表題のとおり、数か月かけて日本語で読めるエリアーデ著作を読みまくっていきます。読んでレビューしていく、ただそれだけ。
以下は最低限読むものリストです。(順番は適当。事典類・小説は省いた。)
・『聖と俗』
・『永遠回帰の神話』
・『エリアーデ著作集』 全13巻
・『シャーマニズム』上下
・『加入礼・儀式・秘密結社:神秘の誕生──加入礼の型についての試論』
・『オカルティズム、魔術、文化流行』
・『世界宗教史』全8巻
・『神話と夢想と秘儀』
・『ルネサンス哲学』
・『迷宮の試煉 エリアーデ自身を語る』
・『エリアーデ日記―旅と思索と人』上下
・『エリアーデ回想』上下
・『ポルトガル日記 1941-1945』
書き出してみるとけっこう量がある。
エリアーデを読もうと思ったきっかけはいくつかある。バラバラな理由が偶然集まって、読もうという決意に至った。理由のすべては書きませんが。
ひとつは過去に中途半端に読んで終わってしまった後悔による。
『聖と俗』は学部のゼミで半年以上かけて読んだ経験がある。その当時はこんな時代遅れの著作を読んでなんになるんだろうと思っていた。ゼミで読みはするが、エリアーデに対する批判は取り上げないし、ゼミ生がおのおののテーマにエリアーデの理論をあてはめかねない危険すらあり、害悪だとすら思っていた。そういった反発心があって、エリアーデそのものと深く向き合うということをしていなかった。それでいいと思っていた。むしろ、エリアーデに対する批判を行うことによって、彼を乗り越え、彼を過去の遺物にすることこそ重要だと思っていた。いまでも大枠では間違っていないと思う。
しかし、数年経ってみると、じわじわとその反発心が後悔へと変わっていっている。「かくあるべし」という当為に囚われて、エリアーデを愉しむということができていなかったことへの後悔。あのゼミの時間(半年以上の時間)を、豊かにすることができなかったという後悔。反発心はいいが、私はあの時間からどれほどの果実を摘み取ることができただろう。エリアーデを内心馬鹿にしていたけど、「ほんとうに、エリアーデから学ぶことはなかったんですか。生意気言ってばかりで、あなたは何をしたんですか。」そういった内なる声が木霊する。そういう過去の亡霊が私を少しずつ蝕む。私はなにを焦っていたんだろう。
いまさら何ができる?いまさら何の意味がある?内外からそういう声も聞こえてくるんだけども、社会に出た今、学問のことで非難する人も馬鹿にしてくる人も、自分より優秀な人間への劣等感に苛まれることもないのだから、好きにやればいいと思う。自分のやりたいこと、やり残したことを時間をかけてやればいいのでは?どうせ何者でもないがそれが救いだ。そう思えはしないだろうか。俺はやる。