暖かい闇

酒と食事と過去

2023年2月4日 飲食日記 洋食屋さんに行った

 2日前、友人と中目黒にご飯を食べに行ったところ、信号待ちで立ち止まった私たちの前を手をつないだ母子が通り過ぎていった。少年はひとりでしりとりをしており、一部聞こえた箇所が、曰く「うなぎ → 銀色 → ろくろ首」であった。私たちは狙っていた洋食屋が予約で満席になっていて入れず、失意のうちに駅に戻る道中だった。目当ての店には行けなかったが、「うなぎ → 銀色 → ろくろ首」が偶然聞けただけでその日は儲けものだったと思う。うなぎは成魚になると銀うなぎと呼ばれ、光沢が出てくる。ろくろ首は形状がうなぎに似ている。このろくろ首、メタリックな感じがしないだろうか? おもしろい。あの少年、意識してそういうイメージを繋いでしかもしりとりをしていたとするならば、なんと明敏な言語感覚を持っているのだろう。都会には賢い人がいっぱいいるのだなあ(こなみかん)。ついでながら、私もその場でとっさにろくろ首に続く単語を頭のなかで連ねてみた。「毘盧遮那仏東大寺の) → 積み木崩し」と2単語が転がり出てきた。我ながら酷いものである。金属色が肥大化し、そして家庭が崩壊した。どうやら私には不意に聞こえた子どもの声のうちに啓示を読み取るだけの魂の器がなく、ヒッポのアウグスティヌスにはなれないらしい。

 今日は銀座の煉瓦亭に友人と行ってきた。今日も最初はリベンジで中目黒に行ったのだが、たいへんな行列で断念した。すぐに日比谷線で銀座に移動した。煉瓦亭も並んでいたが、席数も多いし、回転も速いだろうということで待つことにした。中目黒の仇を銀座で討つ。もはや中目黒という街に嫌われているのかもしれない。私も嫌いだ。(と言いつつ中目黒周辺のとても美味しい店に複数行っているのでこれだけで邪険にするのもバチが当たる。リサーチ不足は自分のせいだ。でもお腹が空いているときはそういうふうに思ってしまうよね。)

 注文したのはオムライス、ハヤシライス、ポークカツレツ、カキフライ。前回行ったときも思ったが、やはり煉瓦亭の揚げ物の衣は素晴らしい。よーく近づいてポークカツレツの表面を観察してみると、衣が立ち上がっているのがわかる。これは関東ローム層の霜柱である。(関東ローム層は霜柱ができやすいのだ!)見た目だけではない。食感もだ。冬の日の朝に霜柱を踏みしめるような、シャク、シャクという儚くも軽快な食感は、他には類のない、そしておそらく真似することの困難な老舗の秘術のなせる技である。そう、霜柱のできやすい関東ローム層の霜柱から着想を得、西洋料理コートレットを改良して生まれた食べ物が煉瓦亭のポークカツレツだったのである。東京の土壌の特性あってこそトンカツは生まれたのだった。東京で生まれたことには必然性があったのである。(すべて嘘。)

 カキフライも同様に軽快な衣だった。タルタルソースは塩と酸の穏やかな上品な仕上がりで、素材の味を活かしたいという気概を感じる。付け合わせには、ポテトサラダと、キャベツ主体でキュウリとニンジンが少し入ったサラダが添えてある。この一見なんの変哲もない野菜のサラダが絶品だった。ひと手間、フレンチドレッシングで和えてあり、コールスローのようなサラダだ。ふんわりと和えてあるため軽い。ドレッシングの油脂で全体をまとめて複数の野菜に一体感を生みながら、咀嚼すると野菜の食感と味がわかる、これまた塩気と酸味が抑えられた上品な味わいで、この付け合わせのサラダだけボウルいっぱい食べて帰っても満足だろうと思えた。老舗かっこいい。

 ハヤシライスもおもしろかった。限界まで色を付けただろうブラウンルゥの香ばしさが特徴的だった。いや、香ばしさ? あるいは人によっては焦げていると感じたり苦いと感じたりする場合もあるだろう。一口目、人間の不快の閾値の下限の下のその上辺をさらっと撫でて去っていき、すぐさま深みやコクに落とし込んでいく味の変わり身の速度に驚いた。さて、このような味の冒険を新規開店の店の料理でできるだろうか?と考える。唸る。エッヂを攻め続けることができるのは開拓者であるからなのか。西洋料理への冒険を現今に伝えるハヤシライスは、堂々たる老舗の風格を顕していた。

 私たちは3階の座敷に上がって食べていたのだが、サービスの若いお兄さんが印象的な臙脂色と橙色の中間のような色の靴下を履いているのが目に留まった。そのお兄さんが配膳をするときに座敷に上がるので靴下の色が見える。すぐに目の前の友人に気づいたことを話したところ、「あれは煉瓦の色だよ。ここは煉瓦亭なのだから。」とのこと。偶然かもしれないが、妙に合点のいく説明でおもしろかった。白いワイシャツと黒のスラックスに黒いベストの装いはクラシックな洋食屋にふさわしい店指定の支給品なのだろうが、靴下はどうなのだろう。あの店員さんが自主的な判断でレンガ色の靴下を選んで職場に履いてきているならば、素敵な人だし、素敵な職場だな、と感じた。

『THE FIRST SLAM DUNK』視聴感想。エゴイズムの在り方について。

 まさか2022年の年末にこのような大傑作に出会えるとは思ってもみなかった。おそらく私はこの先ことあるごとにこの映画を思い返し、そのときどきの糧とするだろう。

 

最初に弁明

  • この記事は、私の個人的な感想の備忘として残すものです。
  • 未視聴の方にとって重大なネタバレを含むのでご注意ください。
  • というか観ている前提で書くと思う。
  • 未視聴でこのブログを目にした私の友人諸氏はぜひ劇場に足を運んでほしいと切に願う。
  • 2回観たが、記憶力が悪いのでところどころ記憶違いから劇中の出来事について事実誤認があるかもしれない。もしあれば3回目観たときに直します。

 

 本作の主人公は湘北高校宮城リョータ、舞台はインターハイ2回戦、原作漫画で描かれる最終戦となる山王工業戦である。冒頭、リョータが過ごした少年期の沖縄のシーンから始まり、その後40分の試合と、彼の試合までの人生が交互に重なり合って描かれる構造となっている。大きな筋書きとしては、少年期に兄を失ったリョータがその痛みを抱えながらそれでも前に一歩進んでいく決意を得るまでを、過去と試合を重ね合わせながら描いていくという内容だ。

 本作を全体的に論じるのは私の能力を大きく越えるので(それほど傑作だったと思う)、一番衝撃的だったシーンから説き起こして、それがどのような意味を持っている(と私が受け取った)かについて記述していきたい。

 本作で最も衝撃的だったのは、映画終盤のとあるシーンだ。これは過去の回想というたぐいのものではなく、高校生になったリョータが自身の過去のとある場面に迷い込むシーンとなる。自分の過去を現在の視点から見つめ直すシーンとも言える。

 少年期に亡くなった父と、その写真の前で喪服でうな垂れる母。そこに立ち会う兄ソータ、リョータ、妹のアンナ。

 これは実際の過去の場面の反復である。実際の過去は映画冒頭に描かれ、そこでは、陽の当たる縁側の外から妹の手をつないだまま動けないリョータと、父の遺影を前に室内の暗がりでうな垂れる母、同じく室内にいて母に歩み寄り、肩に手を置いて自分がこの家のキャプテンになると宣言する兄の姿が描かれる。8歳のリョータは母と兄の後ろ姿をただ眺めることしかできず、兄のソータもそのすぐあとに亡くなることから、あのとき踏み出せなかった自分に対して彼は悔悟の念を抱き続ける。

 高校生となって、湘北のユニフォームを着たリョータは、そのときの場面にふたたび立ち会う。これはあくまでも彼の過去に起こったことではなく、心象風景としての過去である。同じく父の遺影のまえで暗がりのなかうな垂れる母と、母を後ろから眺める兄ソータがいるが、今度はリョータは室内へと歩みを進める。そして、リョータは母の頭にそっと手を置くのだった。

 私はこのシーンに心底ギョッとした。なんて残酷で怖ろしいシーンなのだろう、と。

 彼は実際の過去のソータがそうしたように母の肩を抱くのではなく、母の頭に手を置いたのだ。リョータは高校生となり、当時12歳だったソータと同じくらいの身長ではありながら、明らかに筋肉質な身体になっている。いつの間にか、少年期に憧れ、その人に成り代わり役割を果たそうとした兄よりもよほど立派に成長したリョータの姿が絵として示され、その点は極めて印象的なのだが、それにしても身長は同じくらいなのである。同じような背格好なのだから、同じように肩を抱いてもおかしくないように思われるが、ここでは頭にそっと手を置くのである。これが映画の終盤で登場すると観客には特別な意味が発生しないだろうか? すくなくとも私にはそのように思われた。『THE FIRST SLAM DUNK』において宮城リョータのその手のひらの下に視聴者がずっと見てきたものは、劇中でそれまでも、そして劇の終わりまでもバスケットボールだからだ。つまり、私には、リョータがそっと母親の頭に手をあてるシーンは、母親の頭というひとつの球をバスケットボールとして扱った瞬間として読めたのだ。あのまま母親の首がもげて、地面を跳ね始め……ることはさすがにないだろうが、それを連想してしまうほどには怖ろしいシーンだった。

 ところで、リョータはずっと兄の出来損ないの影にすぎなかった。兄が残した役割を果たすことができなかった。少年期、海岸の秘密基地からの帰り道に、ソータは自分を家族のキャプテン、リョータを副キャプテンに任命する*1。副キャプテンに任命された以上、父に代わって家族を守る決意を持った兄の跡を継ぐのはリョータのはずであった。だがそれは果たされない。兄の死後のバスケの試合でリョータは死んだソータと引き比べられたうえ、いい結果を残せなかった。その後、リョータはソータの部屋でソータの服を着て、ソータの仮面をつけ、ソータのバスケ雑誌を読みながら紙面の選手に自分を重ねて夢想する。リョータにとって憧れの兄の姿は、やはりバスケをしている姿だった(この時点で母カオルとリョータのソータ像にすでに違いがあることがわかるだろう)。そうしている部屋に母カオルが入ってきて、兄の遺品を片付け始め、家も引っ越してしまおうと告げる。遺品を片付けようとする母をリョータが制止したことで母カオルは感情的になり、兄の服を脱がせようとリョータと揉み合いになる。リョータはその部屋で兄の仮面をつけて兄になることを夢想したのだが、リョータは自分が思う兄の姿に成り代わることを当の母親に拒絶されてしまうのだ。そこから先は喧嘩をしたりバイク事故を起こしたりと、母を悲しませることばかりしてしまう。ちなみに、彩子と夜の林で会話するシーンで、水溜まりの水面に映る月の影(月が満月であることに注意)は兄の写し身としてのリョータの姿の変奏だったように思う。

 それゆえ、兄に成り代わることはリョータの一つの悲願であったとも解される。あのとき踏み出せなかったリョータが母に歩み寄ることは、リョータがついに兄に成り代わることができた場面とも受け取ることが可能だっただろう。

 しかし、リョータは兄に成り代わることができたのだろうか?それは半分正しく、そして全面的に間違っている。

 母に歩み寄るリョータから切り返しのカットでソータの顔が正面から映される。ソータは左目から涙を流しており、右目からは流していない。これは劇場で観た人はわかると思うが、顔の右半分には家族を守りたいという決意が宿っており、左半分は近しい人が亡くなったことを年相応に悲しむ気持ちに満ちている。その表情をしたソータは画面中央に位置しており、その人物がリョータと母カオルを眺めている。彼に欠けていたはずの死を悲しむ気持ちと、家族を守りたいという意思は、すでにソータの左右の顔で示されている。リョータはすでにそれらを持っている。その二面をリョータが獲得した(から兄を通り過ぎることができた)とも言える。ソータが画面中央に配置しなおされているということ、そして歩みを止めて見ているだけの人物であることから、このソータはあの日のリョータの写し身であるとわかる。そのソータを乗り越えてあの日の母に触れることができたのだから、リョータが兄に成り代わることができたと言うことも半分は正しい。

 ところが、そうすると、母に歩み寄る高校生のリョータはいったい誰なのだろうか?という疑問が湧く。

 その答えが、母の頭に手を置くという所作に凝縮されているように私は思う。兄ソータの横を通り過ぎて追い越し、母の頭をバスケットボールにしてしまったリョータはここで世界の組み変えを行っていたのだ。そう、バスケに心身のすべてを犠牲として捧げてしまった怪物が彼の正体である。リョータが辿り着いた答えは、バスケで高みを目指すために、バスケを中心に一番大切な兄も母をもその一部として配置し直すということであったのだ*2。そうして彼は生まれ直したのだ。リョータのみがその後を描かれるのは(当然主人公だからというのもあるけど)、彼が心身のすべてをバスケに捧げたからこそだ*3。あの場面は、他ならぬ宮城リョータの願望として、バスケに心身のすべてを捧げたことがわかる象徴的な場面だったのだと思う*4。それゆえ、リョータはたしかに現実に母カオルと和解したが、それは兄ソータに成り代わることで達成されたとだけ述べるのは正しくない。兄の役割も持ちつつも、まったく別の人物に、あるいは宮城リョータ宮城リョータという人物になったからだ。

 ちなみに、リョータにそうさせたのは仲間と敵の存在があったからだ*5。ゴリの願いはバスケそれ自体ではなく、真剣にバスケでテッペンを目指す仲間を得ることで、それはすでに山王工業戦の時点で叶っていた。桜木は人生の栄光すべてをあの試合に捧げた。自分の願いを何に捧げるのか。その点で、沢北はリョータに先駆けてバスケに心身のすべてを捧げ切ってしまったもう一人の怪物である。彼に勝つためには、リョータ自身も心身のすべてをバスケに捧げ切ってしまわなければいけない。その困難を抱えるシーンに過去の幻影を見るシーンが繋がれる。

 ところでこの沢北にも怖ろしいシーンがある。敗北した山王工業の選手が控室まで戻る廊下で彼が膝を折って泣くシーンである。彼は試合前、神社で祈願する。高校でできることはすべてやった、もし今の自分に足りないものがあるのならそれをください、と。結果、彼は神から敗北を賜ることになるのだが、彼の泣き声は笑っている声にも聞こえる。負けて悔しいという気持ちに嘘はないだろうが、同時に、負けて悔しいという気持ちすらもバスケに奉仕する部分として受け入れ、必要なものだったと喜ぶように。これは、母親をもバスケを中心とした世界の一部に配置し直す宮城リョータと相似形、似た者同士である。

 リョータや沢北といった、自分の願望のためにすべてを利用し、敗北すら利用する(リョータについてはその未来を予感させる)キャラクター類型は、しばしばアニメや漫画で描かれる一類型だと思うが、通例悪役として出現するように思われる*6。近年のアニメでもっとも純粋かつ強烈にこの類型を体現しているのは、アニメメイドインアビスの黎明卿ボンドルドではなかったか。誰が犠牲になろうが、あるいは自分自身を生贄として差し出そうが、アビスの深部へと潜っていくのをやめられない人間の欲望。ありていに言えば業。メイドインアビス最大の敵キャラとの対決は、自身の欲望を貫かずにはいられない、人間のエゴイズムとの対決であった。そしてそれは目に見える残酷描写として絵に表れる。あるいはまた、キャラクター類型から離れても、エゴイズムの発露それ自体が後ろめたいものとして描かれることは多い。つい最近の例を採ると、アニメぼっち・ざ・ろっくでぼっちちゃんが望まないと知りながら、喜多ちゃんが文化祭でバンドをやりたいがために申請書を提出する行為は、彼女に罪悪感を抱かせるものであったし、ぼっちちゃんに罪の告白と謝罪もしていた。文化祭でバンドをやりたいという自分の欲を貫くことは、どこか後ろめたい、卑しいものとして描かれる。主人公ぼっちちゃんにしても、承認欲求の塊であるにもかかわらず、その表出は怪獣が街を破壊するような恐ろしいこととして描かれる。他者を支配しかねない自身の欲望は、どこか後ろめたいものとして描かれてる。私も性質としてはぼっちちゃんに近いので、我を通すことはどこか卑しい人間のすることだと思う傾向にある。ふつうの人間がエゴイズムを貫こうとすれば、そこには少なからぬ後ろめたさが伴うし、完全に貫ける者は通例大悪役になれる素質を持っている。

『THE FIRST SLAM DUNK』にも私はエゴイズムの香りを感じ取って戦慄したのだと思う。しかし、どうにもそこに悪や後ろめたさを感じない。怖ろしさはある。ここが『THE FIRST SLAM DUNK』最大の肝だと私は感じているのだがどうだろうか? 本作が人間のエゴイズムに対してひとつの在り方を提示していることが、本作を紛うことなき傑作にしている淵源であるように私には思われるがどうだろうか?

 本作映画の公式副読本として『THE FIRST SLAM DUNK re:SOURCE』という書籍が販売されている。井上雄彦はインタビューで「映画作りに後悔はまったくない」と述べ、「では、今回の挑戦でプラスになったと感じていることはあるのだろうか。」という問いに対しては「きれいごとは言わず、自己中心的な喜びで言うと」「絵がうまくなった」と回答している。また、かつて漫画を描くときに「直感だけを武器に、心身を差し出して描く」ことをしてきたと述べている*7。作者に作品を還元する作品理解は個人的にはまったく好きではないので本来やりたくないが、本書を読んで、宮城リョータの姿に井上雄彦の姿が重なって思えた。

 絵を描いて、物語を紡いで、その修練の果てにさらに絵を描いて、物語を紡ぐ営為がある。絵に対する徹底した執念*8が画面の端々にまで浸透している。画面上に終始、一朝一夕ではどうにもならない祈りに似た修練の、途方もない積み重ねを私は感じた。だから感動した。だが、修行者のなれはて、メイドインアビスでいうところの黎明卿ボンドルドの姿もそこに見えるのだ。しかし、なぜそれでいて私は邪悪をそこに感じ取らなかった、あるいは感じ取れなかったのだろうか。あるいは感じ取っている人もいるのだろうか。

 エゴイズムを貫くことに対して井上雄彦が出す答えがそこにあり、それゆえにこの映画は傑作なのだと思う。いままで私が読んだり観たりしてきたものとは別方面からの回答を与えられた気がした。私もこのあたりを明確に言語化できていない。年が明けたら3回目を観に行きたいと思う。

 

 他にも印象に残ったシーンとか、気づいた仕掛けとかいっぱいあるんだけど、それはまた余裕があればということで。

*1:ソータもバスケしか知らない少年なので、父の代わりに家族を支えることをバスケになぞらえてしか噛み砕けなかったのだろう。そのことがある意味その後の弟リョータの重荷になってしまう。少年の精一杯の背伸びと少年であるゆえの当然の限界を同時に感じる哀しいシーンだ。

*2:彼が歩を進めた先が陽向から暗がりへの移動であったことがより一層この場面の不気味さ、怖ろしさを増幅している。

*3:海外で挑戦するリョータの姿が描かれるラストシーンは兄が消えた海を渡ることができた場面と捉えると感動的である。

*4:本作は音響も非常に印象的で大胆だが、人生とバスケが重なり合う、もしくは互いに溶け合ってしまうことが音でも象徴的に表現されている。2回目の視聴で気付いたが、ド、ド、ド、ド、と繰り返される音は、心臓の鼓動やバスケットボールが床を跳ねる音として本作に通底して響く音である。リョータが少年期から抱えてきた「ずっと心臓バクバク」は彼がずっとバスケをしてきたことの証左でもあるのだ。本作を通して、バスケは彼の心臓となった(あるいは彼はバスケに自らの心臓を捧げた)。ドリブルにこそ身長の低いリョータが活路を見出したこととも平仄が合う。また、冒頭1on1後の兄ソータがリョータの頭を胸に抱きしめるシーンと、リョータが母カオルの頭に手を置いたあと、自身の胸に母の頭を抱きしめるシーンとは同型反復の呼応関係にあるが、どちらも心臓の音が相手に聴こえるであろう接触である。そして後者において母カオルの頭部がバスケットボールなら、リョータはそのバスケットボールに心臓を差し出している。心臓の拍動がバスケに写し取られ流れ込んでいく瞬間である。

*5:ここらへんは作劇の巧みさがヤバい

*6:漫画『ちはやふる』の悪役じゃないはずの各種人物とか、アニメ『ガン×ソード』の各種登場人物とか…。我を貫くと味方であろうが主人公であろうが、時に完全な悪役となりうる。

*7:ここではアニメ制作過程には言語化が必要で、直感だけではない武器が必要になったことについて述べる箇所なので少しずれた引用になっているかもしれない。

*8:最初「邪念のない執念」という言葉が思い浮かんだけど言葉としてさすがにおかしいので止めた。

希死念慮と体調不良のサンバ。それと仕事の近況について。

 希死念慮と体調不良を行ったり来たりするステップを踏んでいる。生と死の間ではなく、死と死の間でサンバを踊る数か月だった。来年は一仕事片付いたら大学病院で検査を受けることにする。11月くらいからまともに仕事ができない日が多いので社長、スタッフ、その他皆々様方にはたいへん申し訳ないと思っている。希死念慮は通年の病だが、体調にもダイレクトに変調をきたす頻度も増えている。10日間ほどほど布団からほとんど起きられない生活をしていた時期もあり、たいへんに厳しい。今日はいけるかな、と思っても図書館で一番下の段の本を取り出して立ち上がると、眩暈を起こして床にどさっと倒れこむ、などの様々な限界事例が起き、やはりたいへんに厳しいものがある。

 親しい友人諸氏には自分の羞恥心から明かしていなかったが、最低限やらなければならない仕事を複数抱えていながら、かつ、自分のことを自分でできない状態に陥っていたため、これはもうどうにもならないとついに観念し、田舎の母親に助け求め、身の回りの世話をしてもらうために東京に来てもらうなどしていた。12月初旬のことである。入院している大阪の祖母の調子が芳しくなく、母が田舎と大阪を行き来する生活をしている中、それをわかった上で呼ばざるをえなかった自分が情けなく、一方、自分が死んでしまわないためには仕方がないだろうという諦めという名の図々しさも持っていた。私はクズである。

 というわけで仕事の進捗はあまりよろしくない。やろうと思ったことの2割程度くらいしかできていないしやっていない。私の不甲斐なさもあり、社長判断で私が面倒を見ている店舗の方針に変更があり、結果、やろうと思っていたことは道半ばで停止することとなった。納得はしている。この一年の成果から判断するに、社長の判断は極めて合理的であり、これからは新しい道筋に沿っていかに事業のリスクを取り除き、いかに軌道に乗せるのかに専心することが自分の仕事だと理解している。

 ただし、悔しい気持ちはある。おそらく、私にしか見えていない未来の姿があった。もしかしたら、あと半年、一年堪えれば見えてくるものもあったかもしれない。いや、必ずあったしすでに一部は起こっていた。思い描いたことのすべてを実現できていなくとも、その兆しはいくつも見出すことができたし、いくつもの果実を実際に摘み取った。しかし、そこまで待てないという判断だったのだろう。先ほども書いたが、経営上は合理的な判断だ。しかしながら、私は、社長に、店長に、スタッフひとりひとりに、言語を尽くして説明できていたろうか。私の気持ちばかり先行して、しばしば他者に強く当たり、マネジメントの失敗を何度も繰り返しもしたが、もっとはやく自分の愚に気付く契機はなかったのだろうか。現在、伝えきれなかった悔しさと、できなかったことができるようになったことと合わせて棄却されてしまう危惧を感じている。後者の危惧にかんしては、マネジメントの手法を変えてもその手法のもととなった理念に間違いはなかったこと、その方針までブレてはいけないことを今後も譲らず主張していくつもりだ。いちおうメモしておくと、それはプロダクト製作における下記のいくつかの原則である。

  • 顧客の体験価値の向上をプロダクトの目的とすること
  • 提供する顧客の体験価値の内容をシンプルかつ明瞭に言語化できていること
  • 製作過程および対応するリリース後の結果を事後検証のために記録すること
  • 過程と結果を量的質的両面で計測し評価と修正を行える体制を整えること

 詳細は別の媒体でまとめて発表するようにとの社長からのお達しがあったため、具体的な内容については記載を控えるが上記は会社の方針として固定されるよう働きかけを続けるつもりだ。今日社長と話したときに言葉の端々から上記原則ごとまとめて棄却される惧れを感じたが、それは別の媒体に赤裸々に記述させてもらうこととする。私は、辛酸を嘗めた、苦々しい、失敗の記憶と記録として記述し、公開するつもりである。事実は事実として書く。嘘をついても仕方がないので。

 以下は蛇足だが、自分のヘマと不甲斐なさを棚に上げて敢えて吐き出すことにする。前回の新商品のレビュー会では、私が努力して作り上げてきた方針が、私の影響力が体調不良等で弱まったとたんにまるごと吹き飛び、激しいバックラッシュを起こしていた。ヴィジョナリー主導、かつテクノロジー主導の隘路に嵌っているように見えたのだ。この見立ては間違っていないと確信している。そうならないように頑張っていたつもりなのだが、かつての良くない体制(マネジメントもクソもない、混沌)に逆戻りする傾向である。私が頑張っても定着しなかったのだから私のせい、あるいはもともと定着するさせることに無理があった、という意見はあろうが(実際に言われた)、本音では、道半ばで砕いたのは私ではないという忸怩たる気持ちがあることもわかってほしい。

 ヴィジョナリー主導とはトップの一握りの人が未来を描き、それに向かって突き進んでいく企業方針だ*1。私はまったくこれを信用していない。なぜなら、①人間の才能は枯渇することがしばしばあるから(学ぶ習慣がなければ30歳くらいをすぎると目に見えてしぼんでいくのが世の常)。②ビジネスの環境は刻一刻変化するゆえ、個人の才覚による方針は容易に環境に合致しなくなる不確実性を抱え込むから。持続可能性がない。センスに恃むものはセンスに足元を掬われる。年齢を重ねるならばハビトゥスを形成せよ。習慣は第二の自然であることを理解できないものは自らの才覚にいずれ泣くことになる。

 次にテクノロジー主導は企業のテクノロジーを中心にプロダクトを作り上げていく企業方針だ。私はこれも信用していない。マーケットとのフィットを等閑視しがちになるからだ*2。開発者は、上司と業界関係者に向けて技術を披露することに執心するようになるのが必定である。事実、今回の商品レビュー会はそうなっていたと私は判断している。商品は持っている技術と知識から考案するしかないのだが、技術と知識は顧客の体験価値に奉仕するべきであって、技術と知識に奉仕するのではない。なまじっか経験と経歴があると陥りやすいビルドトラップである。

 そういうわけで、顧客の体験価値向上を中心に据えたプロダクト主導開発が、我が社でもあるべき姿であると私は信じているのだが、他のみんな(社長とか店長とかそのほかスタッフとか)はどう思っているんでしょうね。また、プロダクト主導開発は評価方式の決定とそれに沿った情報収集、および事後の評価も併せて必須であると考えるが、これにはたいへんな手間がかかる。この点もネガティブに思われているように思う。私自身いまの会社の業態で、次に活かせてしかも結果につながる検証方法を模索している最中にあって悩んでいるため、社内での説得力が欠けているのが現状だ。

 体調不良もあるし希死念慮もあってしんどいし、がんばっても意味ないんじゃないかと思うこともしばしばあってしんどいけど、来年は仕事がんばるよ。

 私は根暗で、悲観的で、自己評価が著しく低く、他人への猜疑心が強いので、杞憂にすぎないことを膨大に考えてしまうし発言してしまうけど、そのぶん考えるべきことも考えているので、そこに絞ってみんなと話せるように努力します。

 来年は仕事をがんばる年にします。

 まあだめだったら死ぬよ。あはは。

*1:メリッサ・ペリ、吉羽龍太郎訳『プロダクトマネジメント』参考

*2:同上

死にたいし死んでもいい気がしてきた

全員なめくさりやがって

クソが

人生ほんとうに良いことがない

なにかを賭ける価値がない

お前も、お前もだ!

なめくさりやがって

しばらく生きると思うがもう生きる気力がない

無理

つかれた

 

xxxHOLiC実写映画を観た感想覚え書き

 5月15日、xxxHOLiCの実写映画を劇場に観に行きました。以下、備忘程度の覚え書きです。

 

弁明

  • 下記ネタバレを含む可能性があります
  • 筆者は中学生~高校生にかけてCLAMP作品にドはまりしていた時期があります
  • 筆者の一番好きなCLAMP作品は『東京BABYLON』です
  • とはいえドはまりしていたのは十数年前のことなので『xxxHOLiC』原作コミックスのエビソードの記憶はかなり抜け落ちています
  • 映画を観た直後の感想のため、思い付きで書く部分も多いです
  • 思い付きで書いてしまう部分の検証は今後する場合もあるし、しない場合もあります
  • 一人の偏ったファンの、個人の意見と思って読んでください

 

 

感想

 漫画実写化映画というジャンルの中では満足感がありました。「満足感が」と言うのは、原作ファンとして、CLAMPファンとして楽しめる部分があったということです(一方で解釈違いも多かったのですがそれは後述)。物語上の破綻も少なく、そうでありながら原作コミックス全編のエッセンスやサブエピソードが各所にぎりぎり無理ない程度に配置されていています。長編コミックス原作の実写映画は、原作ファンに配慮して無理にエピソードを詰め込みすぎたり、物語の進行を無理やり早めて急ぎ足になったりと、映画単体で観た際に意味不明な展開が続く事態を起こしがちです。たとえば、鋼の錬金術師実写映画一作目では、展開が早すぎて登場人物の心理変化の原因、感情の起伏の原因の描写がじゅうぶんに説得的ではなく、情緒不安定な人物が突然キレて弟を殴り出したようにみえるシーンがあり、原作を読んで映画で足りない部分を知っていれば理解はできるものの、ふつうに観れば異常な行動に見えます。本作ではその点、ある程度抑制的であり、かつ、サブエピソードの登場人物に豪華ゲストを起用するという仕掛けを使って違和感を満足感に昇華させていたように思います。

 メインキャラクターたちのビジュアルも(いろんな意見あるでしょうが個人的には)よかったと思います。柴咲コウがかっこよくて美人だし、吉岡里穂はかわいくて美人だし、玉城ティナは目が大きくて派手な顔してて顔小さいし、松村北斗もかっこいい。特筆すべきは松村北斗で、ビジュアルも演技も本作で一番原作キャラとの合致度が高いキャラクターだったと思います。松村北斗のためにもう一度劇場に足を運ぶ人もいるんじゃないでしょうか。

 そして、神木隆之介はというと、演技面でもほかの若手キャストと比べて明らかにベテラン感というか貫禄が滲み出ていて違和感があったのと、ビジュアル面でもほかのキャストと比べ見劣りしていました。顔の派手さに欠けるし、スタイルも悪いし、走り方はコントみたいだし(auのCMの意識高すぎ高杉くんをどうしても想起してしまう)、顔も大きいし、肌も汚いです。劇場だと肌がドアップになるので、コンシーラーでがんばって隠してもほかのキャストとの落差がはっきりしてしまいます。

 ただ、この肌の汚さが観客に見えてしまうのには意図があったと思っています。物語が進むにつれて、肌がきれいになるようメークをしているし、髭も手入れしてあるし、髪の毛もぼさぼさだったのがつやつやになっていっていたように思います(1回しか見ていないので記憶違いだったらすみません)。本作映画では、四月一日以外の人物の心理的な変化や成長はほとんど描かれません(ほとんど描写されないだけで存在しないとは言っていない)。あくまで本筋は四月一日が孤独な生活から、侑子さんやひまわりちゃんや百目鬼との交流を通じて自分の想いを他者の中にも見出して癒されていくというものです。神木隆之介の肌や髪がきれいになっていく過程は、四月一日が他者の想いを自分に取り込むことで周囲の美形の存在に近づいていく過程とも受け取れます。そしてその一方で皮肉なことに「怪異を見ないでふつうの生活がしたい」という当初の願いから逆行していく過程でもあり、行き着く果てには侑子さんその人がいます。四月一日が自分のほんとうの願い、想いに気づいていくことで、他者と近づくことができたにもかかわらず同時にひまわりちゃんや侑子さんと別れる悲しみをも抱えなければならなくなったことが、ふつうの人間(髭もはえればニキビもできる)から芸能人然としていくビジュアルの変化(微小なものですが)によって表現されており、これはまた、3次元のリアルな人間が2次元に近づいていく過程にも重ねられ、CLAMP作品の美麗な登場人物への同一化は漫画原作実写映画に対する一種のメタ的な視点も与えてくれます。

 耽美的だとか色づかいがとかそういう感想はわりとどうでもいいので(ほかの人も書くと思うので)書きません。キャストは松村北斗がよかったです。彼がジャニーズのどのグループに所属しているかどうかもよくわからないくらいの知識しかないですがとにかくよかったです。そういう意味ではCLAMP好きではない層にもちゃんと届く映画だと思います。

 

 その一方で、気になるところも多々ありました(ネタバレ要素多めになると思います)。下記、書き散らしていくかんじになります。

 

 冒頭シーン、四月一日が自ら命を絶とうとするシーンがありますが、四月一日ってそんなキャラだったっけ??と思いました。ただこれは2時間弱の尺の中で四月一日の孤独と絶望が他者との交流によって癒されるというストーリーラインを構築するために致し方ない改変であるとも思います。しかし、原作の、どれだけ不幸な境遇であっても存在に不安を抱えていても、生活者であるゆえの四月一日の強み、芯の部分が抜けてしまったように思えました。

 

 怪異から逃げて新宿駅東口地上から新宿歌舞伎町を抜け、ゴールデン街らしきところに迷い込むと侑子さんの店が現れるというシーン、ゴールデン街から侑子さんの店につながるという設定は原作勢としては解釈違いかもです。というか侑子さんの店の場所に関して、私の原作の解釈がかなり強いためそう思うのかもしれません。以下に説明します。

 原作の店はビルに囲まれた立地にあります。店が必要でない者にとっては建物は存在せずただ空き地があるようにしか見えないのですが、店は周囲が時間の流れとともに開発が進み古い建物が立て替えられても、そこだけが開発の影響を受けずに残った建物のようにみえます。かなり高いビルに囲まれているように見えるので(原作のすべてのコマを見直したわけではないので記憶違いかもしれないから検証必要かも)私も以前は、東京のどこだろうと考えて銀座や日本橋三越あたり?)、丸の内をイメージしていました。もちろん、漫画やアニメに描かれている街のモデルを現実に求めることは、「聖地巡礼」がメジャーになった現在の価値観からの押し付けになりかねず、事実、ファンの現実にあったとしたら、現実にあってほしいという願望の投影であるように思います。しかしあえて、これは私が半年くらい前に思いついた仮説なのですが、あの店の立地のモデルというかイメージのもとになっている場所を強いて現実に取材するなら、大阪の船場地区なのではないか?と私は考えています。具体的には旧小西儀助商店あたりが侑子さんの店をイメージしやすいと思います。これはファンの願望の投影しているだけとの謗りを免れませんが、そのとおりです。でもそう考えると複数の観点から整合が取れるのでこのまま続けさせてください…。江戸時代、日本の経済の中心地は江戸ではなく大阪であり、さらに船場地区はその商人文化の中心地でしたが、第二次大戦前後を通して、谷崎潤一郎が『細雪』でその凋落を描いたように大阪の上流階級が培った文化は船場言葉とともに失われていきます。今となっては高層ビルが立ち並ぶ地区ですが、そんな中、時代に取り残されて佇んでいる店が侑子さんの店のイメージなのではないだろうか? すると、「対価を求める」という掟も、飲み食いが大好きという気質も、船場の商人の気質と考えれば整合が取れます。また、大阪の船場文化はCLAMP大川七瀬が風月でお好み焼き食べてた(当時は鶴橋駅の近くにしか店舗がなかったはず)とどこかで発言していたと記憶していて、少なくとも大川七瀬の生活圏は大阪でも下町だったのではないかと思いますが)の祖父母世代の人たちから受け取る機会があったはずなので、ギリギリ彼女たちが知っていて、そして失われたものとしてイメージされているのではないか。私の地元に当てはめると、名古屋の上流階級のおばあちゃんが「~なも」という上品な言葉で話すのをギリギリ聞くことができたことに似ています。とまれ、侑子さんの店の立地は過ぎ去った時代の残像として、そして実際にはすでに失われたものとして、原作で描かれているように思うのです。侑子さんの店はすでに失われたもの、過ぎ去ったものであり(そして「すでに失われている」ということは物語の根幹にかかわる)、それゆえに、そういうところに来る人も、何かを失った人、取り返しがつかなくなった人である、と考えることができます。

 長く書きましたが、私の仮説では、侑子さんの店の立地と侑子さんの存在は切っても切り離せない関係にあるので、侑子さんの店の立地をゴールデン街の奥地に移すならば、なにかしら別の説明を求めたく思います。しかし、本作映画の新宿歌舞伎町、および新宿ゴールデン街は、人々の欲望と悪意が渦巻く場所、くらいの描かれ方しかされていません。「人々の欲望と悪意渦巻く → 侑子さんの店」という図式はわかりやすいですし、劇場用映画の時間の制限内で説得力を持たせるには一役買うでしょうが、原作ファンからするともう少し考えてほしいと思ってしまいました。それに加えて、私は歌舞伎町周辺に職場のひとつがあるのですが、本作映画の描き方はそこで何十年生活している人たちの生活を捨象して初めてなりたつ図式のように感じられます。そのため、違和感はかなり強かったです。原作では一見幸せそうな都市生活者の闇(見える人にしか見えない闇)を扱うエピソードが多かったように思いますし、きらびやかな都市の裏側(それは高層ビルが覆い尽くして隠してしまったもの)を見せるのが『東京BABYLON』にも通底する原作コミックスの面白さだと思います。歌舞伎町周りの治安はよくないと思いますが、だからといってその街を人間の悪意や欲望の表象として扱うのは短絡のように思います。そもそもCLAMP作品において『X』『カードキャプターさくら』等々で描かれる通り、「東京」という都市は非常に特別なモチーフです。劇場で東京の街並みが映ったとき、CLAMPの東京への憧憬と屈託がどのように劇中で表現されているかと注目しながら見ていましたが、新宿歌舞伎町、および新宿ゴールデン街をたんに欲望と悪意渦巻く街ととらえて侑子さんの店への入り口とする想像力は、私にとってはあまりに屈託がなさすぎるというか、CLAMP作品に対する解釈違いでした。

 

「新宿歌舞伎町、新宿ゴールデン街で生活している人の生活を捨象している」と私は書きましたが、生活者の生活を捨象する描き方は映画のはしばしに感じました。細かいですが、掃除のシーンではまともに雑巾がけできていなかったですし、なんのためにハタキを使うのかわからない所作をしているのにハタキを手に持って何かしているシーンは正直滑稽でした(スタッフの誰もハタキの使い方を知らなかったのか、そもそも関心がなかったのだろうか…)(幸田文のエッセイを読むと幸田露伴にハタキの使い方を厳しく躾けられたエピソードが出てきますよね(余談です))。食事シーンも4人で食べているのに、全員から箸が伸ばしにくい場所に大皿の料理(肉じゃがとか)が置かれており、配膳が実用に適っていないように見えました。食器類も黒色で統一されていましたが、あまりに日常づかい感がない食器ばかりで、あたたかみが感じられなかったです(もしかして谷崎潤一郎『陰翳礼讃』リスペクトだったりするんでしょうか?それにしてはそもそも部屋が明るくないですか?)。さきほど、原作において四月一日くんの強さを支えているのは生活者としての在り方だと触れました。私には原作コミックスを読んで大事なところに思えるのですが、本作映画では生活描写(そして生活とは細部こそ重要)がボロボロなのです。本作映画における、卵焼きをめぐる「自分の作る料理は好きじゃないから食べない → 侑子さんの好みに合わせて甘めの卵焼きを作る → 自分で食べても美味しいと思う」という一連の流れは、侑子さんを鏡としながら、四月一日くんが自分の想いに気づいていくという心理変化を料理というアイテムで表したものと読み取れ、ストーリーライン上重要な位置づけとなり、かつ原作コミックスとも矛盾を生じないものだと思いますが、映像になると肝心の生活描写ができていないため台無しになっています。脚本レベルで意識されていたであろう、プロットとアイテムの対応関係が、映像になってみると生活描写に厚みがないため説得力に欠けたものになっています。それならば脚本のほうを書き換えるか、映像のほうを充実させるかどちらかにするべきだったのではないでしょうか。原作コミックスの四月一日くんなら、マル(演:DAOKO)のお茶碗の持ち方や手皿で食べる所作も注意しそうなものですが、一度ならず何度も何度もその所作が反復されるのもよくわからなかったです。そもそも双子キャラなのだから、両者で大きく所作が異なる理由もよくわからなかったです。

 

 あといくつか。

 夜が明けたシーン。フジテレビの球が見えたのでお台場方面を撮っていたと思うんですが、なぜお台場だったのか。東京の夜明けの定番なんでしょうか。

 それと、これはほんとうにどうでもいいところが気になったのですが、百目鬼の実家の寺が日蓮宗なのはちょっと解釈違いかな…。真言宗とかの一般的に呪術的なイメージの強い宗派だと思っていました…(これはオタクの勝手な願望です)。(ロケ地は日蓮上人の龍ノ口の法難で有名な龍口寺のようなので日蓮宗にとっては超重要な場所ですが。)

 もうひとつ、お酒はもっと銘柄がわかるように撮ってほしかったような…。ただ酔っぱらうのではない、お酒大好き侑子さんの姿が見たかったです。

 

とりとめもなく書き連ねましたが、感想は以上です。

2022年2月進捗報告

 16日に四谷近くで仕事があったので仕事終わりにイグナチオ教会に寄って祈ってきた。

 腰かけて両手を組んでうな垂れると、多くの人たちにとっては取るに足らない者たちの、敗れていった人生たちについての想念でいっぱいになり、そして自分自身の軽薄さ、無能、卑小さを痛感した。過ぎ去ったこと、取り返しのつかないことだけが心を埋め尽くす。

「祈り」がどういう行為なのか私にはわからないが、私にとってはああいう時間は人生において不可欠なように思える。

 仕事をしていると、それはそういうものだし重要性も理解するが、誰かが何かに卓越しているかだとか、事業が成功したかだとか、その性質上、卓越や成功でもって評価される価値体系に自らを置かなければならない。しかし、そうではない生のありかたはたしかに存在し、常に自らの傍らに置き続けられなければ、私の人生は真に無価値なものになってしまうだろう。

 教会付属の書店で購入した『奥村一郎選集8 神に向かう〈祈り〉』には下記のような記述がある。

 

神のみ前にあって、「ここにいます」という私、その私は祭壇の供え物になるような美しいものでも、すばらしいものでもなく、くだかれたもの、むなしいものでしかない。「ある」と言えば、その虚無のみじめさだけ、としか思えなくなったとき、はじめて、まことのキリスト者の祈りとなるのである。(p.150)

 

「まことのキリスト者の」という箇所はひとまず脇に置くとしても、「祈り」がこういうようなものであることは私にも実感がある。

 そして、奥村は詩編の下記の記述を紹介する。

 

神へのいけにえとは、ただ、わたしの、「くだかれた魂」
 
 敗れ去ったもの、砕け散ったもの、惨めで虚しいもの……。むしろ人間の真価はこちらのほうにあるように私には思われる。
 
 いい生活はしたいし、事業は大きくしたいし、そういう気持ちもちゃんとあるけども、それとは別に、という話でした。
 
 それでは2月の進捗報告。
 
①7kg痩せる。運動して痩せないと死ぬので。
 1月東京に戻ってきたときと比べるとー0.7kgだった。これも誤差の範囲内だと思われるので、3月末には1kgは減っているよう頑張りましょう。
 振り返ると、後半は仕事忙しくてダイエットどころじゃねぇよ、という破れかぶれ状態だった。仕事の調整もダイエットの範疇だとすると難易度が高い…。
 
②引き続き貯金
 たぶん全然できないでフィニッシュだな。税金を払うので。
 
③翻訳なんとかする。
こちらも現時点で動きなし。語学の勉強については後続の目標を参照のこと。
 
④英語の勉強する。TOEIC受けることにする。800点超えれば合格とする。
 TOEIC用の英単語帳は400語まで終了。2月、休日も働いてたからぜんぜん進んでないな。3月中に一周したいな。
 それとは別の単語帳・熟語帳はループに入っている。
 英文解釈は『英文解体新書2』も2月3日以降進められていない。2章終わらせる予定だったが、これはまとまった学習時間を確保しないとできない。やばい。仕事に押しつぶされていた…。実際には2章2節まで終わって、5節まであるので半分も終わっていない。クソが。
 あらたな取り組みとしては、少ない時間でディクテーションを始めるなどしている。200語くらいの文章を何度も聞いて書き取りをする作業だが、冠詞や関係詞の聞き落としが多い。前者はたぶん意味として頭が把握できていなくて、後者は強勢が置かれないので聞き落としてしまうのだと思う。効率が悪いからディクテーションはやらないという人もいるけど、私にはかなり効き目があるように思う。
 また、山川世界史Bの英訳を寝る前に読むなどしている。…ただこれは勉強に含めてよいかわからない程度の分量。
 
⑤3泊以上の旅行を1度する。
クソが。
 
⑥『論理と集合から始める数学の基礎』を終わらせる。
 『英文解体新書2』と英単語を一通り終わらせないことには着手できない。
 
⑦読んだ本36冊について感想を書き留める(これはevernote管理)。
 2月は3冊読んで感想を書いた。上記の『奥村一郎選集8』もその一冊。
 
⑧調べ学習系のブログ4本書く。
 4月には一本あげたいので、関連する書籍を繫げて読んでいく必要あり。
 
日商簿記3級取得(受験申込をするとか、試験場に行くとか、そういうのが一番のハードルだったりする)。
6月くらいに一度受けましょう。
 
⑩自炊洗濯掃除といった家事全般をこまめにやって生活を整える。
自炊はほぼ絶滅しつつある、2月の終わり。
洗濯は洗濯機洗浄もしていいかんじ。
掃除は大掃除をする予定だったけどできず、部分的に、トイレ、キッチン、風呂はきれいにした。今週末3連休とって勉強も掃除もいっぱいしようと思ったけど、およそ一日の三分の二ほどくたばってた。疲れがむちゃくちゃたまっているようだ。自分をいたわりつつプライベートの時間も確保しないと死んじゃうな…。クソが。
 
以上です。

2022年1月進捗報告

 さっき晩御飯にスパゲティ・マリナーラを作りましたが、わりと思い描いていた形に近づけた気がします。到達点に近いものはおおよそ把握した。

 ジューシーだけどシャビシャビじゃないこと。そうでいて食べ終わったときにソースがお皿にほとんど残らないこと。逆に、もったりもしていないこと。ニンニクの香りだけでなくて、トマトの香りも油にしっかりと移っていること。アンチョビは生臭くなく、トマトは缶詰臭くなく、ニンニクの焦げた香りがなく、ネガティブな要素は排除されていること。一口目はちょっと固いかなくらいであること(1.4mmだから食べる時間でどんどんアルデンテは進行する)。

 ポイントですが、アンチョビで旨味を底支えしているからトマトは入れすぎない、トマトはしっかり焼いて香りを油に移す(缶詰の香りと水っぽい香りが変性する瞬間がある)、そのあとに水を足してソースにたりない水分を補う、です。アンチョビのクオリティはたぶんすごく大事で、私はわざわざ電車に乗って自家製のものを魚屋さんに買いに行っています。辛味はしっかり効かせて、仕上に乾燥オレガノで香りづけして、熱々を無心にかきこむとおいしい。

 あとは再現性を確保するために何度も作ればいい。

 

 さて、本題です。

 今年は1か月おきに年始の抱負の進捗報告をすることとします。毎月点検しないとあれやこれやを言い訳にして放置してしまうからです。

 1月は仕事がそこそこ忙しかったです。もうしばらく続きます。在宅でできない役所への届け出や工事の立ち合いやその他もろもろがあるため、あっちやこっちに電車に乗り継いで出かけています。体力がめっきり衰えて、ついでに身体も重いのでその点は辛いです。

 

①7kg痩せる。運動して痩せないと死ぬので。

 1月実家からこちらに戻ってきたときに計った体重と比べると100g減っていました。誤差の範囲内であり、進捗はありません。

 しかし、現状維持は前向きに捉えてよかろうと思います。なぜならいままで増加の一途だったため。

 そもそもが食べる量が多いのだ。食べ過ぎで体重が増えているので、食事量を減らせば2~3kgくらいはスッと落ちる目算です。中旬にストレスでたくさん食べてっしまったため、2月は少しずつ食事量を減らしても満足できる習慣をつけます。外食の際、もう一品を追加するのを止める、夜簡単にパスタを自炊するだけで終わらせるときも100gで我慢できるようになる、などが肝心です。

 いまは外出がある日が多く、歩き回っているため運動不足ということはないと思われます。お医者さんに怒られない程度には運動しているという意味です。外出のない日も1時間は外を歩くようにして軽い運動をしています。もう少し体重が落ちればもう少し運動らしい運動も取り入れようと思います。2月末にはあと1kgは落とさないと目標に間に合わないので頑張ります。

 

②引き続き貯金

 リュックサックを買い替える、英単語帳を買い揃える等、ちょっとずつ出費があり、月間目標の達成は難しいかもしれません。2月からがんばります。

 

③翻訳なんとかする。

 現時点で動きなしです。語学の勉強については後続の目標を参照ください。

 

④英語の勉強する。TOEIC受けることにする。800点超えれば合格とする。

 今後のスケジュールとしてはTOEICの試験を8月、11月に受験する予定です。

 いま取り組んでいることとしては、単語、単語、熟語、英文解釈です。

 TOEIC用の英単語帳を購入して始めています。現在300語まで終了。大学受験との語彙のかぶりが相当数あるため、現時点で負荷は大きくありません。ビジネスシーンで使う訳語が乗っており、知らなかった知識もけっこうあります。今後の計画としては、同じシリーズの上級英単語と熟語帳の2冊まで含めて11月の試験に間に合うようにします。

 そのほか、大学受験用の英単語帳、熟語帳を復習としてやりなおしています。やってみるとけっこう抜け漏れも多い…。謙虚に学びなおしをします。

 TOEICの単語帳2冊、熟語帳1冊を2周してそれ用の語彙を頭に入れて、大学受験用英単語帳2冊、熟語帳1冊を数周して盲点を潰し終わったら、英検準1級と1級用の英単語帳で一気に語彙力を強化しにいきます。

 語彙については今年上記のように進めます。

 英文解釈は『英文解体新書2』を進めています。2月中に第2章まで終わらせます。いまのところおおよそ解けていますが、間違えるところはちゃんと間違えます。訳は合っていても文構造を取り違えているとか、訳語の選択が文脈に合っていなかったとか、そもそも知らない文法事項があったとか、等々。間違えた箇所も基本的な文法規則をひとつひとつ適用して、わからないところがあれば辞書を引いて取り組めば解けるはずのものばかりとはわかっているのですが、そうとはいえど間違える。悔しい。読解の基礎部分の見落としがあったときには、毎回ツェズゲラの顔になっている。「久しく忘れていたな… あのひたむきさ…! もう一度一から鍛えなおすか… …くくく そういえば基礎修行などここ数年やっていないな…」と独語する日々。去年『ポレポレ』をやり直して『英文解体新書』を1周したけど、ちゃんと間違えるな…。悔しい……。悔しいよ………。ほかにも数冊テキストやってみようかな。友人は『透視図』『ルールとパターン』『英文解釈教室』をこの1か月くらいでこなしたらしく、私もやってみようかな…。

 基礎の鍛錬はどれだけやっても果てがない。単語も英文解釈も。やればやるほど深くなる。

 そのほか、やるべきことは以下。

 ・文法事項の総ざらいをどこかでする(8月まで)

 ・リスニング対策(まだ具体的に方策を立てていない)

 

⑤3泊以上の旅行を1度する。

 このための貯金も必要だな。11月TOEIC試験終わったくらいが狙い目かも。温泉旅館でゆっくりしたい。

 

⑥『論理と集合から始める数学の基礎』を終わらせる。

 進捗なしです。英単語がひと段落ついたら再開します。

 

⑦読んだ本36冊について感想を書き留める(これはevernote管理)。

 なんと1冊も読了できていない。

 

⑧調べ学習系のブログ4本書く。

 ⑦と連動するはずなのでこちらも進捗なし。

 

日商簿記3級取得(受験申込をするとか、試験場に行くとか、そういうのが一番のハードルだったりする)。

 実務で仕訳作業をしているので、少し勉強すれば受かるはずだけど、仕事ひと段落したら一回試験受けてみます。

 

⑩自炊洗濯掃除といった家事全般をこまめにやって生活を整える。

 1月はいまいちかも。

 

 2月もがんばります。