薬味を加えると味わいが鮮やかに変化する。その嬉しさ。油を加えるとラーメンっぽくなる。その愉快さ。ただし、油を添加すると出汁の風味がマスキングされてしまうので最初から入れることには慎重になっていただきたい。ラーメンというカテゴリに収まりつつも、その枠に囚われない素晴らしい料理だと思う。店主のブログを読むと近くの讃岐うどん店にインスピレーションを受けたという。うんうん、そこの冷やかけも美味いっすよね~。激しく同意。この冷やしラーメンを食べた日は蒸し暑い日だったけど、食べ終わると体中の熱がすっと引いて、外に出ても風を爽やかに感じることができた。

 つけ麺一つ目は1.5kgオーバーのアオリイカを使ったつけ麺。アオリイカのクオリティが高いのは言うまでもなく、それをラーメンに昇華させる発想と技術。ここのつけ麺には何度も驚かされた。毎度が毎度、食材が食材(ラーメン屋で見かけるクオリティの食材ではない。だいたいが高級日本料理店に回るような食材。)なので、素材の持ち味を如何に活かすかに心が砕かれている。イカはバターで軽く炒めてつけ汁に入れられていた。店主曰く、イカは単品で出汁が強く出る食材ではないから、つけ汁のベースは干し貝柱をベースにまた別に用意して、イカはバターで炒めることによって風味をつけ汁に移したとのこと。これによって、イカの風味を強く印象付けることができる。これは私は一昨年に食べて大感動した帆立の塩ラーメンと同じ発想だ。そのときの帆立ラーメンは、大ぶりの帆立を油で焼いて、炒めたフライパンに出汁をじゃっと注ぎ、残った油と、こべりついた帆立の旨味を出汁に溶け込ませてラーメンに浮かべるという手法を取ったものだった。カクテルでいうところのフロートという技術だ。たとえばゴッドファーザーに最後ピートの効いたウィスキーをバースプーン1杯か2杯程度浮かべると、全体に入っていないのにピートの香りを強く感じることができる。たしかに、帆立からは出汁をとることもできないではないものの、全体に馴染んでしまえば個性は隠されていまう。それに帆立とわかるまでスープ全体に帆立の旨味を加えようと思ったら原価がいくらになるかわからん。そもそもそんなことをして美味しいのか。すくなくともだしがらになった帆立は美味しくないだろう。帆立の風味を最大限に最も効率よく活かす手段について考えられた結果だと思う。それが今回つけ麺でも実行されていた。

 つけ麺2つ目は蛸のつけ麺。これも蛸は2kgオーバーとのこと。つけ汁には蛸の桜煮、つけ汁で瞬間しゃぶしゃぶになった薄造りが入っている。桜煮の煮汁で炊いた大根、名古屋コーチンの卵焼き、オクラとなめこ。これも蛸だけの出汁だとやっぱりつけ麺としては成立しない。昆布をつけ汁のベースにしながら、蛸の風味が強く染み出た桜煮の汁を加えることでふわっと蛸らしさを感じさせる。発想としては先述のイカと同じだ。ただ、蛸の場合は油分の介在がない。イカと帆立は油脂に香りを移してつけ汁に風味を加えたが、おそらく蛸の桜煮はそのままでむちゃくちゃ強いからそれで風味をよく感じられる。素材の良さを一番感じられる閾値に風味をチューニングする技術とでも言えばいいだろうか。蛸をさ、つけ麺で美味しく食べさせながらさ、はっきりと感じさせるなんてすごいよ。

 何度もこの店のつけ麺を食べてきたけど、日本料理の枠内ではお椀というより煮物椀だし、というかそういうんじゃなくて、発想としては寄せ鍋、ちり鍋に近い気がする。もっと言うと、麺と合わせるということを考えればうどんすきがイメージとして一番近いと思う。うどんすきを例にとれば、たしかな出汁の美味しさが基底にあってこそ具材の自由さが獲得されるし、味の深みが増す。そう、ここのつけ麺は、大阪の出汁文化の素晴らしさを訴えかけてくるつけ麺になっていると私は前々から思っていた。たしかな出汁をベースに、具材を加えてそれでいて味が濁らず賑やかになっていくところってとってもうどんすき。で、やっぱりうどんすきってきわめて大阪らしい食べ物じゃないですか。店主は大阪の人で、ラーメンを通して大阪の食文化をうかがうことができるのも私がこのラーメン店を愛する理由のひとつだ。東京でラーメンを通じて(しかもラーメン激戦区で)大阪の魂を伝え続けてきた営みは偉業だと思う。

 これから一ヶ月に一度は食べに行くことに決めている。

 

日本料理

 ずいぶん久しぶりに日本料理のコースらしき食事に行った。大学の1年生のとき以来の友人に誘ってもらって。ありがたいことだ。郡上の鮎が食えるってんで二つ返事で行くことに。どれも美味しかった。焼き物と最後の食事が鮎ごはん。私のなかで鮎は川魚のなかでも別格で、他の川魚にはない清明な味わいが格別なのだ。小ぶりの鮎で、若鮎のとても清らな味がした。長良川水系上流から中流のきらきらした水面を思い浮かべることができた。

 が、最後、鮎ごはんといっしょにイサキから出汁を引いた味噌汁が出てきたのはちょっとよくわからなかったかもしれない。これは私の鮎への気持ちが強すぎるせいだが、山のものと海のものは取り合わせたくないなという気持ちになってしまった(ちなみに味噌汁は磯くささは感じられずきれいな出汁でした)。また、イサキはコースでは焼き霜にして刺身で出てきていて、海苔の佃煮が添えてあり、少しのせて一緒に食べると磯の風味が口に広がって、イサキの香りと調和しとても美味しかったんだけど、順番としてその次に鮎の塩焼きという流れになっていて、その点も構成としてあんまりよくわからない。海の香りが強く印象付けられたあと(海苔の佃煮がすごく美味しかった)、その余韻があるところに鮎の塩焼きが登場というのは、自分としては少々違和感がある。向付のあとに焼物が来るのは順番としてはそのとおりなのだろうが……*1。高級日本料理の経験があまりないので私の考えや感じ方が誤っているのかもしれない…。地元で外食で鮎を食べるときには、川魚専門店(高級店ではない)で食べることが多いから、お刺身も鯉の洗いとか、せごしにした鮎とか、そういうものが出てくる。山の幸を食べるときはもっぱら山の幸を食べるという、そういうのに慣れてしまった私の先入観なのかもしれない…。などと考えながらその日は帰路についた。もちろん食事は美味しくて、そして楽しかったんだが、自分の知識も舌もまだまだ未熟だなと感じ、やっぱり日本料理は難しいと思った。

 

*1:………と思っていたが、さっき食事が終わったときにもらった献立表を確認したところ、イサキの焼き霜と鮎の塩焼きの間に箸休めとして万願寺とうがらしの焼きびたしが挟まっていた。しかしその日は鮎の後に万願寺とうがらしが出てきていた。献立表のほうが本来想定していた順番だったんだろうか…?