暖かい闇

酒と食事と過去

毎日酔っ払っていたい

世界には酒を主食にする民族がいるらしい。
エチオピア南部のデラシャという人々はトウモロコシから作った酒を主食としているという。(JStageとかでpdfダウンロードできる砂野唯さんの論考で知った。3月には単著も出るらしい。買います。)
もっとも、アルコール度数3%前後のものを日中飲み続け、酔わないようにはしているらしい。酔うと農業できなくなっちゃうからな。
ヨーロッパ中世では、酒=ワインが主食とまでいかないが日常の飲料だった。厳しいことで知られるベネディクト戒律では1日0.75リットルが標準だったという。
もっとも、ワイン瓶1本ぶん、じゅうぶん多いように思えるけど、酔うことには配慮が求められていたよう。酔ってたら祈り働けないからな。

べろべろに酔っ払って、かつ、毎日楽しく生活するなんて無理なんだろうか。酒を主食にしてたって、日常の飲料にしてたって、酔うことはあんまり良いことではないらしい。夢想してしまう。毎日美酒をあおり、酔って、笑って過ごす日々を。

酒を飲まないと酔わない。逆に、酒を飲むと酔う。禁酒期間に前者を発見し、禁酒あけに後者を発見した。ジュースを飲んでいると酔わない。不思議だ。お酒を飲むと酔う。これも不思議だ。酔っ払って放歌する。楽しい。酔っ払って笑う。楽しい。

酔っ払って毎日過ごしていたい。

って思ってしまうのだけど、私は酔いに何を求めているのだろう。

答えは複数あるのだろうが、先日友人と話してて「恍惚というか意識の曲線をどう描くかみたいなのが答えじゃない?」と返ってきて、このごろはそうかもしれないと思う。いまここが、いまここじゃないどこかに裏返る奇跡を望んでいる。そういうことを求めていない?味が旨いだけではその「裏返り」には足りない。積極的に、意識に変性をもたらす何かが追加で必要。で、アルコールによって「酔う」ことが求められる。
友人は音楽や文学といった諸芸術にそれを求め、どうやって「酒無しで」「意識の曲線を描く」かを問うていたが、僕の場合、短絡的だからまず酒に飛びついている。お金を払って飲めば陶酔できるのだから簡単だ。
結論として、私は意識の変性状態を求めて酒を飲んでいる。意識の変性状態を求める性向がまず私自身にあり、その性向を満たすために酒を求めている。


まあ、今回も酒でなければいけない理由は見つからなかった。なぜかって、意識を変性させる方法は他にも、しかも強力なのがいくつもあるからだ。いくつかのドラッグがそれだろうし、いくつかの瞑想方法も意識を変性状態にいざなってくれるだろう。
(実のところを言うと、ドラッグや瞑想に走らないために酒で満足感したつもりになっているのかもしれないと思うことがしばしばある。僕は向こう側に行くのを恐れているのだ。)

(こんなことを書きながら、ウィリアム・ジェイムズ『宗教的経験の諸相』をぱらぱらと読んでいた。「病める魂」が幸福になるためには二回の誕生を必要とする。
以下を読んでますます沈んだ気分になっていた。
「二度生まれの者の宗教にあっては、世界は二階建ての神秘である。平安は、ただプラスの
ものを加え、マイナスのものを生活から消去するだけでは達せられない。自然的な善は、ただ量的に不十分で移ろいやすいというばかりではなく、その存在自体のなかに、ある虚偽が潜んでいるのである。〔…〕要するに自然な生命と霊的な生命との二つの生命があるのであって、私たちはその一つに与りうるためには、まず他方を失わなければならない」(pp.251-252)岩波文庫『宗教的経験の諸相』桝田啓三郎訳)