暖かい闇

酒と食事と過去

酒、酒、なぜ酒?

「いろんな局面で、いろんな目的を持って飲酒が行われている。それを忘れて、酒、酒、酒、となっていた。酒がいろんなことを解決してくれるように思っていた。それぞれの目的に適う手段は本当に酒なのか?」と前回のエントリーで書いた。
僕は漫然と酒を飲んでいた。

漫然と酒を飲み、曖昧になり、嫌なことから目を背け、逃げていたのだ!

なんと愚かな!

今はそんな気分です。
いろいろと反省している。

では、なぜ酒でなくてはいけなかったのか?他のもので代替できなかったのか?
酒でなくてはいけなかった理由、もしくは酒でなくてはいけないと思い込んでいた理由について。

まず飲料のなかで酒は優れている。優れている点はズバリ、アルコールにある。なにもアルコール中毒者の戯言ではない。水に溶けにくい香気成分をアルコールは抱え持つことができる。アルコール無しでは表現できない香りの世界がアルコール飲料にはあり、そこは優れた点と評してよいように思われる。

嗜好品としての酒も、嗜好品としての条件を満たしていると思われる。
煙草とかお茶とかコーヒーとかと比べてみると、私には嗜好品の共通項は①抵抗性②複雑性③多様性に求められるように思われる。
①抵抗性は長く愉しむための条件だ。煙草もお茶もコーヒーもお酒も苦くのみにくいが、その抵抗性によって愉しむ時間を長く引き延ばすことができる。ゆっくりと味わい、中身を検査する時間が与えられる。
②複雑性は深く愉しむための条件だ。様々な香気成分や味わいの複雑さがある一定の閾値を超えれば、その複雑さを「読む」営為が発生する。一口のむ毎に、その掴み難い正体を掴もうと、その味わいの本質を掴もうと、追いかけっこがはじまる。そこにあるものの真意を探り、理解しようとする探究の愉しみがある。
③多様性は違いを愉しむための条件だ。同じ原料を使っていても産地や製法によって味わいに全くの差が出る。比べる愉しみがここで生まれる。
嗜好品としての条件を満たすことは酒でなくてはいけない理由にはならないが、人間の快楽を増大させる可能性をもつものとして酒を一つの手段に選ぶことを正当化する。しかしまた、酒が嗜好品として人間の快楽を増大させる可能性をもつものと認知されたとき、人はその世界の大きさに触れ、これでなくてはならないと思うものでもある。他の世界にはない、そこの世界にしかないものを知るからである。

以上、不完全ではあろうが、酒の素晴らしさ、酒でなくてはいけない理由、代替不可能性みたいなのについてぼんやり考えてみた。
だがこれは、酒を酒ゆえに愉しむことの説明、つまり酒を酒を目的にして飲む理由だろう。
次回は「酔う」ことに何を私は求めていたのか考えてみる。