暖かい闇

酒と食事と過去

2022年1月進捗報告

 さっき晩御飯にスパゲティ・マリナーラを作りましたが、わりと思い描いていた形に近づけた気がします。到達点に近いものはおおよそ把握した。

 ジューシーだけどシャビシャビじゃないこと。そうでいて食べ終わったときにソースがお皿にほとんど残らないこと。逆に、もったりもしていないこと。ニンニクの香りだけでなくて、トマトの香りも油にしっかりと移っていること。アンチョビは生臭くなく、トマトは缶詰臭くなく、ニンニクの焦げた香りがなく、ネガティブな要素は排除されていること。一口目はちょっと固いかなくらいであること(1.4mmだから食べる時間でどんどんアルデンテは進行する)。

 ポイントですが、アンチョビで旨味を底支えしているからトマトは入れすぎない、トマトはしっかり焼いて香りを油に移す(缶詰の香りと水っぽい香りが変性する瞬間がある)、そのあとに水を足してソースにたりない水分を補う、です。アンチョビのクオリティはたぶんすごく大事で、私はわざわざ電車に乗って自家製のものを魚屋さんに買いに行っています。辛味はしっかり効かせて、仕上に乾燥オレガノで香りづけして、熱々を無心にかきこむとおいしい。

 あとは再現性を確保するために何度も作ればいい。

 

 さて、本題です。

 今年は1か月おきに年始の抱負の進捗報告をすることとします。毎月点検しないとあれやこれやを言い訳にして放置してしまうからです。

 1月は仕事がそこそこ忙しかったです。もうしばらく続きます。在宅でできない役所への届け出や工事の立ち合いやその他もろもろがあるため、あっちやこっちに電車に乗り継いで出かけています。体力がめっきり衰えて、ついでに身体も重いのでその点は辛いです。

 

①7kg痩せる。運動して痩せないと死ぬので。

 1月実家からこちらに戻ってきたときに計った体重と比べると100g減っていました。誤差の範囲内であり、進捗はありません。

 しかし、現状維持は前向きに捉えてよかろうと思います。なぜならいままで増加の一途だったため。

 そもそもが食べる量が多いのだ。食べ過ぎで体重が増えているので、食事量を減らせば2~3kgくらいはスッと落ちる目算です。中旬にストレスでたくさん食べてっしまったため、2月は少しずつ食事量を減らしても満足できる習慣をつけます。外食の際、もう一品を追加するのを止める、夜簡単にパスタを自炊するだけで終わらせるときも100gで我慢できるようになる、などが肝心です。

 いまは外出がある日が多く、歩き回っているため運動不足ということはないと思われます。お医者さんに怒られない程度には運動しているという意味です。外出のない日も1時間は外を歩くようにして軽い運動をしています。もう少し体重が落ちればもう少し運動らしい運動も取り入れようと思います。2月末にはあと1kgは落とさないと目標に間に合わないので頑張ります。

 

②引き続き貯金

 リュックサックを買い替える、英単語帳を買い揃える等、ちょっとずつ出費があり、月間目標の達成は難しいかもしれません。2月からがんばります。

 

③翻訳なんとかする。

 現時点で動きなしです。語学の勉強については後続の目標を参照ください。

 

④英語の勉強する。TOEIC受けることにする。800点超えれば合格とする。

 今後のスケジュールとしてはTOEICの試験を8月、11月に受験する予定です。

 いま取り組んでいることとしては、単語、単語、熟語、英文解釈です。

 TOEIC用の英単語帳を購入して始めています。現在300語まで終了。大学受験との語彙のかぶりが相当数あるため、現時点で負荷は大きくありません。ビジネスシーンで使う訳語が乗っており、知らなかった知識もけっこうあります。今後の計画としては、同じシリーズの上級英単語と熟語帳の2冊まで含めて11月の試験に間に合うようにします。

 そのほか、大学受験用の英単語帳、熟語帳を復習としてやりなおしています。やってみるとけっこう抜け漏れも多い…。謙虚に学びなおしをします。

 TOEICの単語帳2冊、熟語帳1冊を2周してそれ用の語彙を頭に入れて、大学受験用英単語帳2冊、熟語帳1冊を数周して盲点を潰し終わったら、英検準1級と1級用の英単語帳で一気に語彙力を強化しにいきます。

 語彙については今年上記のように進めます。

 英文解釈は『英文解体新書2』を進めています。2月中に第2章まで終わらせます。いまのところおおよそ解けていますが、間違えるところはちゃんと間違えます。訳は合っていても文構造を取り違えているとか、訳語の選択が文脈に合っていなかったとか、そもそも知らない文法事項があったとか、等々。間違えた箇所も基本的な文法規則をひとつひとつ適用して、わからないところがあれば辞書を引いて取り組めば解けるはずのものばかりとはわかっているのですが、そうとはいえど間違える。悔しい。読解の基礎部分の見落としがあったときには、毎回ツェズゲラの顔になっている。「久しく忘れていたな… あのひたむきさ…! もう一度一から鍛えなおすか… …くくく そういえば基礎修行などここ数年やっていないな…」と独語する日々。去年『ポレポレ』をやり直して『英文解体新書』を1周したけど、ちゃんと間違えるな…。悔しい……。悔しいよ………。ほかにも数冊テキストやってみようかな。友人は『透視図』『ルールとパターン』『英文解釈教室』をこの1か月くらいでこなしたらしく、私もやってみようかな…。

 基礎の鍛錬はどれだけやっても果てがない。単語も英文解釈も。やればやるほど深くなる。

 そのほか、やるべきことは以下。

 ・文法事項の総ざらいをどこかでする(8月まで)

 ・リスニング対策(まだ具体的に方策を立てていない)

 

⑤3泊以上の旅行を1度する。

 このための貯金も必要だな。11月TOEIC試験終わったくらいが狙い目かも。温泉旅館でゆっくりしたい。

 

⑥『論理と集合から始める数学の基礎』を終わらせる。

 進捗なしです。英単語がひと段落ついたら再開します。

 

⑦読んだ本36冊について感想を書き留める(これはevernote管理)。

 なんと1冊も読了できていない。

 

⑧調べ学習系のブログ4本書く。

 ⑦と連動するはずなのでこちらも進捗なし。

 

日商簿記3級取得(受験申込をするとか、試験場に行くとか、そういうのが一番のハードルだったりする)。

 実務で仕訳作業をしているので、少し勉強すれば受かるはずだけど、仕事ひと段落したら一回試験受けてみます。

 

⑩自炊洗濯掃除といった家事全般をこまめにやって生活を整える。

 1月はいまいちかも。

 

 2月もがんばります。

 

2021年のふりかえりと2022年の課題設定

 あけまして、おめでとうございます。

 2021年の振り返りをします。

 年々、年をまたぐことに特別さを感じられなくなっており、感受性が鈍化しているのか、惰性に流されているのか。過去を飴のように引き延ばしてその先端に現在がひっついているだけ、という感がある。過去を振り切る情熱と速度が、私には……無い。ただ、ついさっきの話ですが、紅白歌合戦薬師丸ひろ子の歌には感動しました。ああ、時の河を渡る船にオールはないねぇ。

 時の流れの惰性に流されるしかないのなら、当の惰性が自然本性となるように生きればよいのではなかろうか?習慣は第二の自然本性というやつだ。11月以降体調不良等々あって崩れてしまったが、習慣の大切さが実感を伴って理解できた年だったかもしれない。

 サイの角のように…という表現は使い古されているので、2022年、今年は鈍牛のようにゆっくり歩もう。いや、自分を牛にたとえるのもまだ思い上がりというところか。十牛図にならえば、私はまだ牛を見つけたところで、これを捉え、飼いならす必要がある。

 日々の生活を大事にして、がんばっていきましょう。

 

 2021年の答え合わせをしていきましょう。

 

① プライベートの翻訳の仕事を完遂する

完遂………はしていないけど進んではいる…はず…。訳は作ったんですが…。今年のはやいうちに手直しを入れる必要がある。たくさん迷惑をかけているように思うし、深く自らを恥じています。

 

② ①を達成するために会社の仕事量に上限を設定し、1週間にどんなにすくなくとも10時間は語学の勉強や作業をする時間を設ける

総時間ではたしかに勉強しているはず。語学の勉強は果てしない。

 

③ 宗教学の専門書を年間30冊は読む

未達成。勉強して。

 

④ 貯金をする

未達成。貯金はしているけど目標額には遠く及ばず。

 

⑤ 仕事より自分の心と身体を優先する(死にたくない)

やばくなったら休むようにしていたのでこれは達成…と言えるのかな。死んでいません。

 

⑥ いまある友人関係を大切にする(苦しいときに支えてもらった恩返しをしていく)

これは毎年自信がないね。まずは自分を律することが大事。思いやりをもてる自分をつくろう。

 

⑦ 『論理と集合から始める数学の基礎』と『ミクロ経済学の力』のテキストを終わらせる

未達成。『集合と論理から始める数学の基礎』は一部まで終了。『ミクロ経済学の力』はほとんど触れていない。

 

⑧ 3泊以上の旅行をする

未達成。実家に帰って焼肉して遊んだのは3泊以上だったけど旅行ではないわな。出不精が極まってた。歩いて行ける範囲以外に外出したくない1年だった。電車やバスに3分以上乗りたくない。

日帰りの沼津旅行は最高だった。海を見に行った。寄せては返す波が心を洗う。

 

⑨ 仕事に必要な経理労務、法務の知識をつけ、実務で使えるレベルまで鍛える

これも未達成ということで。知識は増えたけど、実務バリバリだったかというと微妙。

 

⑩ 2021年12月31日まではいまの会社を辞めず働いて、致命的なリスクを事業から排除する

辞めずに働いたので達成としよう。

 

全体として、無理めな夢を見るのはやめましょう。つらい。

 

では、2022年の課題10個いきます。

 

①7kg痩せる。運動して痩せないと死ぬので。

②引き続き貯金(目標金額はここに書くことじゃないので別途設定します)。

③翻訳なんとかする。

④英語の勉強する。TOEIC受けることにする。800点超えれば合格とする。

⑤3泊以上の旅行を1度する。

⑥『論理と集合から始める数学の基礎』を終わらせる。

⑦読んだ本36冊について感想を書き留める(これはevernote管理)。

⑧調べ学習系のブログ4本書く。

日商簿記3級取得(受験申込をするとか、試験場に行くとか、そういうのが一番のハードルだったりする)。

⑩自炊洗濯掃除といった家事全般をこまめにやって生活を整える。

 

それでは今年もよろしくおねがいします。

 

 

 

 

 

2021年9月1日近況報告

 9月に入りました。

 心身が限界だと告げている。そのせいで先週は体調を崩したし、この数日はミスが多い。月末の処理はやはり思った以上に時間がかかってしまい、ふらふらになりながらこなしたらやはりミスを連発してしまった。現在、2つの事業の仕事を並行してこなしており、なんだかんだ週の稼働が4,5日とかになってふつうの出勤と変わらなくない?となってしまうことがおおい。かなりセーブしてこれで、それに加えて翻訳の作業があって、こっちも時間がいくらあっても足りないものだから、仕事がある日もない日も休みなく稼働し続けて、毎日少なくとも12時間はなにかしら集中力を要する作業に従事しているように思う。そして翻訳はまだまだ先が長い。困った。たいへんに困っている。仕事については、今週から私のやっている仕事の領域をいくぶん引き継いでくれる人がジョインする予定なので、定型業務はその人に任せて、整いきっていない部分をまとめてやる時間がほしい。人事制度の構築とか、無料のwebサービスで補えない労務管理の手順作成とか、税理士社労士とのまだ決まっていない諸々の取り決めとか、とにかく、たくさん残っている。これらの作業は調べものも含めてまとまった時間が必要なため、翻訳の作業を終わらせないと着手するのが難しい。

 かなり限界になっているが、気持ちは前向きだ。もうひとふんばりするぞという気持ちである。

 落ち着いたら、英語の勉強をまた一からしたい。翻訳で自分の無力感を嫌というほど味わっているので…。音声学からやりてぇな…と思っている。

 一方、ちょっとややこしい英文をひたすら訳しているのが関係しているかわからないが、空いた時間で読む本の、読むスピードがあきらかに上がっているし、記憶への定着も良い。関連性はあるのだろうか。どうなんでしょう。

 しかし、たとえ翻訳が終わっても、9月末にはトマス・アクィナスの読書会が控えており(さすがにラテン語出来ないので邦訳を使う。英訳くらい入手しようかしら)、間髪入れずにまた難解なテクストと向き合わなければならない。ただし、難解と言ってもトマス・アクィナスは良き教師だ。わからなかったらアリストテレスに戻って根気よく向き合えばいろいろなことを教えてくれる。

 そして10月からは創価学会の研究書(英語)の読書会を予定している。

 それとは別に、日本の資本主義の萌芽を江戸時代にさかのぼって日本人のエートスに求める言説の歴史を追うのもやりたい。その作業にともなって読みたいと思っていた論文もいくつか読みたい*1。学ぶことが、知りたいことがまだまだ多いですなぁ…。論理学と数学もやりたいのよ…。

 翻訳作業を毎日やっていることもあって、仕事以外で毎日コツコツ何かをやるということが習慣になっている。翻訳が終わってもなにかしらほかに勉強する時間と習慣を失いたくない。

 最近観たアニメについて近日中に感想を書いておきたいがそれはまた別の記事でやります。

 

*1:WAS WEBER WRONG? A HUMAN CAPITAL THEORY OF PROTESTANT ECONOMIC HISTORY とか

2021年も3分の1が終わったってマジ?そして31歳になったってマジ?

 タイトルのとおり、そういう気持ちです。

 

 1年の3分の1経ったのに、思ったよりはるかにできていることが少ない。

 でも4月に部屋の模様替えをして大掃除もした。新しい家具類も導入した。ニトリの大きい本棚を2つ買って、寝室や脱衣所や廊下やダイニングところどころに積んであったり散乱していた本を本棚に押し込んだ。おかげでいままで制限されていた、「寝室で大の字になって寝る」というささやかな幸福を取り戻した。ダイニングテーブルも購入した。いままでこたつテーブルで床に座ってあれこれやっていたけど、食事をするところは椅子とテーブルにした。狭いダイニングだが、キッチンから食事への上下の導線が並行になったことで、自炊の意識が芽生え、掃除も楽になった。食べる部屋と仕事をする部屋をそれによって分けられたことも大きい。食事のたびにいちいちスペースを確保したり、紙や本が積んである机で食事をすることもなくなった。寝室の書生机を仕事部屋の中央に配置し、左わきにはこたつテーブルを置いてその上にプリンターや処理中の書類や資料を置いた。そして座椅子を導入して、背もたれに体重を預けて長時間作業できる環境を整えた。これらによって精神衛生は劇的に改善されるだろう。

 血圧は薬のおかげか、平均すると130/90をギリギリ下回るていどで推移している。ここから先は適度に運動し、食事量を減らし、痩せることによってしか改善しないだろうと思う。これからの課題ですね…。肝臓の値が悪いので、近いうちに消化器内科でも検診を受けようと思う。

 

 先々月、31歳になった。30歳までは20歳のうちだろと謎に自分に言い訳していたが、もうどうあがいても30代だ。思い返せば20代は無為にすごした。できるようになったことも数少ない。けれども、あるにはある。激しやすい性格をあるていど(不十分だが)コントロールできるようになったこと。嗜虐的な性向を発露しないでも人付き合いをあるていど(不十分だが)できるようになったこと。前職で事務仕事の苦手をあるていど(不十分だが)克服したこと。文章の読解力も、それを伝える能力も、すこしではあるがたしかに向上している。ほかにもいろいろあると思うが、ぱっと思いつくのではこんなところだろうか。多くは失敗と挫折から学び取ったものだ。いまの状況を変えたいと願い、実行に移す、その日々の努力が私を前進させた。

 私には、もう劇的に人生を変化させる出来事はほとんど起こらないだろうと思う。すくなくともいい方向には。あとは歳をとるばかりなので、劇的に変わるとしたら、身近な人の病気や老いや死だろうが、それらは私の精神に深い皺を刻んでいくのみだ。身体も心も、消すことのできない過去の深い悲しみを背負って重くなっていくのみの人生となった。そんな私がこれからどこまで遠くいけるだろうかとこの一年はよく考えた。

 大学生活を含め、20代は自分の横を見て、自分の無能力や愚かさに絶望することが多かったが、それは誤りだった。溌剌たるエネルギーを存分に発揮して、思考は鮮やかに、弁舌爽やか、書く文章も切れ味鋭い人はたくさんいた。そういう人たちのことをセンスがある人と呼ぶ人は呼ぶのだろうが、かつてセンスのあった者たちは、残酷だが*1、風聞のかぎりかつての精彩を欠いている。生まれ持ったもの、青年期までに与えられたもの、その如何によって、人と人にはのちの努力では越えられない差をつけられる。だが、一部の例外を除いて、たいていの場合、天与の輝きは20代で使い尽くされる。ほとんどの人は、それほどまでに凡庸なのだ。むしろ、大学で知っている人たちのなかでは、非難に耐えながら自分の人生を打破せんとこつこつ努力をした人、あるいは、センスの競い合いのゲームから降りて自分の道をいちはやく見つけこつこと努力をした人たちのほうが、いまでは遠くまで行けている例が多いように思う。努力は刻印だ。魂の深い部分を彫琢する。劣等感や挫折や後悔や絶望は重しだが、逃げなかったこと、立ち向かったことが、地金の輝きとなって、時を経て現れる。そういう価値の示し方もある。友人たちから学んだことだ。こんなことは当たり前の事実だが、私は私の愚かさゆえ、このことに気づくのが遅かった。だから、そんな私がこれからどこまで遠くまで行けるのだろうかと考える次第である。私に必要なのは、余計な感情に囚われず手を動かすことだけだった。愚かでも無能力でも一歩でも進めばいい。時間は味方してくれるはずだ。不可逆性を恐れる必要はない。

 

 以下はアウグスティヌス『告白』第13巻9章の私の好きな一節からの引用。訳は中央公論社山田晶訳。聖霊論に触れる箇所で、心の重さは愛であり、賜物によって上昇するのだとする。

 

 私の重さは私の愛です。私は愛によってどこにでも、愛がはこぶところにはこばれてゆきます。あなたの賜物によって火をつけられ、上にはこばれてゆきます。燃えあがり昇ってゆくのです。私たちの昇るのは心の上昇です。昇りながら階(きざはし)の歌をうたいます。あなたの火によって、あなたの善き火によって燃えあがり、昇ってゆきます。イエルサレムの平和をめざして高く昇ってゆくのです。じっさい私は、「主の家におもむかん」と呼びかける人々の声を聞くとき、よろこびを感じます。

 

 私の心は依然として重いままだが、その重さが上昇の可能性を持つなら、それは、私が頑張れることによってだけではなく、天与の賜物に引き上げられる運動との協働によって可能になるのではなかろうか?*2……などということを久しぶりに読んで思った。

 

 

*1:これは私怨込みの言ですが、自分にセンスがあると思っている人は、自分のセンスを言い訳に使ってしまうことがあるよね。この1年はそういう例を実際にいくつも見たよ。経験がなくても素晴らしいアウトプットができる人はいるが、過去の経験を活かせない人はそれはそれで問題があると言えるんじゃないかな。センスによるショートカットだのみですべての局面が突破できるわけではないから。積み重ねが活きてこない領域って歳食えば食うほど少なくなっていくと私は思うが、どうなんでしょう…。

*2:ここから先の議論は恩寵論の積み重ねがあるので勉強が必要だ。

2020年のふりかえり

私たちは、目の前に何か目隠しを置いて、断崖が見えないようにしてから、平気でそこに駆け込んでいく。

 

ーー引用から文章を書き始めるような気障な人間ではないつもりなんだが、今年はこの言葉が頻繁に脳裡に浮かぶ年だった。上記はパスカル『パンセ』の一節、岩波文庫上巻の214ページからの引用だ。手元になかったので確認していないけれど、中公文庫のほうの訳は「われわれは絶壁が見えないようにするために、何か目をさえぎるものを前方においた後、安心して絶壁のほうへ走っているのである。」となっているらしい。こっちのほうがいいかもな。

 私みたいにことあるごとに断崖絶壁のキワから死を覗いてしまう人間からしたら、バカになるためにお酒や食道楽に頼って気晴らしをし続けなければまともに生活することもできない。生きるのが怖い。死ぬのも怖い。無理やり誤魔化して、目を覆って、ビクつきながら走っている。私のふだん付き合いのある友人たちも、どこかそういう面をもつ人が多いように思う。日本は貧乏で、労働は過重で、希望がもてない状況がそうさせているのかもしれないが。

 ところが、世の中はそういう暗い人間ばかりではない、というのが今年得た教訓だった。目隠しをしていながら、恐怖を感じず、崖にむかって進める人たちがいる。素晴らしい経歴を持ち、自己肯定感が強く、ひとあたりは柔らかく爽やかで、才気に満ち溢れている若者たち。そういう若者が威風堂々事業を興す。さながら王者の行進だ。そういう局面を近くから見る機会が多い一年だった。弊社含めて。堂々たる進軍のいっぽう、大きい金額や多くの人をすでに動かしてしまっているのに誰がその費用を払うかを決めていなかったり、そもそも考えていなかったり、そのやりとりを文字にして残していなかったり、そこらへんのサラリーマンなら学部卒2年目の社員でも確実にやっているだろうことをやっていなかったりする。個々の判断も、とくに合理的な根拠があるわけではなく、「イカしてる」「ダサい」くらいの直感的で感性的な判断をしている(文学部的な学部を出た身からすると感性的判断にもさまざまに説明の技術があるものだが、そういうのを学んだ人間は往々にしてイケイケどんどん界隈に縁が薄かったりするのでこういう場所にいない)。出資者や従業員にたいする説明責任があると思うのだが、イカしたオレ様のイカした判断だからだいじょぶ!と見得を切ってしまう*1。周りの人間もうっかりそれに騙されてしまうのだが、しばらくすると当然トラブルが起きる。そのときはじめて苦境に立たされ、いつもの明るい表情は苦悶に歪み、恨みがましい目でもって他人の顔を見つめるようになる。その顔は、これこそ人間!という顔をしていて味わい深い。人間は愛おしいなあ*2

ーー私の今年一年の仕事の苦しみがフラッシュバックしてついひがみっぽくなってしまった。話を戻すと、王者の行進のように威風堂々と、しかし、目隠しをして崖に突っ込んでいく若者が世の中にはたくさんいる、ということに私は気づいた。私が知らなかっただけで世の中にありふれている。そして、わりと人間はこういう存在なのかもしれないと、人間観にこの一年で少し修正をかけた。自信をもって高速になって発射され、当然の結果として多くの若者が散っていく*3。失敗した個々の人生は悲惨だろうが、発射台から発射された若者の何百分の一はいろんな条件が噛み合って自己を修正し成功を得ることがある。若者は勝手に高速になって信用や財産やその他もろもろを散らしていく、このことは私にはいかんともしがたいこと。個々の悲惨な人生も、私にはどうすることもできない。いまの日本ならでっかい借金背負っても、自分の資産をすり減らしてしまっても、それが原因で死にはしないだろうから、自分で目隠ししてチキンレースする人を私は引き留めはしない。各人がどういう気持ちかはわからないが、そういうゲームだから、と思うことにした。とはいえ自分の所属する会社が勝手に散ってもらっては困るので、そこはがんばりたい*4

 

 さて、自分の人間観に少し修正をかけることでようやく、現実と向き合う腹をくくった年の瀬になったが、失ったものは大きかった。健康だ。血圧が最高で190まで上がってしまった。循環器内科のお医者さんの顔がマジになってたのでビビッた。ストレスと過労と生活習慣のトリプルパンチだ。9月ごろに一週間ていど仕事ができなくなるくらい体調を崩した。血圧検査の結果、肝臓も値が悪いし、中性脂肪も馬鹿みたいに高い値だし、ふつうに突然死のリスクがある。前職の上司のお母さんは180で脳卒中で倒れたらしい。いまは降圧剤を処方されてさすがに180とか190、下も120を超えるみたいなことは起こらなくなったけど、もう私の身体はぶっ壊れてしまったんだね。もう戻らないんだね。抱えて生きていくしかないね。

 さすがにこれで鬱が再発したら会社を訴えようと思うけど、それはまた、別の、おはなし。

 

 さいごに、来年の抱負を10個、書いておきます!!一年後ちゃんと振り返ることができるように!!!

 

① プライベートの翻訳の仕事を完遂する

② ①を達成するために会社の仕事量に上限を設定し、1週間にどんなにすくなくとも10時間は語学の勉強や作業をする時間を設ける

③ 宗教学の専門書を年間30冊は読む

④ 貯金をする

⑤ 仕事より自分の心と身体を優先する(死にたくない)

⑥ いまある友人関係を大切にする(苦しいときに支えてもらった恩返しをしていく)

⑦ 『論理と集合から始める数学の基礎』と『ミクロ経済学の力』のテキストを終わらせる

⑧ 3泊以上の旅行をする

⑨ 仕事に必要な経理労務、法務の知識をつけ、実務で使えるレベルまで鍛える

⑩ 2021年12月31日まではいまの会社を辞めず働いて、致命的なリスクを事業から排除する

*1:見得と見栄は区別してほしいものだが…

*2:皮肉ではなく、ほんとうに愛おしいと思う。

*3:とはいえ、記録を残さない、リスクを正確に判定しない、合理的な判断をしない、現実を都合の良いように解釈して相手方の考えを確認しない、実務を軽んじる、法律を知らない、という人たちは失敗して当たり前なのかもしれない。仲良しごっこで上手くいくほど世の中甘くないと思うけど。

*4:おそらくこのブログを読むであろう社長へ。このまま変わらなければ会社は長くもたないので、これからも忌憚のない意見を言い続けますが、私の諫言が耐えがたいほど疎ましくなったらいつでも会社を辞めるので言ってください。転職までの時間の猶予はほしいですが。たんなる友人としてだけの関係に戻ります。

2020年6月~10月までの自分でつくった料理メモ

 店で飲み食いしたものもそのうち書かなきゃなんだけど、とりあえず自分でつくったものをまとめておく。11月分は次回以降にまわします。

 

①2020年6月6日 鮑粥

 近所のスーパーに大きい鮑が売っていたのでちょっと高いけど買って帰った。6月の梅雨前の暑い季節のことである。ここいらで精をつけようと思った次第。3000円くらいしたかな。

 米を洗ってザルにあげておく。鮑は塩をまぶしてよくこすって洗い、殻から外して口を取り除き、身とと肝にわける。肝はザルで濾して、ペーストを洗い米と混ぜてしばらくおいておく。鮑の身のほうは薄切りにしておく。

 鍋にごま油をしき、肝のペーストを吸わせておいた米を炒める。ゆっくりいためて、米がもったりしてきたら水を注ぎ煮ていく。鮑の身も早い段階で入れてしまって、今回は出汁の役割を担ってもらった。お米が割れてふんわり華が咲くまで炊けば完成。

 付け合わせはキムチ、ミョウガの甘酢漬け、キュウリをごま油と日向夏の皮の千切りと塩で和えたやつ。酸味と柑橘の香りが初夏にふさわしい。

 鮑粥はいままで何回かつくったことがあるけど、肝をペーストにして米と混ぜておいて炒めるってこのやりかたを今後も踏襲しよう。いままで肝を細かく刻んで入れていたけど、肝の旨味は全体に行き渡らないし、縮んだ肝の皮の食感は悪いし、磯臭さが残るし…と思っていたのがすべて解消された。さいしょに米にペーストを吸わせるから間違いなく粥全体に行き渡るし、肝の皮は濾したときに取り除いてしまうし、肝を米といっしょに炒めるので磯臭さをやっつけられるし、いいこと尽くしだ。

 美味しかったな…。安くていい鮑があればまたつくりたい…のだけど、最大の障壁は値段ではない気がする。刺身で食べたい気持ちより粥を食べたい気持ちが勝たなければいけない。他の調理法とのバトルだ。鮑を摺り下ろして食べるやつも一回やってみたい。鮑粥のように、高級食材は使うけど地味、みたいな料理は、自分でつくろうってよりも、誰かを気遣ってっていうほうがつくる気が起きやすいかもしれないね。夏バテしてる人を元気にしよう!とか、そういうときに鮑粥!って発想になると思うし間違いなくつくると思う。

 

 

 

②2020年6月10日 自宅居酒屋

 居酒屋みたいなメシを自分の家で食べたい!!という欲が湧いてきた。理由は社長に居酒屋に連れて行ってもらって、そこがよかったからだ。つくったのは以下。

 

・煮蛤と冷やし茄子、インゲン豆

 蛤を煮てその煮汁に皮を剥いて火を通した茄子とインゲン豆を浸す。それぞれ冷やしてできあがり。美味しい。

 

・蛸の緑酢

 蛸はそぎ切りにする。キュウリは中の種を取り除いてすりおろし、ニンニクのすりおろしも少しいれて、薄口醤油と米酢で調味して蛸にかけるだけ。夏っぽくてよい。

 

・トマトの出汁びたし

 トマトを湯剥きして冷ました出汁にひたす。一日経った後くらいが味がなじんで美味しい。

 

穴子酒蒸し

 昆布を鍋にしいてそこに酒、塩と少しのみりんで液をつくりぬめりをとった穴子を並べて落し蓋をして煮る。

 

・鰯の酢締め

 鰯はスーパーで三枚おろしにしてもらって、速攻家に帰って水分を拭き取り腹骨をすいて、塩と砂糖を振って30分程度置く。氷をいれた酢水で洗って塩と砂糖を落とし、再度水を拭き取って、米酢につける。どれくらい酢につけてたか忘れたけど、つけすぎでもそれはそれでいい。塩だけでなく砂糖を使うかどうかは好みの問題ではあるが、青魚でも脂が多い鰯は砂糖があったほうが味のバランスが取れる気がする。つけあわせは生姜、ミョウガ、大葉、カイワレ大根を水にさらして水気を拭き取ったもの。それとわかめ。

 思うんだが、魚をスーパーで買うしかなく、かつ切れ味の悪い庖丁しかもっていないと、家で美味しい刺身って望むべくもないので、こうやってひと手間かけたほうが美味しく食べれるんではなかろうか。市場で目利きして魚を購入し、自分で手入れした柳葉庖丁で刺身をひく、って、そこまでやるのはプロの仕事だ。

 

・ヤングコーン

 ヤングコーン美味い。オーブントースターで皮をむかずに20分ぐらい蒸し焼きにして食べる。ヤングコーン美味しい。

 

・ズッキーニのポワレ

 ネットで見つけたレシピでフライパンでゆっくり火を通して、塩をふってミントを散らせば完成。焦げた部分が芳ばしくて美味しい。

 食後は日向夏の皮の白いところを残して剥き、輪切りにして食べる。美味しい。

 

 翌日の昼ごはんは穴子と鰯とトマトと薬味とキュウリを乗っけて冷やし中華になりました。豪華!!よかったですね。穴子の残りでキュウリと酢の物をつくったりしました。

 

 

 

③2020年7月4日 自宅居酒屋ふたたび

 家に友人諸氏を招いて居酒屋ふたたび!!

 

・牛頬肉と椎茸の山椒煮

 牛頬肉を一口大に切って、湯引きする。干し椎茸を水でもどす。牛頬肉と干し椎茸を椎茸をもどした出汁で炊く。醤油と砂糖と味醂と酒で調味する。1時間程度煮て、実山椒(今年はちまちま仕込んだぞ…冷凍しておいた)を入れて汁気を飛ばして出来上がり。これは、牛肉と椎茸の旨味がすごくて最高。牛頬肉さえ簡単に手に入ればしょっちゅうつくりたい。今回は実家から送ってもらった物資の牛頬肉(私のリクエスト)。

 

・竹の子味噌煮

 八丁味噌味醂と醤油と水で溶いて、タケノコを煮るだけ。タケノコは鍋で煎って水分を飛ばしてから調味料を入れます。これにも実山椒を入れる。タケノコは水煮の状態で長持ちしないから、こうやって塩分強めで再加熱して調理するともうちょっと長持ちする。

 

いんげん豆生姜醤油

 インゲン豆をさっと素揚げにして出汁で割った生姜醤油をかけて鰹節をちらすだけ。地味に美味い。

 

・鶏ささみと三つ葉の辛子醤油和え

 鶏ささみを霜降りにして、茹でた三つ葉と和辛子と醤油で和えるだけ。

 

・鰹酒盗和え

 刺し身用の鰹の血合いを取り除いて、細長く切って、酒盗と少しの醤油で和えて、小葱をちらし、山芋の細切りを添える。これも家で真正面から刺身を食べたくないと思った結果。家では和えたり締めたり漬けにしたり霜降りにしたりして生魚を食うのがよい。

 

・玉蜀黍とチーズの春巻き

 生の玉蜀黍とチーズを春巻きで巻いて揚げるだけ。これ美味しい。

 

・どじょうの天婦羅花椒かけ

 スーパーにどじょうがあったので。

 

・太刀魚ソテー日向夏玉葱らっきょうソース

 太刀魚をソテーして日向夏の皮と玉ねぎとらっきょうみじん切りにして塩で調味したソースをかけるだけ。伏見唐辛子も太刀魚といっしょに焼いて添えます。

 

スルメイカワタニラ炒め

 スルメイカとワタといっしょに炒めてニラを最後に入れてさっと火を通して醤油で味付けて美味しい。胡椒をきかせる。

 

・冬瓜桜海老

 冬瓜と桜海老を出汁で炊いてとろみをつける。

 

・蛸の緑酢、鰯の酢締め、煮蛤、プチトマト出汁浸し、ズッキーニポワレは前回といっしょ

 

 

 

④2020年7月8日 牛筋の土手煮

 牛筋土手煮です。牛筋と蒟蒻。牛は飛騨牛。カクキューの八丁味噌100%一本。それと砂糖。

 数時間煮る。葱をかけて、一味唐辛子かけて食べる。美味しい。

 つくり方は父親の旧くからの名古屋の友人の奥様に電話してきいてみた。つくってみたけどそこの家の味にぜんぜん勝てないな…。

 ところで、うちの父親が、そこの家は飛騨牛が好きじゃないって言ってたけど、自分でつくってみるとその理由がよくわかった気がする。飛騨牛は香りが弱いんだよな。もっといい意味での牛肉臭さがあったほうが八丁味噌のクセと釣り合いそう。

 

 

 

⑤2020年7月8日 山盛りの唐揚げと杏ジャムサワー

 唐揚げをつくった。友人に杏をもらったのだが、そして私の大好物なのだが、もう熟しきってぐずぐずだったのと、杏の口腔アレルギーがあるのでジャムにしました。そのジャムとアルコールの高いウォッカ的なやつを混ぜて炭酸で割ると杏ジャムサワーになる。唐揚げと杏ジャムサワー。最高だ。

 

 

 

⑥2020年7月12日 カレーとポテトサラダ

 牛スネ肉でカレーをつくる。市販のルーを使ったふつうのカレー。ただし牛肉はたくさん使う。玉ねぎはいっぱい炒める。いろんなカレーが好きだけどこういうのがいちばんいいかも。翌日はカレーうどんにしました。

 ポテトサラダはベーコンとキュウリとゆで卵と玉ねぎが入ったやつ。

 

 

 

⑦2020年7月21日 鰻

 どうしても我慢できずに鰻のかばやきをスーパーで買ってしまった。鰻絶滅キャンペーンに加担してしまった…。例年ならスーパーでは買わないのだが、欲望に負けた。

 うざく、う巻き(これはう巻きになったのを購入)、肝焼き、うな丼……鰻とかいう生きもの、美味しすぎない?ふわっととろっとこってり美味しい。ヨシエビも売っていたので茹でて食べた。

 日本酒は福井の舞美人。舞美人と鰻、完璧に合うじゃん。甘酸っぱい舞美人にこっくり甘辛の鰻…。

 鰻ってやっぱり美味しいね。ほんとうに美味しい。

 

 

 

⑧2020年9月10日 山椒じゃこ、かりもりの昆布締め、冷やごはん、冷たい麦茶

 9月はしばらく実家に帰っていた。体調が死ぬほど悪くて、しばらくゆっくりさせてもらいました。

 かりもりとは愛知県やその周辺の地野菜で、しろうりみたいなかんじかな。それをちょっと塩して昆布締めにする。それと山椒じゃこ(これは母親のつくったやつです)。これを冷やごはんにのせて冷たい麦茶を注ぐ。お茶漬け。実家、最高か?????

 なんか余っちゃった冷やごはんと、冷蔵庫に沸かした麦茶の冷やしておいたのと、作り置きのなんかがあって、よし、小腹が空いたからお茶漬け食うか!という思いががはじめて現実化する。実家って素晴らしすぎないか!!!????

 かりもりのカリっとした食感とウリの爽やかさと冷たい麦茶と、夏の暑い夜に食べると最高に美味しいんだ。

 

 

 

⑨2020年9月11日 ニラと豚肉の黄身酢、焼きナス、宿儺南瓜炒め煮

 ニラをさっと茹でて水にとって水分を搾る。適度な長さに切る。豚肉も茹でて(湯に塩をいれて少しだけ味をつける)こっちは水にさらさないで適度な大きさに切る。一口で食べたいから3センチ弱幅くらいかな。これに黄身酢をかける。

 黄身酢は卵黄に砂糖、味醂、醤油、酢、酒を混ぜて火にかけながら練ったもの。火を止めてから和辛子を入れてさらに練ってできあがり。

 焼きナスは魚焼きグリルでじっくり焼いて、皮を剥いて醤油をかけて食べる。じっくり火を通した茄子って焼きいもみたいな香りがして美味しいよね。

 宿儺南瓜は岐阜の地野菜で、繊維質が少なく粒子が細かいのが特徴の南瓜。長細い形をしている。これを0.5センチ幅くらいに切って、葱と炒め煮ににする。フライパンに油をしいて、小口切りにした葱を炒める。焦げたにおいをつけたくないので、じくじく炒める。そうして水分を飛ばして葱の刺激臭が抜けきったら南瓜を投入し油をまわして水を加えて煮る。あとは塩のみで調味。南瓜が柔らかくなれば完成。こういう地味な料理、最高だな。

 

 

 

⑩2020年9月23日 海老

 セミエビ、クルマエビ、シロエビ、ボタンエビを一挙に食べる暴挙に出た。

 セミエビとクルマエビはボイルして、シロエビとボタンえびは生で。シロエビははじめて殻を自分で剥いて食べてみた。果てしない作業だけど、食べてみると「富山湾の白い宝石や~~」と叫べる納得の美味しさ。あれは手間の美味しさ、おもてなしの味なんですね。自分で剝いてはじめてわかるありがたさ。

 セミエビは…イセエビには勝てないかな…。セミエビ、口いっぱいにエビを頬張るという、人間がなしうる贅沢の極限の一つを体験できたのはよかった。

 

 

 

⑪2020年10月15日 しっぽ汁

 つくりました。食べました。美味しい。

 

 

 

⑫2020年10月24日 帰ってきた自宅居酒屋

カマスの柚庵焼き

・イナダの漬けの手毬寿司

・酢締めのサンマ

・柿と胡桃の白和え

・焼き椎茸と菜の花のおひたし

・きぬかつぎ

・小ヤリイカ

・煮穴子

・シロウオ入り出汁焼き玉子

・煮豆腐

・四方竹と牛肉の炊いたもの

・赤貝ヒモと胡瓜の酢の物

・秋鮭混ぜご飯とイクラの醤油漬け

・九条葱と合鴨ロース出汁漬け

 

 

 

⑬2020年10月25日 イシモチ塩煮

 前日の居酒屋で醤油味に疲れてしまったので、イシモチを煮るときは塩と水のみ。生姜も酒も甘さもいらない。居酒屋和食は美味しいけど、醤油疲れするな…。しませんか?

 イシモチは前日に買ったものだが、買って帰ってきてすぐに鱗をとって鰓と内臓を抜いて、念入りに水分を拭き取って冷蔵庫にいれておいたもの。丁寧に処理して水分を避ければ、こういう白身魚は生のまま3日くらいは(火を通す前提で)保存がきくように思う。煮た後、酢橘をひと搾りしてスライスも添える。しみじみ美味い。

テールスープ、もとい、しっぽ汁のはなし

 社長とか取引先の悪口をいっぱい書いてやろうと意気込んでいたけどけっきょくぜんぜん書けなかったな…。怒りが心のなかでスパークしてそれがまた別の怒りに火をつけてスパークしていく。そうしてはじけては消える怒りの感情の手触りはたしかにあるのに、その激情が向いている対象はけっこう複雑で、なかなか単純化できない。特定の人や組織に怒りは向くものの、怒りを引き起こす彼らの言動はさまざまで、整理がついていない状態だ。おそらく正確に記述するためには、怒りの感情から離れて、冷静に事実を見る目が必要となる。したがって、怒りの感情が下火になるまで待たれよ。仕事は続くので怒ってばかりはいられない。事実を淡々と記述し、ひとつひとつに対処する方策を考えていかなければならない。人生という冒険は続くのだ。怒りにかられても、それで体調を崩しても、おそらくしばらくは。

 

 先週の水曜日にテールスープをつくった。実家に帰ると、たんに「しっぽ汁」と呼ぶ。「テールスープ」なんてかっこいいカタカナでは呼ばない。それはお店屋さんでの呼称だ。牛の尻尾の肉を使って汁物をつくるから「しっぽ汁」。きわめて明快。お店屋さんに向かない典型的な料理のように思う。牛の尻尾を大量に使いコンロを占領し時間をかけるが工程はシンプル。出来上がるものは地味。こういうのはお店屋さんではなかなか提供しづらい。

 つくり方は以下。

 親にたのんで地元で買って送ってもらった飛騨牛の尻尾1.5㎏を冷凍しておいたので、これを冷凍庫から出して一晩かけて自然解凍する。信頼のおける肉屋で買っているので綺麗に処理してもらっているが、肉についているよぶんな脂の塊を包丁でさらに削ぎ落し、沸騰したお湯で湯引きする。冷水にとってよく洗う。表面に牛の毛が付着していることがあるのでひとつひとつよく見て洗いましょう。鍋で牛の尻尾をニンニク数片とともに水から炊く。中火の強火で沸騰するまで。沸騰したら弱火に落として3時間くらい煮る。これまた実家から送ってもらって冷凍しておいたあく抜き蕨を投入し、さらに2時間程度煮てできあがり。

 肉は合計5~6時間ていど煮れば関節の軟骨が外れるくらいになり、骨から肉離れが良くなるのでそれくらいまで煮ましょう。これ以上煮ると肉の味が抜けてしまってよくないと母親には言われるがどうなんだろう。蕨を途中から入れるのは、煮込みすぎると繊維がほどけてどろどろになってしまうから。牛の出汁を吸いつつも食感が残っていた方が美味しい。

 上記のつくり方を見てわかるように塩味はついていないので、調味は食卓で行う。各自塩で味を調えるか、小葱の小口切り、すり胡麻、韓国産唐辛子、醤油を混ぜ合わせた調味料を入れて食べる。肉は小皿に出して先ほどの醤油ダレをかけたり塩をかけてスープとは別に食べてもいい。ご飯を食べるときはスープで湿したスプーンで掬い、汁に浸して食べる。小皿に取り出して塩味を足した肉といっしょに箸で食べてもいい。

 米を食いすぎてしまう…。どんぶりに牛の尻尾関節大小ひとつずつ入ったスープ1杯で白米を1合くらい平気で食べてしまう。家で大量につくる煮込み料理系、たとえば豚汁とかカレーとかいろいろあるだろうけど、そういうたぐいのものではしっぽ汁がいちばん好きかもしれない。牛肉出汁一本勝負のストレートな力強い味わい。いまならこのことの良さが理解できる。昔は脂と肉臭いのがダメだったが。これが美味しく食べれるようになったのはたんに歳をとったからなのか、それはわからない。

 

 さて、ざっくりとつくり方と食べ方を紹介したが、細かく見ていくと、じつは上記ではないやり方がたくさんあるなかで上記のようなやり方を選んでいる。

 まずは調味の仕方について。私はてっきり母方の祖母の味そのままだと思っていたのが、どうやら違うらしい。数年前祖母に電話で聞いたところ、鍋のスープに直接調味してしまうのだという。塩と醤油と味醂と味の素で味をつけてしまうのだという。(母親曰く味の素についてはそんなん入れへんとのことだが時代だし入れていたときもあっただろうと思う。牛の濃い旨味がでるから実際不要だが、昆布を入れないのでグルタミン酸の旨味を足すのは不合理ではない。)母親にこの件聞くと、卓上で塩味か醤油ダレで調味するのはむしろ、父方の祖母のやり方で、父親に合わせていたというのだ。直接父からリクエストがあったのか、父方の祖母に教わったのか、父の実家に行ったときに見て学んだのか、そのあたりはわからない。とにかく、母の家のやり方ではない。

 具について。乾燥ではないフレッシュな蕨が至高ではあるが、通年手に入るものではないので、大根を使うパターンもある。

 肉の下処理について。母親から教わったつくり方だと肉はさっと表面の色が変わるていどの湯通しで終わらせるが、一度水から炊いて茹でこぼすパターンもあるし(これについてはいい肉を使っているので我が家では不要という認識)、下茹でしないパターンもあるだろう。また、生の状態の肉から私はさらに脂を除去してしまうが、母親はそこまでしない。仕上がり時に鍋の表面に浮く脂の量や肉につく脂の量は好みの問題だ。

 肉の炊き方については、水から茹でる人も湯だったところに肉を投入する人もいるだろう。アクは徹底的に掬うが、肉から出てくる脂をどこまで取り除くかは私と母親ではスタイルが異なる。母はけっこう脂を残すが、私は母のつくるものの半分以下ていどしか脂を残さない。我が家のやり方では温度は小さい泡が立つていど、おそらく90度前半くらいで長々と炊くが、もう少し火を強くして炊く家もあるように思う。脂を残せばコッテリする。強火で炊けばスープが白く濁っていく。あと、同じ素材で同じようにつくっていても、どうしても母親と自分のだと仕上がりに明確な違いが出てしまう。母のしっぽ汁のほうが、味が濁っていて(悪口ではない)パワーがある。今回、実家に帰ったときに沸いた鍋をみて沸騰の加減を確認した記憶をもとに、同じくらいの火加減でやってみたら少し近づけたように思う。ちょっとだけ火加減を強くした。一度に仕込む量の問題もあるだろう。実家で作る場合は単純に食べる人数が多いから肉も倍量くらい使うし、鍋もでかい。そうすると火の入り方は当然違ってくる。もう高齢でつくれないが、母方の祖母がつくるときは昔は牛の尻尾3本をでかい鍋で炊いたらしい。(尻尾の肉何kgじゃなくて本でカウントするんだ…という気持ち。肉屋でそういう注文するんだろうな。大阪で蒸し豚を買うときも母親についていくと何gでくれとかじゃなくアバラ何本分くださいで注文するからそういうやり方もある。)

 全般的にだが、私の場合、下手に料理知識があるから手を動かしていると無意識にキレイな味にしようとしてしまう。肉からは脂を除去してしまうし、アクはこまめに取り除いて脂も掬ってしまうし、火は極弱火にしてしまうので、母親よりキレイな味をつくってしまう。それに、諸々の家事をやりながら炊く母親と休日にたっぷり時間を使える独り暮らしの私だと条件が違う。肉の脂を取り除く作業も量が倍になれば時間も倍になる。

 食べ方については、昔はスプーンで具を掬って食べるという所作が私にはできなかった。汁だけを掬って飲むのはできたんだが。習得したのはたしか中学3年生くらいだったように思う。店でユッケジャンスープを祖母が食べているのを見て真似したらできたように記憶している。肉をスプーンでほぐし、蕨といっしょに掬ってスープごと口中に運びそれでいてこぼさない所作はけっこう難しい。ただ、これができるようになったほうが一度に複数の素材を口中で味わえるので美味しいし、箸に持ち替えなくてよいので食事のグルーヴ感が維持できる。これができるようになるまでは食べにくい料理だと思っていた。この食べ方は(正しく本来はこうあるべきという)マナーではないが、「これを食べるときにはこうする」という一種の型、身体技法である。

 調味法/具/肉の下処理/炊き方/食べ方に至るまで、一杯のスープにいろんな文脈がのっかってくる。最終的に口に運ばれ味として認識されるまでにさまざまな分岐があるが、そのうちのあるひとつのルートが選ばれるのは、母から娘、そしてそのまた息子への継承、家庭内の夫と妻の権力関係、食べる人つくる人の好みの対立、肉やその他素材の流通環境、使用する調理器具、家族の構成人数、食べる量、家庭内で置かれている役割による料理にかける熱意の配分、食べ方の身体技法の習得等々が相互に作用した結果の出力なのである。

 

 さて、ここからが本題かもしれない。

 このように「私のしっぽ汁」を語ることになんの意味があるだろうか?私という個人の、その嗜好性のルーツを探ること、それは私という存在の唯一無二性、ある種の必然性を求める運動であるかもしれない。しかし、この語り直し、は必要なのだろうか?しっぽ汁はたまの贅沢で出る料理ではあるけども、家族の外(社会とか?民族とか?国家とか?)に対して殊更にこんなものがある!と主張しなければならない理由はない。日常の営みは、誰に言わずとも続いていくものである。しっぽ汁が生活に完全に溶け込んでいるとき、アイデンティティの拠り所として意識に前景化しないはずだ。

 そもそも、他のつくり方もあったはず、という認識の仕方からしてすでに変だ。そりゃ、可能性としてはあるが、それは料理についていろいろな知識を持っているから可能性を考慮できる。あるいはレシピとして書き出すこと、再現可能にすること。それはいま自分が置かれている文脈から料理だけを切り離して操作を可能にする、あるいはできると思っているということだ。家庭料理のつくり方(レシピなんて大仰なものではない)を訊ねるとき、しばしば味の根幹にかかわる部分でさえ曖昧な答えが返ってくるのはよくあることで、つくる本人たちは当然のこととして、生活の一部としてつくっているから、わざわざそれを反省的に意識することはないから言語化できない。その必要性がないからだ。先日も父親の友人の名古屋のマダムに土手煮(牛すじや豚モツを赤味噌、主に八丁味噌で煮込む料理)のつくり方を聞いたとき、味噌はカクキューの八丁味噌100%のものか米味噌をブレンドしたものか、出汁を使うか否かについて「どうだったかな…」という返事が返ってきた。そういったものを、書き起こし、固定し、家庭の味、地方の味として披露するあなたは誰か?

 もし、私がしっぽ汁が家庭から消えてしまう(おそらく失われていく料理だろうと思う)という危機感をもって全国にちらばるしっぽ汁のレシピのバリエーションを収集し、しっぽ汁はこういうふうにつくるんだ、保存しよう、となったらこれは立派な民族のアイデンティティを主張するポリティクスになる。だけどもし、あなたがしっぽ汁について情報を収集して発表するとすると、あなたは誰?

 もしも、しっぽ汁一杯(これは一例です)が生み出されるまでのさまざまな文脈の重なり合いを文化と呼ぶのなら、その文化を語ることは、日常実践の複雑に絡み合った意味の網の目を解きほぐすことを指すはずだが、その作業もすでに日常実践への介入であり、意味の網の目のダイナミクスへの参入である。

 

 まあ、こんなことは、何十年も前から言い尽くされた平凡な話*1なんだけどね。今年転職してから「文化を盛り上げよう!」とがんばる人たちと仕事することが多々あるのだが、みんなふわっとしているというか、「文化」って言葉はずいぶん軽く使われてるな~というお気持ちがどうしても発生してしまって集中できない。ということで書きました

 仕事関連の人たち!!もし読んでたらごめんなさい!!!!!!

 

 以上です。

 

*1:参与観察者も無関係ではいられないという話。たとえば、宮本常一、安渓遊地『調査されるという迷惑―フィールドに出る前に読んでおく本』みずのわ出版(2008)などを念頭に置いています。